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カテゴリ:バック・ヤード
新聞の宅配をやめてから、なんと23カ月が経過してしまった。あっと言う間だった。一か月持つだろうか、と実験的に始めてみたのだが、なんの不足もなく私の日常は推移した。最初の頃こそ、ちょっと禁断症状がでて、よそのお卓に訪問した時など、傍らにころがっている新聞が気になってしかたなかった。たまに読めば、これがなかなか確かに面白かった。 しかし、最近はもう見ない。面倒くさい。昔、新聞は多いに役立ったものだった。毎日毎日学校に行く時は、アルマイトの弁当箱を包むのは、新聞紙以外にはなかった。端午の節句、兜を折り紙で作るには新聞紙以外の素材はなかった。季節の変わり目には、畳の下に敷くのは新聞紙だった。トイレだって、ロールペーパーがない時代は、おおいに新聞紙が活躍したものだ。 最近、新聞紙は邪魔ものだ。すぐに家のなかの祖大ゴミになってしまう。ちり紙交換だって、あまりいい顔しない。どうかすると、最近は新聞紙を廃棄するのだって有料、という時代になってしまったのだ。 髪の毛ふさふさで永遠のジャーナリストのような風情の鳥越俊太郎だって、1940年生まれの69歳、最近、大病して棺桶に足を半分入れかけてしまった。筑紫哲也は昨年73歳で鬼籍にはいった。入れ歯があわないのか、しゃべっていることがよく聞き取れなくなった田原総一朗もすでに74歳。テレビ界のジャーナリストたちも、もはや博物館の蝋人形と化しているかのようだ。 言論統制の第二次世界大戦下の抑圧から解放された時代、高度成長期においてジャーナリストという人たちは、自由を謳歌していい思いをしたのだと思う。その思いがどこまでも拡大していくものだ、という幻想を持っていたのではないだろうか。今、若い自称ジャーナリストたちは、このおおらかな先輩たちの業績をどのように見ているのだろうか。 当ブログで以前のページに貼り付けた写真は、日本に「復帰」して二か月後の沖縄を訪ねた私自身の18歳の「雄姿」だ。この後、この新聞社に私は抗議のために「突入」した。遠く離れた地で発行した私のミニコミがなぜかこの年、無断でこの新聞に掲載されたのだった。なぜか。これはこの新聞社の独時の取材ではなかった。つまり共同通信社の配信した記事を、安直に自分の新聞の文化欄に貼りつけただけだったのだ。 それまでも朝日ジャーナルやNHKテレビにも取り上げられていたが、それは直接取材されたものだった。だけど、この新聞での取り上げられ方は、実にいい加減な穴埋め記事に使われただけだった。自らのミニコミに込めた自分の思いは、このように消費されるのだ、と18歳で理解して以来、私は共同通信社というところを信じていない。この本でなんと美辞麗句を並べても、この会社の人間を長く続けた著者については、私は胸襟を開くことはできない。 ジャーナリズムは、当ブログにおいて、テクノロジーやスピリチュアリティと並べて、三本柱の一つと重要視しているが、いわゆる職業ジャーナリストとしての特権的な独尊的態度は受容できない。ジャーナリズム的態度は、公平性、客観性、先進性など必要不可欠な要素ではあるが、それを職業的に特別視する時代は終わったのではないか。 各論的には、ジャーナリズムの行ってきた業績は評価されることも多いし、ジャーナリズムにしかできないことも確かにある。そして残されている課題というものも、わからないわけではない。しかし、総論的には、著者のいうような形での「ジャーナリズムの可能性」は限りなく縮小傾向にあるのは間違いないだろう。 古き良き時代を体験したジャーナリストたちが、それぞれに「遺言」を残していくのは許すとしても、時代は、これらの老兵たちの屍を踏み越えて、新しきジャーナリズムを見つけてしまったのではないだろうか。そしてその新しきジャーナリズムは、もうジャーナリズムとは呼ばれないかもしれない。 「ジャーナリズムは戦争を防げるか」p141という問題意識からして、過去の自らのあやまちを顧みない、傲慢不遜な態度としか言えない。ジャーナリズムが「戦争を防げる」としたら、ジャーナリズムは「戦争を称賛」することさえできることになる。ジャーナリズムがなかったら、起きなかった戦争さえある。ジャーナリズムが戦争を防げるか、という問題意識はもう古い。 戦争を防ぐのはジャーナリズムの良識ではない。地球人ひとりひとりが意識的になってスピリチュアルになる以外に、戦争が「終わる」可能性はない。ジャーナリズムの良識は、スピリチュアルな意識のネットワークによって、乗り越えられていく以外にない。その時、戦争は起きることができなくなる。防ぐ必要さえなくなるだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.02.27 23:44:49
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