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カテゴリ:バック・ヤード
<第1期>ラスト8冊目 彼の本は売れているのだろうか。ひょっとすると私が推測していたよりも売れてはいないのかもしれない。図書館を検索すると、割と彼の本の蔵書は少ない。熱狂的ファンはいるのかもしれないが、一般的には広い層から支持されているとは言えないのかもしれない。特に日本では、ある種の色付けのなかで紹介されてきたから、敬遠された嫌いもないではない。 かくいう私も昔から気になる作家ではあるが、いまいち、周辺の狭雑音にさえぎられて、なかなか素直に胸元を開けることができない時代が長かった。今回、当ブログの読書モードのなかで「グレース&グリット」や「存在することのシンプルな感覚」を読むことによって、だいぶ彼のイメージは変化した。 この本は彼の最新刊であり、ゆっくり読んでみたい本であったが、収めている図書館は少ない。人気がなくなってきているのだろうか。それとも、マニアックで偏った人気になっているのだろうか。今回は、前半はわりと素直に、共感しながら読めたところが多かった。後半はまたすこし急ぎ足になって、文字列だけを目で追うことになった。 美も、善も、真も、あらゆる主要な言語において、一人称、二人称、三人称の別名なのである。なぜあらゆる主要な言語に見られるかといえば、美も真も善も、すべて実在(リアリティ)の非常に現実的な次元だからである。三人称(それ)は、客観的な真理を指し、科学によって最もよく探索される。二人称(あなた、私たち)は、善を指す。それは私たちすなわちあなたと私が、お互いをもてなす方向を指す。誠実に、正直に、敬意を持ってお互いをもてなすこと、言い換えれば、基本的な徳性(モラリティ)を指している。そして一人称(私)は、自己と自己表現を扱い、芸術、美学、見る者の目(アイ、すなわち「私」)に宿る美である。 日本語において一般的には真善美の順番で語られることが多い。彼がいうように順番はどれでもいいのだが、赤ちゃんが最初はおっぱいをみつけ、次に母親をみつけ、最後に泣いている自分に気づく、という順番があるとすれば、科学、芸術、徳性という並びなのだが、あまりこだわる必要はあるまい。科学(サイエンス)と芸術(アート)はわりとすっきり固定した言い方になるのだが、三つ目はなかなか一定した言い方はない。宗教、意識、道徳、徳性、倫理、など、さまざまな言い方がせれるが、もっとも卑近な言い方は宗教だろう。しかし、この言葉は手垢がつきすぎていて、万人受けするズバリという言い方ではない。 当ブログでは、この第一期最終期において、コンテナ(科学)、コンテンツ(芸術)、コンシャスネス(意識)、という言葉の並びを好んで使っている。コン、という接頭音のゴロのリズム感がいいのと、宗教や道徳、というより「意識」と言ったほうが、臭みがすくないように思うからだ。 学者にしろ、普通の人にしろ、(英語圏の)人々が「スピリチュアル」という言葉の使い方を分析すると、ほぼ4つの主要な意味があることに気がつく。もちろん、普通の人々は、こうした術語を使わないが、明らかに「スピリチュアル」という言葉は、(1)どのラインでもその最も高次なレベル、(2)別の一本のライン、(3)状態の至高体験、(4)特定の態度という4つの意味で使われている。私のポイントは、これらの用法のどれもが正統的であるし、実際の現実(リアリティ)を指し示しているということであるが、私たちは、この4つのうちのどれを意味して「スピリチュアル」と言っているのかを区別しなければならない。そうしないと、会話(議論や対話)は果てしなく混乱する。そして、どこへも行かない。さらにすでにもう終わった議論を繰り返して、重荷を増やす。私の人生で、これほど、多くの人が、これほど多くの言葉を費やして、これほど意味のない会話をする「単語」はない。p146 この辺は、どうも日本語としてはあまり素晴らしい翻訳とは言い難いが、きっと英語の原文もわかりにくいところなのだろう。また、日本語でも、近年この言葉は流行語のひとつに数えられているのだが、実にわかりにくい単語のひとつであることに変わりない。 当ブログでもタイトル名にこの単語を使っているわけだが、最も高次で、もうひとつ別のもので、至高状態で、特定なもの、というイメージに変わりはない。そして、その高次で至高で、もうひとつ別な特定なものとは、指し示せないもの、サウンド・オブ・サイレンス、沈黙、無、空を意味することになる。言葉で表せないものを表そうとするのだから、もともと合理的な話ではない。つまり無理なのだ。 自分は、「レッド」「アンバー」「グリーン」「ティール」「ターコイス」「インディゴ」「ヴァイオレット」「ウルトラ・ヴァイオレット」の、どこにいるのだろうか。p170 著者は、この本において、主体の意識の在り方を色の段階で表そうとしている。赤、オレンジ、グリーン、青緑、青、紫青、紫、薄紫の、その位置をもとめようとする。いかにも統合と分析を繰り返して、新しい味わいの「スピリチュアリティ」を演出する著者の技だが、意識の状態を虹色のそれぞれに対応させようとするのは、かならずしも著者の独自な発想でもなければ、めずらしいことでもない。 インドのヨガやチベット密教の7つのチャクラは、これら7つ(8つ)の色に対応させてあることが多い。もっとも虹のグラデーションには境目がないのだから、何色とは区別できないのであるが、わかりやすいところで七色の虹、などと言われていることが多い。ここから抽出されて、赤、黄、青の三色が使われることもあるし、赤、緑、青が使われることもある。また、黒、赤、白の三原色が使われることもある。 科学がスピリチュリティを拒絶するのはわかるが、なぜ、人文学全体が、攻撃的にスピリチュアリティ、内省、意識、主観性を拒絶したのだろう。p399 著者の疑問や発想は、シンプルなものだが、その思考や論理づけ、解説は難解になってしまうことが多い。さまざまな潮流からたどりついた多岐に渡る概念を「インテグラル」しようとするから、そうならざるを得ないのだが、インテグラル「しよう」とするところに無理があるのも事実なのだ。 インテグラルしようという男性原理ではなく、さまざまな潮流を、流れ着いた順に自然に受け入れていく体制だけを作ってしまえば、もっと女性原理的な、しっかりとシンプルな体系ができあがると思うのだが、著者においてはそれはかなっていない。 スピリチュアルな本の著作家は、カプラからディーパック・チョプラに至るまで、神秘主義には科学的な根拠がある、ということを示せば、スピリチュアルな世界観あ人文学にも受け入れられるだろう、と感じている。しかし、それはまったくの間違いである。敵は決して科学ではない。どっちみち科学は聞く耳を持たない。敵は間主観主義であった。スピリチュアリティが、量子力学や、ダイナミック・システム理論や、カオス理論や、オートビエーシスで根拠付けられると示そうとしたことで、彼らはまっすぐに間主観論者の手に落ちたのである。p407 禅システムの理解者であり、チベット密教タントラの体験者でもある著者だが、その「悟り」は、かならずしも万人のハートを打つような境地に至っている、とは言えない。むしろ、彼がとびぬけた知性を持ちながらも、なお到達しえないスピリチュアルなポイントに向おうとする、その姿の生々しさに、この数十年の時代をともにしてきたジェネレーションは共感するのであろう。 当ブログにおけるコンテナ→コンテンツ→コンシャスネス→の循環システムのなかで、まだつながり得ないミッシング・リンクがあり、いずれはそのリンクはごく当たり前につながるものとするならば、そのヒントのいくつかはこの本や、彼の仕事になかにも隠れていると思う。そういう期待をしてしまう一冊である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.02.16 09:23:06
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