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カテゴリ:バック・ヤード
カウントダウン! <第1期>最後の4冊・目 コンテナとしてのインターネットが限りなくクラウド化していく中、コンテンツとしてのインターネットは、限りなくアーカイブ化している。この本は図書館運営のプロたちがこのインターネット化の波の中で現状を語り、未来を考えている。インターネット化のなかで新聞記者を中心としたジャーナリストたちが危機感を持つのと同様に、図書館のプロたちは、インターネット化の中で、出版や図書館の未来に強い危機感を持っている。 インターネットの進化に関してはほとんど楽天的な推進派である当ブログだが、「Googleとの闘い」を読んでハッと気づいたことがあった。思えばあの本の著者ジャン・ノエル・ジャンヌネーは、ごく最近まで5年間にわたりフランス国立図書館長をつとめた人物だった。こちらの本の著者の一人である長尾真は京都大学の名誉教授でもあるが、現役の日本における国立国会図書館の館長である。 そして、多くの現役の図書館に関わる人々の立場から、現在の図書館の意義と問題が多角的に浮き彫りにされている。図書館、あるいはアーカイブズの定義は細かく言えば必ずしも定着しているものではないが、当ブログにおいては、図書館は出版物として流通しているもの集積であり、アーカイブズは、AVや郷土資料、行政出版物の集積、という理解のレベルでいいだろう。 当ブログは、コンテナとしてのブログ機能がなければ存在しなかった。ホームページ作成でもなく、メーリングリストでもなく、SNSでもなく、ブログであったことが、よくも悪くも当ブログの性格を決定づけた。いや、もっと言うなら、「楽天ブログ」であったことによって可能になったことと、限界になってしまったことがあった、ということが今では分かっている。 しかし、そのブログ機能を足かけ5年、実質3年間曲がりなりにも続けてこれたのは、身近な図書館、という機能があったればこそである。その図書館も以前から存在していてようやく私がその存在に気づいたということではない。図書館も変わったのだ。限りなく使いやすくなった。 当ブログにはたくさんのアクセスがある。日本国内からは、行政や地域プロバイダを通じてほぼ全都道府県からアクセスされていることが確認済みである。また驚くほど大学からのアクセスも多い。最初、東京大学からのアクセスが気づいたのが最初だったが、国内外おおよそ70ほどの大学からアクセスされていることが確認できている。そしてなお、大学の中でも一番アクセス数が多いのは東大からだということには、パジャマを着たままの、気ままなブロガーでしかない私としてもちょっと驚く。 確認のために大学のリストをアップして、参考までに図書館の詳細検索のページにリンクを張っているが、実は、これほどの多数の大学であったとしても、その蔵書を検索しようと思えば、全国の大学の横断検索を使えば、これほどのリンクは不要なのだ。Googleのトップページのように一個の窓に本のタイトル名か著者名を書きこむだけで、日本全国の大学の蔵書検索を利用することが、原則的には可能になっているのだ。 しかしこの変化も実はこの数年のことと思われる。コンテナとしてのインターネットがクラウド化するととともに、コンテンツとしての図書館も、インターネットの波の中で自らのアーカイブ化を限りなく進化させている。当ブログは現在のところ指折り数えて約1600ほどの書籍を読みこんできたことになるが、将来的に利用可能な形で提供されているコンテンツを利用しきれることは絶対にありえない。現在は手元にある図書館利用カード数だけでも二桁ある。今後、これを利用していくには、当ブログなりの、レファレンスがなければ、またまた情報の迷路に迷ってしまうことになるだろう。 図書館とアーカイブズだけでは我々が有する知識全てを網羅して管理できるているわけではない。暗黙知の世界が別に存在する。見方を変えれば図書館やアーカイブズは暗黙知を形式知に変換し、保存し、提供するという際限の無い努力を支える社会制度と見ることもできる。p44「日本における文書の保存と管理」 利用しきれないコンテンツがある一方で、更に限りなくアーカイブされなければならない暗黙知とともに、反面、アーカイブされることを拒む「知」もある。 菊池(略)ところが、日本ではどうかというと、それぞれの教団なんか仏教寺院、社寺なんかに良質の文書なりアーカイブズが、図書があるんですけれども、それが相互に利用できる形になっていないし、検索できるような形になっていない。あの辺のところをお互いに横につなぐような形のことができれば、随分日本文化力といいますか、そういうものが高まるだろうと思うんですね。 過去のエスタブリッシュメントたちが自らを保守しようとする意図はあからさまで、新しい動きには敏感に反応する。バチカンにとってはニューエイジの動きが気になる。バチカンは過去にたくさんの間違いをした。そして現在でも多くの迷信の源泉になっている。バチカンもオープンソースとしてその重い扉を開かなくてはならない。そう容易でないが、遅かれ早かれ、バチカンシステムはいずれフェードアウトする。 長いこと神秘の扉に閉ざされていたチベット密教は、歴史ドラマの狭間の中で自らの秘すべき教義を、静かにオープンに紐ときはじめている。国内外のスピリチュアリティの流れもいずれは、インテグラルされる運命にある。日暮れて道遠し、まだまだ未来のことにように思えるコンシャスネスとしてのインターネットにおいても、明らかな変化が起きている。 クラウド・コンピューティングのブラック・ボックスのシステムには手を出せず、アーカイビングされた膨大な知の海を活用しきることなど思いもつかないが、コンシャスネスとしてのスピリチュアリティ・インテグラルには、まだ当ブログとしてコメントをし続けたい。もし今後も当ブログが存在し得るとするならば、この点になんらかの足がかりを見つけることが肝要となる。 コリエロさんは、インターネット上の若者たちのつながりを大人たちが過小評価することをいつも不満に感じていたという。ネットで育まれた友情やつながりは、現実社会にも大きな影響を与えると考えていたコリエロさんは、ネット上に若者たちの「国連」をつくりだしたいと考えたのである。「デジタルネイティブ」p138「ネット上に『国連』をつくりだせ ~デジタルネイティブの『フラット革命』~ 我々は今、新しい国連を作ろうとしているのだろうか。あるいはGoogleがつくろうとしている「世界政府システム」の立ち上げに参加しているのだろうか。 日本におけるデータベースの低迷の背後には、日本人の精神構造があるのではないかと思われる。そこには、いろいろな複雑な問題がある。たとえば、革新的なパーソナルコンピュータ製品はなぜ日本ではできなかったか。日本では、そのための部品はほとんど生産されている。結局、全体を組み上げることができなかったのであろう。日本人は、全体を構想するよりも、細部の彫琢にこだわるのではないか。「角を矯めて牛を殺す」という社会風潮である。p102 山崎久道「データベースの思想」
Last updated
2009.03.08 16:35:32
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