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地球人スピリット・ジャーナル1.0

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2009年4月1日

地球人スピリット
・ジャーナル2.0


へ引越しました。

2009.02.22
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カテゴリ:バック・ヤード

<1>よりつづく

「ウェブ社会をどう生きるか」 <2> 再読
西垣通 2007/05  岩波書店  新書  182p 
★★★★★

 前からすこし気になっていたので、あらためて読みなおしてみた。前回は出版された直後に走り読みしているのだが、自分が期待する内容が書いていないと、あとはほとんど目にも入れないような勢いで読み飛ばしてしまうので、書籍全体としての価値を評価できていなかったようだ。

 こうして出版後1年半経過したところで読みなおしてみると、実によくまとまった透明度の高い本だと思う。当時、当ブログもまだまださまざまな本を読み込み中で、同時進行で出版されていた同種の本にも十分目が行っていなかった。今回読みなおしてみると、当ブログの読書量もだいぶ増え、この本に引用されている他の本の価値さえも自分なりに判断できるようになった。

 この本、今読んでも決して古くない。「ウェブ社会をどう生きるのか」というタイトルだとするなら、その内容で実によくまとまっている本だ。ネット社会と呼ぶか、ウェブ社会と呼ぶかはともかくとして、現状と問題の把握、そして決して過激ではない提言の数々。読んでいて、安心するような説得力だ。しかし・・・・、それでもやっぱり、私の中ではあと40%くらい、もっと他のものを求めているようだった。

 「インターネット的」で糸井重里が書いていた。

 さて、筋肉系の工業化社会→神経系の情報化社会ときて、そのあとにはどんな社会がくるのかということも、なかなか興味深いことです。ぼくは、それは「魂(スピリット)の社会」なのではないか、と一見オカルトに聞こえますが、思ってます。
 感動とか、センスとかいうものがどんどん価値をあげていくのだとしたら、それは「魂の満足」を求める社会でしょう。
 「食物を持つ・生きられる満足」を得ようとする農業社会の時代が、「ものを持つ・力を持つ満足」の工業化社会の時代に移行し、「ことを持つ・知恵を持つ満足」の情報化社会がきたのですから、次は、持つことから自由になって「魂を満足させることを求める」社会がくるのではないかと考えても、そんなに不思議ではないとも思うのですが。
「インターネット的」2001/07 p114

 ここで糸井が言っている「魂(スピリット)の社会」とはいかなるものだろうか。それは、すでにやってきているのだろうか。あるいは糸井自身は、いま現在、それをどのようにとらえているのだろうか。彼の本なり活動についてはほとんど何も知らないが、ちょっと前なら「ゲドを読む。」というゲド戦記のセールスプロモーション本をめくった程度だ。

 西垣通の一連の本を読んでいて、限りなくこの「魂(スピリット)の社会」への矢印には気がつくのだが、その社会そのものについては語られることはない。いや、この本にかぎらず、この著者にかぎらず、インターネットと魂(スピリット)の社会をダイレクトについて語りきっている本は多くないのではないだろうか、などと考えていて、ふと次の文章が目についた。

 私は情報学の研究のかたわら小説も書いているので、これは自分の思いでもあります。クリエイターにとって作品は精魂込めたものですから、自分の名前を示さず勝手に使われたり、あるいは改竄されたりすることは耐えられません。p41

 前回は飛ばし読みだったので気がつかなかったが、著者は小説も書いているのだった。ググってみると、彼の小説はネットでも読めるようだ。なるほど、そうであったか。西垣通という人は、いわゆるデジタルな部分とアナログな部分を合わせ持った人間のようだ。

 私はデジタルな著者ばっかりみていて、積極的にアナログな表現をしていることに気がつかなかった。著者もまた、アナログな部分はアナログに任せて、デジタルなものはデジタルで、という割り切り方をしているのだろう。私はデジタルな部分の著者にアナログ、アナログ、と言って、ないものねだりをしていたのだろう。ここは西垣通という人の小説も読んでみなければなるまい。

 思えば、梅田望夫が「ウェブ人間論」で対談した平野啓一郎も小説家だったし、「ターシャム・オルガヌム」の解説を書いていた小森健太朗も小説家だった。ゾルバ・ザ・ブッダのゾルバも小説「その男ゾルバ」が原典なのであり、Oshoは「私が愛した本」においても多数の小説のタイトルをあげているのだった。

 自称「プロの嘘つき」村上春樹について、当ブログでは彼のノンフィクション的な側面だけにアプローチしてきたのだが、今後は、この小説嫌い的体質は大いに反省して、今後はすこし小説も積極的に読んでいかなくてはならないだろう。ウェブ社会がアーシングするのは小説を通してか。

 そこまで行って考えた。宗教と言え、チベット密教と言え、これらはいわゆるアーシングとしての小説とつながっているのではないだろうか。タントラだって、マンダラだって、必ずしもノンフィクションとばかりは言えない。フィクションとまでは言わないまでも、人間の想像力に大きく依存していることは間違いない。しかし、ここまでくると、次のような反論もでてくる。

 それは、アメリカ人カルロス・カスタネダが創作した仮空の人物である「ドン・ファン」のようなフィクションではない。この男は人類に対する大いなる害をなした。人は霊的虚構(スピリチュアル・フィクション)を書くべきではない。その理由は単純で、人々が霊性(スピリチュアリティ)とは虚構にほかならないと考え始めるからだ。OSHO 「私が愛した本」p173

 さぁ、かなり微妙な話になってきた。

 私が小説を書く理由はひとつだけです。個人的存在の尊厳をおもてに引き上げ、光をあてる事です。物語の目的とは、私たちの存在がシステムの網に絡みとられ貶められるのを防ぐために、警報を鳴らしながらシステムに向けられた光を保ち続ける事です。私は完全に信じています。つまり個人それぞれの存在である唯一無二なるものを明らかにし続ける事が小説家の仕事だとかたく信じています。それは物語を書く事、生と死の物語であったり愛の物語であったり悲しみや恐怖や大笑いをもたらす物語を書く事によってなされます。生と死の物語や愛の物語、人々が声を上げて泣き、恐怖に身震いし、体全体で笑うような物語を書く事によってなされます。だから日々私たち小説家は、徹頭徹尾真剣に、創作をでっちあげ続けるのです。  村上春樹 エルサレム賞受賞講演

 当ブログ第二ステージではこのあたりを十分考慮していかなくてはなるまい。 






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Last updated  2009.02.24 09:06:05
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