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地球人スピリット
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マルチチュード

2006.10.21
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カテゴリ:マルチチュード
「<帝国>」グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性 
アントニオ・ネグリ マイケル・ハート 2003 原文2000 第一部 現在性の政治的構成

 まずはともあれ、この本に目を通しておく必要はあるのだろう。これだけのまとまった本を読むというのはそうザラにはないし、また、読んだとしてもそう簡単に身につくものでもないだろう。ましてや、このブログの中で、この本を読みきるには、なかなか雰囲気もペースが違いすぎる。

 しかしまぁ、頁をめくる程度には読んでおこうと思う。500頁を超える大作なので、4部構成になっているので、とりあえず1部づつ感想を書いておこう。第一部は現在性の政治構成、まず国連の話題から始まる。この本の原書は2000年に書かれているので、9.11以前の論文ということになる。

 たとえば、マキアヴェッリが、新しい社会を下から構築するプロジェクトに必要なのは「武器」と「貨幣」であると提言し、それらを外部に求めなければならないと主張するのに対して、スピノザはこう応じるのである。すなわち、「私たちはすでにそれらを所持しているのではないか? 必要な武器は、マルチチュードの創造的かつ予言的な力のなかにまさに備わっているのではないか?」、と。私たちもまた、ポスト近代性の革命的欲望のなかにみずからを位置づけながら、こう応答することができるだろう。すなわち、「私たちはすでに「武器」と「貨幣」を所持しているのではないか? マキアヴェッリがその必要性を主張する類の貨幣は、じつをいうと、生政治的な生産および再生産の直接的な担い手であるマルチチュードの生産性のなかに備わっているのかもしれないのだ。同様に、ここで問われている類の武器は、ポストモダンの指令の寄生的秩序を自らの生産力でもって妨害し破壊する、マルチチュードの潜勢力のなかに含まれているかもしれない」、と。p96

 さぁ、すべてがこの調子である。これを我が物として読み下すのは私にとっては至難の業だ。しかし、ここから少しわかるのは、ネグリ&ハートが、どうやらマキアヴェッリを一定程度評価しているらしいということ。そして、マルチチュードという言葉は、まずはスピノザが使い始めているらしい、という程度のことだ。

つづく






Last updated  2009.02.04 19:09:01
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2006.10.20
カテゴリ:マルチチュード
「チョムスキー、民意と人権を語る」 
レイコ突撃インタビュー 2005



 
「レイコ@チョート校」や「9.11ジェネレーション」の岡崎玲子が「覇権か、生存か」ノーム・チョムスキーに突撃インタビューするという企画である。なぁ~んだ、すでにこういう企画があって、すでに終わっていたのね。お釈迦様の手のひらをあっちに行ったり、こっちに行ったりする孫悟空の姿にさもにている自分が、ちょっと情けない気分にもなる。

 いずれにせよ、48歳の年齢の開きのある二人の対談には、なかなか興味引かれるとことが多い。さも、お爺さんが孫娘に語りかけている、とも取れるような対談に、ほほえましいものを感じながらも、レイコの若きジャーナリストとしての才気煥発なことや、チョムスキーの他人に対する愛情深いことなどが、本書からも読み取れる。

 レイコが私立チョート校の担任教師が
ハワード・ジンを教科書と併用していたというと、チョムスキーは、それは非常にまれなケースだが、教育システムはそのように機能することが理想的だと指摘する。

 チョムスキーの15歳の孫は、日本に行きたがっていて、2004年の夏に日本を訪れ、シブヤから離れられなかったらしい、と彼は言う。通常の書物ではなかなかこういうエピソードがつかめない。このインタビューはマサチューセッツ工科大学のチョムスキー研究室にて行われた。

 レイコは「インタビューを終えて」「愛国者チョムスキー」でこういう。

 チョムスキー教授は、その名前が辞書に載っている権威をもって特定の思想を売りつける気などさらさらない。彼が伝えようとしているのは、自分が導き出した結論ではなく、そこへ至るまでの過程(ぷろせす)。自身のメッセージを押し付けるのではなく、一人ひとりの人間が自らの意見を持つことを願っているのであろう。p83

 なるほど、そう言われてみれば、確かにこの辺がものたりないところでもあり、また、よいところでもあるのかも知れない。私は今ネグリ&ハートのマルチチュードを探索する過程でチョムスキーの著作に触れることになった。ネグリ達は確かに自らのビジョンをより明確に定義しようとするが、チョムスキーは、現状を把握し、「立ち上がれ」と激を飛ばす、というぎりぎりのところでとどまる、という姿勢だ。

 チョムスキー教授は自分の影響力を承知しているだろうが、それ以前に、一人ひとりの地道な熟考と活動こそが世界を動かしていると確信しているにちがいない。そうでなければ、誰もが読破をためらうような資料を発掘し、葬られた真実を指摘し続ける使命に、これほどのエネルギーを注ぐことができるだろうか。p85

 なるほど、レイコにここまで言われると、マルチチュードという複数形の名称にとどまるネグリ&ハートよりチョムスキーのほうが、より地球人スピリットに近いかな、と思ったりもする。しかしながら、この言葉をチョムスキーの文章から私はまだ見つけることはできない。あえていうなら、ネグリやチョムスキーより、よりレイコが一番地球人スピリットに近い、ということができるかもしれない。

 なぜアメリカのあり方をそれほどに批判するのかと聞かれると、チョムスキー教授は自分が最も深く把握でき、直接的に変化を促すことができる対象であるためだと説明している。私も日本という国の方向性について自分なりのヴィジョンを描くために、与えられた情報に満足することなく問題意識を持ち続けていきたい。その心構えが現実に意味をもつのだと改めて悟り、MITをあとにした。p89

 巻末に国連の「世界人権宣言」がある。こうして文章として読むのは初めてだ。そういえばOshoの「新人権宣言」という本があることも、あわせて思い出した。






Last updated  2009.02.04 19:06:52
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カテゴリ:マルチチュード
「G8」 ってナンですか? 
ノーム・チョムスキー 2005

 
「覇権か、生存か」は、私にとっては、必ずしもグットタイミングな読書ではなかった。著者についての知識もまったくなかった。しかし、検索してみる60冊ほどの彼の著作があった。一冊一冊当たってはいないが、今日、図書館にいったら、目についた本があったので、借りてきた。

 この本もはっきり言って、いわゆる「地球人スピリット」というものにダイレクトに関わってくる部分は多くない。むしろ、このような世界的政治情勢の解説を読んでいこうとするなら、それなりの枠組みの中でもう一度読み直してみなくてはならないのだろう。この本もアメリカの18人の識者によるオムニバス本だ。いちいち感想を書くより、各章の文章の最後の結句だけを取り上げたら面白いかもと思う。

 「序章」ジル・ハバード、ディヴィッド・ミラー
 G8は自分たちを、信仰心のあつい慈善家のように装っています。しかし、私たちは騙されないでしょう。p12

 「グローバリゼーション」ノーム・チョムスキー
 未来はこうした人々の手にあるのです。危機的な状況をどれだけ強調しても、しすぎるということはないでしょう。p53

 「民主主義」コリン・レイズ
 むしろ民主主義がもっと見せかけのものとなり、見せかけの民主主義ですら成り立たない状況になっているのです。p70

 「戦争」リンゼイ・ジャーマン
 反帝国主義運動になりつつある反グローバル資本主義の運動が、反戦争および反占領主義運動を強め、世界を変える原動力となるのです。p84

 「大企業の権力」オリビエ・ホードマン
 グローバル・ジャスティス運動にとって、G8へ抵抗することが基本であるのはこのためである。p98

 「アフリカ」エマ・ミラー
 現在のアフリカが最優先しなければならない政策の方が、G8が押しつける抑圧的な規制よりも、テロや貧困を防ぐことになるだろう。今こそG8は考慮すべきである。p112

 「G8グレンイーグルス2005」マーク・カーティス
 私たちのするべきことは政府の真の意図を暴露し、政策という名の下で何が行われているかを明らかにすることであり、企業のグローバル化を後退させ、それに代わる案を出す、というグローバル・ジャスティス運動(反グローバリゼーション運動)が行われるよう努力することである。p126

 「貿易」スーザン・ジョージ
 WTOは白紙に戻してやり直すべきであり、次は市民が存在し、市民の声を聞かせなければなりません。p147

 「債務」ヴィッキ・クレイトン
 私たちは変化を起こすことができる。これは世界の出来事です。私たちは一人ではありません。(南アフリカの15歳少女の言葉)p162

 「人種差別、亡命、移民」サルマ・ヤコブ
 2003年2月15日に私たちが示したような行動を、今後も維持して深めなければならないのである。p176

 「地球温暖化」ジョージ・モンビオット
 言いなりになっているメディアを引き連れた化石燃料産業のロビイストたちは、特別な関係を危うくしない範囲で、何でもやるかもしれない。地球の死が近づいている。p185

 「食糧安全保障」キャロライン・ルーカス&マイケル・ウディン
 しかも、G8の輸出志向の解決方法そのものが、問題の中心であることが判明している。国内の食糧安全保障という世界的な解決方法を代わり採用するべきなのだ。p201

 「HIV/エイズ」R・ラボンテ、T・シュレッカー、D・マッコイ
 発展途上国における、健康改善のための現実的な対応とは、こうした指針が現状では互いに矛盾していることを認識することである。p216

 「これからどこにいくのだろう」サム・アッシュマン
 あらゆる国のあらゆる人々が、G8の新自由主義的なグローバリゼーション政策に反対している。私たちは何かをすべきなのだ。p228

 「終わりに」ディヴィッド・ミラー&ジル・ハバード
 南極の氷が溶けて、イラクが燃えて、無数の人々が飢えて貧困状態にいる今、私たちは声を上げるべきなのです。p235

 各章立ての最後の結句だけをこうして並べるだけでも、この本一冊の雰囲気がわかろうというものだ。ひとつひとつの結句については、なるほどと思い、まさにそのとおりだ、と思うところがおおい。しかし、最後の最後まで違和感として残るのは、「私たち」という主語がどこまでもついてくること。

 かつて反権力運動の中で「我々は」という主語が多用され、暗に対抗する力を鼓舞するような表現がまかり通っていた時代があった。しかし、それはある意味、過剰な表現であり、また多数に隠れた責任逃れを助長するという一面もあった。このブログでは、まず「個」としての一人一人に立ち返ることができる視点をもっているのかいないのか、というところが大きな分水嶺となる。

 この本の著者として名を連ねている人たちひとりひとりについての知識はなにもない。どういう人たちなのか知らない。ただ、私は、いままで、反権力を語り批判をするだけして、あとは杳として姿をくらます人たち、こちらの意図しないような世界に私を導こうとした人たちと出会ったことがある。批判の言葉が的を得ているからと言って、その人たちが「正義」の人たちである、と即断することは私にはできない。 






Last updated  2009.02.04 19:03:23
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2006.10.19
カテゴリ:マルチチュード
「帝国論」
山下範久 2006

 マルチチュードを知るには、対立概念としての<帝国>を知る必要がある。ネグり&ハートの<帝国>は、現在のところ国家の姿を呈しているアメリカやEUあるいは中国や日本、と言った具体的な領土的エリアを大きくはみ出したところに存在しているもの、あるいは存在することになるであろうものをさしているようだ。

 もちろん一番近い姿は、現在のアメリカを中心としたグローバリゼーションの中で見られる国際資本や情報・軍事の集合体であり、それは、今のところはっきりとした形で語られているわけではない。しかしながら、9.11以降、あきらかに覇権主義的に拡大しているとみられる<帝国>に対し、ネグり&ハートは、一定の概念づけに成功したものと見られる。

 それに加担するかのように、あるいは呼応するかのように、別なさまざまな角度からの帝国論も提出され、学術界ではそれなりに活況を呈しているようだ。この本は、そのような状況を踏まえた、7人の学者・研究者たちによるオムニバスである。短い文章からできているので、ひとつひとつを読みこなすのは難しくないが、やや内容が多岐にわたって煩雑であり、決してまとまりがよいとは思われない。

 だが、現在は、雑多な情報を集める段階にある私にとっては、きわめて便利な本であると思った。この本のなかには、滝口良の「<帝国>はどこにあるのか?--モンゴル国の土地私有化政策に見る<帝国>の現われ--」などは特に面白かった。モンゴルには土地所有という概念が最近までなかったのであり、グローバルな世界秩序の様式が広がりつつある現在、どのように対応していくのか、きわめて興味深い。

 最近
Google Earthがなにかと話題になることが多いが、私達は、文字どうり、自分の手のひらの上に地球を見つめるような感覚で、地球を考える視点を持つことが出来るようになってきた。この傾向は、ネット文化がますます発展することによって、さらにリアリティを増してくることだろう。

 今日、偶然手を伸ばしたOsho Times International日本語版29、1991、p62に「真なる革命への宣言」というコラムを見つけた。イタリアにおける国際科学的革命党についての記事の中で、通常はあまり政治的な革命などの話をしない彼だが、このような文章が載っている。

 党の基本理念について、Oshoはこう言う---基礎は共産主義で、そこから瞑想の寺院が成長する、そしてその屋根となるのは無政府主義だ。p62

 彼の講話録
「Communism & Zen Fire, Zen Wind」関連する部分だが、これらが、今後、このブログとなんらかのつながりが出てくるかどうかはわからないが、このような議論も、実に楽しいことは事実だ。いずれにせよ、象徴的には9.11という現象と、その前後のグローバリゼーションへの動きの中で、<帝国>論というものも、ますます議論されていく必要があるのだろう。






Last updated  2009.02.04 18:56:32
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カテゴリ:マルチチュード
「北朝鮮最終殲滅計画」 ペンタゴン極秘文書が語る衝撃のシナリオ 
相馬勝 2006


 ネグリ&ハートの<マルチチュード>という概念を理解するには、その対立概念となる<帝国>についても、理解を進めなくてはならない。その構図の中で重要となるキーワードは「軍事」と「貨幣」と「コミュニケーション」らしい。

 「コミュニケーション」については、ジャーナリズムやマスメディア、インターネットの進化などから、やや推理することもできるし、このブログでもそれなりに思索を重ねてきた。「貨幣」については、ネットトレードのあり方やグローバル・ファンドの暗躍などから、それなりに推理してきたし、FPの端くれとして、研ぎ澄ましていかなくてはならない感性だ。

 ところが「軍事」については、とにかく食わず嫌いというか、目をそむけてしまう自分がいる。このブログが「非戦」を掲げるかぎり、国際的軍事環境の緊張や、核武装ネットワークという存在についても、それなりの視点を持っていく必要がある、と判断した。

 北朝鮮のミサイル発射問題や核実験について、なにごとかのコメントを加えていく必要は、あると思う。知らん振り、見ないフリはできない。ということで、この一冊を読んでみた。2006年、今年の2月に出された新書本だが、まさに、昨日や今日、新聞のトップニュースとなっている話題と密接に関連している。

 私がこのブログで主に新書本を読むことになった経緯については、いままでも書いたが、結局、よくまとまっていることと、書き手がしっかりしていて、肯定するにしても批判するにしても、議論の積み重ねができそうだ、ということがあった。そして、自分で買い込んで好きなジャンルだけを深堀するのではなく、一般の公立図書館の書架においてある、ごくごく一般的な土壌での議論に加わりたかった、ということがある。

 ところで、この数ヶ月、私は新聞をあまり読まなかった。読む必要がなかったということと、読まないでどれだけ暮らせるか、という実験もかねていた。しかし、このような北朝鮮問題のようなことになってくると、わずか6ヶ月前の本でも情報が古くなっていることがある。この本は、北朝鮮の「ミサイル」「核実験」以前の本になってしまう。これからは、最新情報としての新聞報道も兼ね合わせて読んでいく必要があるのだろう、かなぁ、と思い始めた。

 ネグり&ハートの論説については、まだまだほぼなんの理解もしていない、というレベルだが、資本主義が労働者階級を育て、やがてその労働者階級が資本主義を滅ぼして、共産社会を作るというマルクス主義にやや似ているところもあるようだ。グローバル化しネットワーク化した<帝国>の、主体的な担い手として<マルチチュード>は登場する。やがて<マルチチュード>は<帝国>の憲法作成に積極的に関わり、やがて<帝国>を超えた世界を作る。どうやら、そのような構図らしい。

 さて、この時<帝国>は「軍事」「貨幣」「コミュニケーション」をどのように操り、ひいては来るべき<マルチチュード>は、それをいかに引き継ぐのか。特に「軍事」についてはどうするのか。「非戦」を唯一の旗頭にして、軍縮、核武装絶対反対だけで、押し通そうとすることができるのか。

 ある意味においては、この<マルチチュード>に突きつけられた現実的な課題は、今、私たち日本人に突きつけられた「憲法九条」問題でもあると思う。そして、この憲法改正問題にどのように<マルチチュード>達が関わり得るのか、ということが、ひいては、グローバルな<マルチチュード>への範を示すことになる。






Last updated  2009.02.04 18:51:26
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2006.10.17
カテゴリ:マルチチュード
「非対称化する世界」 『〈帝国〉』の射程 
トニ・ネグリ他 2005


 マルチチュードについての適当な新書本でもないものかな、と探してみたが、まだいまのところ目にしていない。そこでこの本を読むことになったのだが、この本、ハードカバーで244pにもなる本だ。実は、9人の文章からなる本であり、読みようによっては、小さな本を9冊読むような感覚だ。だから、その迷宮にはまりきってしまう、ということはない。

 まず読みはじめて思ったのは、自分が<マルチチュード>という概念に関心を持った過程が、過去において、アルビン・トフラーの<第三の波>に引きつけられた過程と似ているなぁ、ということだった。

 あの当時は、60年代、70年代の左翼的「敗北感」の中で、新しい思想の潮流が求められていた時代だった。その中に登場したトフラーは、農業革命、産業革命、に次ぐ第三の革命として<情報革命>の到来を予言したのであった。

 あれから4半世紀、まさに世はトフラーの予言した通り、情報の渦の中に飲み込まれてしまったような21世紀の世界になっている。ところが、最近のトフラーの著書「富の未来」を読んで、私は率直に言って
「トフラー老いたり」という感想を持った。

 そこに今回登場したのは、ある意味、マルクス主義や共産主義を、あらたに21世紀的にとらえ直したかに見える「<帝国>」あるいは、<マルチチュード>という概念である。あがなえる縄の如しと言うか、今から25年前当時は、左翼的運動や言辞はすでに光を失い欠けていた。そこに現れたのが情報革命の第三の波の概念である。ところが、今回は、情報革命まっただ中において、あらたなる左翼的革命論が復活してきた、というような構図になっている。

 私には、これらの事象について、まだちょっとしか触れていないので、いまのところは周辺知識や雑多な情報を集めている段階だが、いくつかの私なりの直観と、いわゆる研究者達の評価あるいは批判というものが、一致する点もあるようだ。

 まず、西谷修が短い評論の最後に述べていることは、私にとっても一番気がかりなことであった。

 おそらくこの本(「<帝国>」引用者注)の最大の欠点は、西洋近代が「宗教」と呼んで他者化してきた事象に関する抜本的な考察である。p22

 マルチチュードという変革の主体とされる存在が魅力的であればあるほど、そのスピリチュアリティはどうなっているのか、ということに私は関心があった。たしかにスピリチュアリティを宗教と同一なものとすることはできないが、しかし、なんであれ過去において、宗教というジャンルでスピリチュアリティが語られてきた時間は相当に長かったのである。

 この本の中では、ネグリ&ハート、ネグリ/ハート、ネグリとハートといくつかの表記がされている。他書ではネグリ=ハートという表記も散見された。これはトニ・ネグリとその弟子のマイケル・ハートという二人の思想家の手による本が「<帝国>」なので、このように列記される。このブログでは混乱をさけるため、二人というニュアンスの強いネグリ&ハートという表記で統一していこうと思う。

 かれらは、「マルチチュードとは多種多様性のことであり、もろもろの特異性からなる平面、諸関係からなる開かれた集合体のこと」と定義している。p78

 このへんも実はとても気になる。まずは地球人スピリットという概念においては、まず、自立する個人がまず最初にイメージされなくてはならない。そして、その個人個人がネットワークでつながる時に、新たなネット社会ともいうべき新しい「場」のエネルギーを創る、というイメージがあった。

 ところがマルチチュードは、「多様性をもった群集」というニュアンスが強いようなのである。これは、今後、すこしづつ文献にあたるなどして、より明確にして行かなくてはならない。

 また、ネグリ&ハートの世界においては、軍事、通貨、コミュニケーションという三層が語られているが、地球人スピリットにおいては、「軍事」がすっぽり抜け落ちている。このへんは相互補完的にお互いが歩み寄れるのか、あるいは非和解的に平行線をたどる概念同士なのかは、今のところ判断がつかない。

 あるいは1968年のパリの五月革命をマルチチュードの起点とするかの言辞もある。私も70年安保当時は両手をつないで大通りを闊歩した「フランスデモ」の体験者だが、あの時からすでにマルチチュードはやってきつつあった、というとらえかたがあったとすれば、私は、敢えてイエスと言いたい。ヘルメットをかぶった武装闘争ではなく、素顔で平和に行進する姿は、マルチチュードと言われるにふさわしいと思う。

 いずれにせよ、だいぶ長い間わすれていた左翼的表現に接して、半ば新鮮、半ばあきれ顔なのだが、できれば、もっと新しい言語体系で組み直して欲しいなぁ、という希望はもっている。

 なお「<帝国>」については、超分厚い本だが、現在貸出し申込中なので、そちらを一度とにかくページをめくってみようと思っている。






Last updated  2009.02.04 18:48:58
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2006.10.16
カテゴリ:マルチチュード
アントニオ・ネグリ


 今日は時間があったので、書店に行って、この「マルチチュード」上巻を立ち読みしてきた。立ち読みして分かるような本ではないが、購入して手元においたからと行って、理解できる本でもない。しかし、そこにある直感的なイメージは、可もあり不可もある、ということだった。

 つまり、マルチチュードという概念は、私が地球人スピリットというニワカ造語でなにごとかを言おうとした存在と極めて類似点が多いということである。先日自分で書いた
記事を読んで、そうだなぁ、と今夜もほとんど同じイメージを持った。

 もっともまだ一週間しか経過していないわけだし、実質的にまだネグリ=ハートの著書を「読んだ」わけでもないので、そんなにイメージが変わるわけではない。しかし、いまのところ、一番期待したくなる提案であることには間違いない。

 ネグリ達は、マルチチュードというのは哲学的な存在であって、また詩的な存在でもあると言っている。それは現在のところはそうであろうが、あまりに筋書きにリアリティがあれば、当然のごとく、そのエクリチュールに対応したごとく、行動する主体がテクストとして現れてくる可能性は当然ある。

 難点は、やや理に傾きすぎて、現在の私がやっているような新書本斜め読みや速読ではとてもとても理解できないということ。いや、理解できないのではないが、その検証ひとつひとつにつき合っている時間がないということだ。

 
松岡正剛もネグリについて書いている。
 
マルチチュードとはもともとはスピノザに由来する言葉である。スピノザのことを片時も忘れないネグリは、この異貌の思想者からマルチチュードを盗む。
 マルチチュードとは自主的多数派のことである。「群衆」「多数性」「多性」などといった訳語があてがわれてきたのだが、どれもぴったりしない。マルチチュードと原語でいうのが、いちばんいい。それより重要なのはマルチチュードが何をするかということである。一言でいえば憲法制定の力を担う者のことをいう。すなわち、マルチチュードが「帝国」を解体し、憲法制定権力をもつこと、それがマルチチュードのミッションなのだ。


 このマルチチュードという概念はどこまで成長していくのだろうか。敢えていうなら、このネグリ達のマルチチュードの中に、このブログでも触れてきた「スピリチュアリティ」というものが加わってくれると、私の期待している概念により近くなる。すでにそういうことは書いてあるのかも知れないが、まだ、そういうところは見付けていない。

 今日は下巻を走り読みした。やはりこの本は上下で読まなくてはならないだろうし、また、ゆっくりと時間をかけて玩味しながら読まなくてはならないだろう。朝刊に織り込まれたスーパーの特売チラシを見るような現在の読書スタイルでは、とても手に負えるものではない。

 マルチチュードの意志決定能力を理解するには、コンピュータソフトウェアの共同開発や革新的な「オープンソース」運動のアナロジーも役に立つかもしれない。(中略)先に「群知性」に関連して指摘したように、人間は一人のときより多数のほうがより知的能力が高まる。ここで重要なのは、オープンソース方式による協働的なプログラミングは決して混乱やエネルギーの無駄をもたらさないということである。実際、これはうまくいく方法なのだ。とすればマルチチュードによる民主主義は、ひとつにはオープンソース社会として理解することができるだろうーーーすなわちそのソースコードが公開され、全員が協同してバグを解消したり、より良く新しい社会プログラムを創造したりできる社会として。「マルチチュード」下巻p236~7p

 オープンソースが、共産的だと批判されていた時代があったのに、今度は、共産主義者たちから、オープンソースから賞賛される時代へと移り変わってきている。いずれにせよ、来るべき人々としてのマルチチュードとはいかなるものか、もうすこし自分なりに手繰り寄せて味わってみる必要を感じる。






Last updated  2009.02.04 18:45:56
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2006.10.08
カテゴリ:マルチチュード
「マルチチュード」(下) 
ネグリ=ハート 2005

 私
前の記事で、このブログのイメージを象徴的職業に託してこう書いた。

 だから、このブログのイメージは幾段いままでよりは前に進んだ。
1)グローバル社会に対応する創造的なプログラマー
2)マルチな表現を理解する瞑想的なジャーナリスト
3)転生輪廻を自らの体験として理解する精神的なカウンセラー
この三人の要素が、やがて一つになっていくようなそんな方向で、このブログはひとつひとつの「壁」をとりはらっていくことになるだろう。


 なんでもありありの盛り込み過ぎの概念だが、しかし、この三つの要素を一つの存在で引き受けることはできないことでもないはずだ。もしそれなら、その存在をなんと名付けようか、と考え始まっていたが、今日は新しい概念とであうことになった。

 先日読んだ、
諸富祥彦的場昭弘の著書の中でちらちら散見されたのが、このマルチチュードだった。あるいは柄谷行人の著書にもでていたかもしれない

 今日、図書館にいって調べたところ「マルチチュード」<帝国>時代の戦争と民主主義 の下巻だけがあったので借りてきた。面白そうだったの紀伊國屋へ行って上巻を探そうとも思ったが、今日は連休で、道がごった返しになっていたので、あきらめた。

 いずれにせよ、この本は新書本でもないし、いままでのように簡単に流し読みということもできそうにない。またあちこち調べながら、断片的に読書を進めなくてはならない予感がするので、このブログでのいままでの三つのカテゴリからははずして、一つのカテゴリとして、自分なりに理解できるまで、独立したものとして考えていく。

 私が漠然と考えている地球人スピリットとマルチチュードは、どれだけの近似性を持ちうるだろうか。あるいは、先日読んだ
海野弘「秘密結社の世界史」中にでてくる、ブルワー=リットンの「来るべき種族」とどうかかわるだろうか、というところが、私の目下の関心ごとである。

 いまのところ、まだ読んでいないが、マルチチュードには、「革命的主体」という期待がかけられているようである。その言葉の使いかたはともかくとして、このブログでは相当に新しい概念であり、また自らの立場としては、簡単には受け入れがたい言葉ではある。

 逆に、私は「転生輪廻を自らの体験として理解する」という要素を地球人スピリットに含ませているのだが、マルチチュードは、この概念をうまく受け入れてくれるだろうか。

 ネットで軽く検索すると、このマルチチュードを取り上げている
ブログも多くあるようだし、松岡正剛の千夜千冊ページにもなにごとかあるようだ。

 秋の夜は深い。読書の似合うシーズンとなった。

2007/10/23再読






Last updated  2009.02.04 18:43:43
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