地球人スピリット・ジャーナル1.0

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2009年4月1日

地球人スピリット
・ジャーナル2.0


へ引越しました。

全108件 (108件中 21-30件目)

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バック・ヤード

2009.02.25
XML
テーマ:ニュース(77373)
カテゴリ:バック・ヤード

<1>からつづく


「パブリック・ジャーナリスト宣言。」<2>
小田光康 2007/11 朝日新聞出版 新書 222p
★★★☆☆

 前回この本を読んだのは、ちょうど奥付に書いてある発行日2007年11月30日だった。通常この手の本の発行日は一か月ほど遅れて表記されているので、すでに数週間前から店頭に並んでいたのだろうが、この手の本には特に目を引かれる私だから、見つけてすぐに手に取ったことを思い出す。

 そして、その場で立ち読みしながら、この本を巻頭から巻末まで三回ほど目を通した。買うべきか買わざるべきか迷ったが、結局買わなかった。あの時、買っていたら今回再読することはなかっただろうし、買わなかったからこそ、買わなかった、という自分の行為は正しかったかどうか検討のために、すでに図書館に収められていた分から借りてきて再読してみた。

 結論としては、立ち読みでは★4つけていたが、今日は★3つに下がってしまた。つまり、私はこの本を買わなくてよかった、と結論づけた。いや、今回読み通した段階では、正直言って★2つでもいいのではないか、という失望感さえ持った。しかし、この本のタイトルに免じて、そこまで酷評するのはやめよう。

 非常に魅力あふれるタイトルではあるが、矛盾がいっぱいあって、理屈が通らないことがたくさんある。まず、著者がいたずらなマスメディアに対するカウンターカルチュアルな意識を持ち続けていること。パブリック・ジャーナリズムといいながら、シロートでもプロにまけないことができますよ、という生きがりばかりが目につき、片ひじが突っ張りすぎているように思う。

 ジャーナリズムがジャーナリズムを論じているのでは、マッチポンプでしかない。消防士が放火して消火活動に出動しているようなものだ。著者は、ジャーナリズムの、本当の意味でのターゲットを見失っている。なんだかんだ言っても、結局はコンテナとしてのジャーナリズムにこだわってしまっているのだ。もし人々に伝わるべきニュースがあるとするなら、お昼のNHKニュースだろうが、電車の中の噂話だろうが、どこかの国から飛んできた風船紙爆弾でも、なんでもいいのだ。市民が書いたから市民ジャーナリズム、パブリック・ジャーナリストが書いたからパブリック・ジャーナリズムなんて、区分けは、ある意味、茶番だ。

 「東京視点」の閲覧数は1日2万件を超すような盛況を呈してきたのですが、内側は自転車操業もいいところ、・・・(攻略)。p42

 著者はもともとジャーナリズムを学び、キチンとしたジャーナリズムにも籍をおいた人なのだから、この手のジャーナリズム観を持っている人は、通常のジャーナリズムに戻ったほうが、私はいいと思う。93歳のむのたけじが「戦争絶滅へ、人間復活へ」のなかで「朝日を辞めるべきではなかった」p69と述懐していることを私は重く受け止める。マスメディアにはマスメディアにしかできないことがある。

 ここで著者がここで「閲覧数は1日2万件を超すような盛況」と書いていることに憐みを覚える。2万だろうが、200万だろうが、部数を誇るなら、やはりマスメディアとなんら視点は変わらないと私は思う。私のブログ・ジャーナリズム観は、読者は200人で十分だ、というところにある。万人受けする記事などを、個人が、ボランティアで書いたりすべきではないのだ。それでは荷が重すぎる。責任感が強いのもいいが、それでは、すぐに燃え尽き症候群になってしまうのは、あたり前だ。

 マスメディアと個人メディアの違いは、ユークリッド幾何学と、非ユークリッド幾何学の比較にも求めることができるのではないだろうか。マスメディアの尺度はあまりの大まかで、直線を長く引きすぎる。それでは、球面を表現できない。描いたとしても、無骨な6角形や8角形でしかない。ホンの短い、線とさえ言えない短い点が、無数につながってこそ円は形作られる。そして縦横に広がってこそ球体となる。個人にしかできないことがある。個人のつながりでしか表せないことがある。そのことを著者は見逃している。

 今では極端な話、携帯電話一つで取材して原稿と写真を瞬時に送ることができます。新規に携帯電話を購入するのであれば、「1円」で足りることもあります。わたしは地方出張する時ではPHS{ウィルコム」の携帯端末を利用しています。これ1台でネットを閲覧することができますし、パソコンとほとんどおなじワープロや表計算の機能や、デジカメ・録音機能も付いています。料金はは定額制なので1ヵ月1万円もかかりません。p33

 だから、パブリック・ジャーナリストよ、ほとんど無料で良質な記事を書け、というのはおカドちがいだ。この言葉を言うなら、まずはプロのジャーナリストたちに言うべきだ。そしてNHKの視聴料とか、新聞の購読料を値下げせよ、と要求すべきだ。

 わたしは地方取材に出かけるとき、軽バンの車内を「PJニュース」の移動支局に変身させます。変電機、パソコン、カメラなどの取材道具や、寝袋やマット、コンロや食料といった野営道具も積み込めば、立派な支局になります。p152

 だからこんなことは、すべて朝日の新聞記者やフジテレビのプロデュサーや共同通信のジャーナリストたちがやればいいことであって、コスト削減して、もっともっと良い記事を安く配信すればいいだけのことなのだ。パブリック・ジャーナリストになにもこんなビンボーな体験を強いる必要はない。

 個人メディアのジャーナリストたちは、コタツに入ってぬくぬくとせんべいでもかじりながら、パジャマのまま、パソコンの前に向っていればそれでいい。なにも何万人も大向うを唸らせるような記事など書くべきではない。せいぜい数人数十人に伝わる程度でいい。誤字脱字それもOKじゃないか。もし、そこに真実があれば、地球の裏側まで伝わる。もしそこに真実がなかったら、何億人に伝わったとしても、単なるガセネタでしかない。

 コンテナ、コンテンツにこだわり過ぎだ。真実はどこにあるのか、もう一度、よくよく見直したほうがいい。







Last updated  2009.02.25 22:47:12
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テーマ:ニュース(77373)
カテゴリ:バック・ヤード


「オバマ」YES WE CAN!
ロバ-タ・エドワ-ズ /ケン・コ-ル 2009/01 岩崎書店 単行本 78p
Vol.2 No.531

 ちょっと早すぎる伝記、サクセスストーリーという感じがしないわけでもない。このようなカラー写真とカラーイラストが満載で、しかも全文ルビまで振ってあるアメリカ大統領の本など、ブッシュやクリントンの時もでたのだろうか。なんとも人気のある大統領が登場したものだ。これから4年間、どのような理想を描いて世界をリードしていくことになるのだろう。

 日本時間の本日の昼にかけて、オバマ新大統領が就任後初めて連邦議会上下両院合同本会議で演説を行なった。世界的経済危機のこの時期にスタートする政権は、誰であっても容易ではない。不備もあるだろうし、反論も続出することだろう。あの演説を聞いていて、彼がまず、エネルギー、保険、教育、を三大課題に据えると発言したことに、共感する米国民は多いに違いない。

 エネルギー問題は化石燃料依存からの脱却であり、容易に原子力依存へスライドしていくのではなく、もっと広範な自然エネルギーの開発に力が入れられることに期待する。日本にもこの技術は蓄積されているが、眠ってしまっているものも多くある。テクノロジーは十分に開発され活かされてこそ意味がある。

 保険の問題は、ヒラリーも手掛けてきた問題だが、日米ではやや状況が異なるだろう。日本においては、一般的な医療保険は、社会保険や健康保険で、決して安くなく、国民皆保険体制としては完全ではないまでも、アメリカ国民がさらされている状況よりは良いと言える。

 日本の識字率や高学歴率もアメリカよりも上だろう。オバマは、国民がついている4分の3は高卒以上の学歴を必要としているが、高校を卒業していない人もかなりの数になり、大学に入学しても卒業する人は半分だ、と嘆いた。そして、その状況を改善するために、資金を投入すると言明した。

 翻って考えてみると、今アメリカがオバマといっしょに立ち向かおうとしている問題は、日本ではかなりの確率で達成されていることではないだろうか。日本は世界に誇れる国なのかどうかわからないが、少なくとも、オバマの政策に反対ではないものの、日本人としてはあれ?と、ちょっと拍子抜けするような問題でもある。

 もしオバマ・アメリカが持っていて、現在の日本が持っていないものとは何か、と問うなら、それは、夢ではないだろうか。理想や、それぞれが良かれと思う目標に向って、「YES WE CAN!」と手を挙げること。人間として最も基本的なことが、オバマは多くの人々の支持の中でできていて、困難な課題に立ち向かおうとしている。この基本的なことが、今、日本ではなかなかできない。

 YES WE CAN! オバマはその生い立ちの中で、自らの存在を、「私は誰か」を、問い続けた。そして弁護士となった彼が選びとった道は政治の道で、そして、共和党もなく民主党もなく、性別、肌の色、年齢、信条や宗教を超えたところでの融合を訴える。

 渡米した麻生首相が演説直前のオバマと一時間ほど対談して、どんなことが語られたのであろうか。出るタイミングや手続きがもっと正当性をもったものだったら、麻生という人も、多くの人々に向って夢を語れる人であったかも知れない。しかし、今彼が、オバマのような夢や理想を語れないのはなぜなのだろうか。

 いや、ここでグダグダと政治家論議を繰り返すのはやめよう。リーダーが誰であろうと、理想や夢を追い続けるのは、私たちひとりひとりの権利であり、責任だ。何に夢を託し、何を理想とするかは、人それぞれだが、笑顔で、みんなと、幸せになりたい、と思うのは、世界中共通しているのではないだろうか。泣いたり、割れた卵のようになってしまうことは、避けたい。避けなけばならない。その立場にならないようにしながら、現在その立場にある人々に手を差し伸べることを忘れてはならない。

 YES WE CAN! オバマの笑顔の表紙を見ながら、私もそっと言ってみる。 







Last updated  2009.02.25 14:31:29
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テーマ:私のPC生活(6747)
カテゴリ:バック・ヤード

地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく

<1>よりつづく

「ウェブは資本主義を超える」「池田信夫ブログ」集成 <2>
池田信夫 2007/06 日経BP社 /日経BP出版センター 単行本 245p
★★★★☆

 最初は一ヶ月に数百ページビューしかなかった私のブログは、いまや最大1日3万ページビュー、1万5000ユーザーを超えるようになった。もうこれ自体が立派なメディアである。資本と情報を集中的に管理する工業社会の枠組みが崩れるという変化が、メディアに反映しているのだ。
 資本主義が300年続いたとすれば、それに続く時代はまだ始まったばかりであり、真の変化はこれから起こる。具体的に何が起こるかは予測できないが、集権型から分権型へという方向は今後も変わらないし、不可逆だろう。その過程で、既存の大企業やマスメディアの一部は没落するかもしれないが、一人の王が死ぬことは、次の王の誕生を意味する。したがって葬儀は祝典でもある。The king is dead.
Long live the king!   p3

 個人メディアとして一日3万ページビューは最大限に多いと言えるだろう。糸井重里がかかわる「ほぼ日刊イトイ新聞」はアクセス数は日に35万、とか言われているが、必ずしも個人メディアとしてのブログではない。あるいは、芸能人や有名人が書いているブログは、さらに凄いことになっているかもしれないが、アクセスやページビューのカウンターが上がりつづけることが必ずしも、自らが「メディア」として存在しているという証拠にはならないと思う。

 かくいう当ブログは、開設してから半年間は一日平均3アクセスだった。ほとんどなにも書いていなかったのだからしかたないが、現在は一日平均数百になっており、数百しかない、とは思わない。ある意味十分すぎるとさえ思っている。ネット社会が双方向性という特性を持っているとすれば、数百の訪問者があることは嬉しいが、それら数百の訪問者達のページまでこちらが出向いて、すべての情報を受け取ることはまず不可能だろうし、意味も感じない。

 「80対20の法則」が働いているとして、数百のうちの20%の数十人だけであったとしても、その人々としっかりしたコミュニケーションができていれば、「6次の隔たり」でもって、地球人すべてとつながりうる可能性があるのだ。あえてアクセス数を誇ったり、アクセスを過大評価することはあってはならないと、私は思う。

 しかしそれはすこしやっかみもあるかもしれない。アクセス数が数万、数十万になったら、それを体験したことのない人間には考えられないような感覚がでてくるかも知れないので、それはそれ、その可能性は当ブログにおいても残しておきたいものだ。

 さて、「ブログを考える50冊」をリストアップしながら、「池田信夫ブログ」を思い出し、初読時はかなり走り読みだったので、ひょっとすると読み残しているところがあるのではないか、と再読してみた。やはり初読だけではわからないニュアンスがあり、お、これは★5つだな、いや、★フルカラーだ、★レインボー!だ、などと思いつつ、三分の一ほどまできたが、最後まで読み通したところで、結局は、初読時と同じ★4つにとどまった。

 かなり以前から私はRSSリーダーを活用し、一時はMaxの100ブログを登録していたが、試行錯誤を繰り返すうちに、結局はその半分くらいで推移するようになり、そのリストのなかのトップから数えて片手の中に、この本の著者のブログは登録されている。

 私が見つけてきたブログのなかでは、この著者のブログは、各段に読みごたえがある。こういう密度の高いものがブログと呼ばれるものであるかもしれない。そして一度はゆっくり目を通そうと思っているうちに、結局は読まないで日時だけが経過してしまっている。

 なぜか。一つは、あまりに情報の密度が高いこと。つまりこちらの要求レベルを超えて、枝葉末節に入り込むことがあること。次に思いつくことは、面白いことは面白いのだが、こちらの最終的なテーマと、目的がずれていること。三番目に、著者が最初から自らのページビューについてふれているように、どこか独善的であり、かならずしも双方向性を望んではいないのだ、ということを感じたことだ。

 科学、テクノロジー、インフラとしてのインターネット、そしてその中に一個人が参加する場合、ブログという形態は極めて魅力的だ。いくらリナックスやオープンソースが魅力的だと言ってもそのカーネルを解読して、そのコミュニティに参加しようということは、私には無理だ。せいぜい今書いている楽天ブログの機能を使いきる程度の「テクノロジー」を理解する程度が関の山だ。

 コンテナとしてのブログをどのように使いきるのか。その場合、さまざまな利用方法が試みられてしかりべきだが、ジャーナリズムという表現形態は、とても魅力的だし、ブログという新進のメディア・ツールには則しているように思う。しかし、それだけでいいのか、という疑問がどこまでも残る。テクノロジーとジャーナリズムの融合としてのサイエンス・ジャーナリズムとしてなら「池田信夫ブログ」も悪くないのだが、それ以上の、なにかもっと別なものを求めようとすると、やはりこの本は★4つが正しい評価となってしまう。

 それでは、ブログというテクノロジーを使い、ブログというジャーナリズム・ツールを用いて、真のコンテンツであるターゲットにすべきものは何か。テクノロジーがテクノロジーを生み出し、ジャーナリズムがジャーナリズムを論じている、という蛸が自らの足を食べているような図式から抜け出すには、その視線を意識、コンシャスネス、スピリチュアリティに向けなければならないのではないか、と思う。

 テクノロジーは、超天才たちが一度発見し発明してしまうと、私のような凡人でも、その恩恵に浴することができる。アートやスポーツの達人と並ぶ優れたジャーナリストが活躍すれば、啓発された通常の人間は日々の生活を変えていくことができる。しかし、コンシャスネス、スピリチュアリティというものは、誰かが発明し、活躍したからと言って、「私」自身にとってはなんのメリットもない。2500年前にお釈迦さまがお悟りをお開きになったからと言って、もう私は何もしなくてもいい、というものではない。キリストが磔になったからと言って、あとはこの世に天国がきました、と浮かれている場合でもない。

 テクノロジー、ジャーナリズム、スピリチュアリティは、当ブログの三大柱だが、それぞれに特性がある。この三本柱が見事に融合している著者やその本というものは限りなくすくない。テクノロジー、ジャーナリズムまでなら、この「ウェブは資本主義を超える」はなかなか面白い。現役のブログから発生した本としては、記録され繰り返し読まれ、語られるべき一冊であろう。しかし、惜しむらくはスピリチュアリティへの展開がない。かすかにオープンソースやマルチチュードに触れるあたりにその萌芽があるが、著者はその芽を大きく育てようとはしていない。










Last updated  2009.04.10 07:19:40
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2009.02.23
カテゴリ:バック・ヤード
<2>よりつづく


「ブログ 世界を変える個人メディア」 <3>
ダン・ギルモア /平和博 2005/08 朝日新聞出版 単行本 417p

 当ブログの第一ステージを終えるにあたって、「ブログを考える本」をリストアップしてみた。さて、このリストの中でいちばん今なにを再読しておくべきだろうと、考えてみたところ、まずははずせないだろうと思うのはこの本だ。

 さっそく図書館のいつものコーナー行ったら、貸し出された形跡がないのに開架棚にない。職員に聞いたら、バックヤードにしまわれてしまったという。ええっ? それはちょっと早いんじゃないですか。いくらドッグイヤーのIT世界とは言え、この本はまだまだ価値がある。もっともっと読まれてしかるべき本だ。すくなくとも私はまだまだ繰り返し読みたい。

 インターネット上のツールとしてのブログ、新しいジャーナリズムのメディアとしてのブログ、この二つの融合の世界を見事に描き切っているのが、この本ではないだろうか。そして、それは必ずしも理想で書いたわけではない。インターネットの爆発から、9・11を経過し、ますます政治や文化と絡み合いながら、個人の力が試されてきた時代。そのような時代の潮流にあって、著者ダン・ギルモアは、ひとつひとつ具体的な例を引きながら、劇的なブログをとりまく状況を描いている。

 オープンソースとしてのジャーナリズムや、韓国の大統領選に大きな作用をした「オーマイニュース」に対して、あるいはブログの機能をさらに高めるRSSテクノラティP2Pなどなどに対して、更なる認識を深める必要を感じた。

 先日読んだむのたけじの「戦争絶滅へ、人間復活へ」を読んでいて、この本のタイトル四文字熟語の文字を上下入れ替えたら、大変なことになるぞ、思ったものだった。時代はそっちのように行っていないだろうな、とちょっと不安になる。さて、こちらの本は、むしろ、「世界を変える個人メディア」というタイトルを上下入れ替えてみたらどうだろうと、思う。「個人を変える世界メディア」。逆説的だが、むしろ私にはこっちのほうが実態にあっているように思う。

 ブロガーというのか、ブログ・ジャーナリストというのか、私はせいぜい「パジャマのままでパソコンの前に座っているだけ」の人間でしかない。最初はかなり手こづったが、ブログというものと多少つきあってみて、自らの中がかなり整理されたことを感じる。デジハリの杉山知之などは「何か考えをまとめなくてはならないとき、まずパワポを立ち上げる」と言っているが、以前の私の場合、その役割はエクセルだった。そして現在では、自分が書き貯めた個人的データべースとしての当ブログがその役割を担っている。

 ごく最近あきらかになったことは、当ブログは決してエクセルやパワポで自らの考えを、ちまちまと個室でまとめているだけではない、ということである。個人的にはもちろんそのような効果もあるが、ブログを書くということは、全世界と対峙し得る行為なのである。ちょっと大げさな言い方ではあるが、最近の当ブログへのアクセス記録を見ていて、実にそう思う。

 もちろん、当ブログのアクセス記録に痕跡を残してしまった人は、単に手がすべってワンクリックしてしまったのかもしれないし、本のタイトルで検索したところ他のたくさんの情報のなかの方隅にあった当ブログへのリンクをクリックしただけかもしれない。いや、ほとんどそうだろう。しかし、もしそうだとしても、すくなくとも、そのようにクリックしてもらえる可能性は充分にある、ということなのだ。これは限りなく大きな可能性だ。

 なにかのきっかけで、このワンクリッカーたちが、リピーターになってくれるかも知れない、そういう期待感が湧いてくるのである。いや、ブログという機能が世界に向けて開かれている限り、そのようなブログ作りを課題とすることも当面の大事なテーマとなるだろう。似たような機能ではあるが、某巨大掲示板とか、SNSとは、この辺が大きく違っているように思う。

 この本の英語原書のタイトルは「We the Media Grassroots : Journarism by the People,for the People」だった。「We the Media」なのだ。 佐々木俊尚の「 ブログ論壇の誕生」のような評論家然とした高見の見物とは、ちょっと視点が違う。

 この本を貫いているのは、自由、反権力、先進性、だ。そして、著者ギル・モアは、地球人たちの未来に大いなる可能性を見ている。

 インターネットは、印刷技術以来の最も重要なメディアだ。それ以前のメディアの特性をすべて包含し、最深部で、それ自体が変貌を続けている。インターネットによって誰もがライターに(最も広義において、しかもグローバルな読者を相手に)なれるとしたら、人々は大挙して押し寄せて来るだろう。インターネットは、メディアとビジネスモデルについて、これまで当たり前だと考えてきたことを、あまりにも次々とひっくり返していく。この変化に振り落とされないようにするだけで精一杯だ。トップダウンの階層構造から、はるかに民主的で混沌とした構造へ。その移行のただ中で、遠近感をもって変化をとらえ続けるのは難しい作業だが、私たちはやらなければならない。そして、この変化が最も重要な意味を持つのは、最古の情報形式の分野、すなわちニュースだ。私たちはこの創発システムの中で、新たな遠近感の恩恵に浴することになるだろう。そして、どうすればこのシステムがみんなの役に立つのかを学んでいくのだ。

 ブログなどの現代のメディアは、フィードバックのシステムだ。ほぼリアルタイムで機能し、私たちが互いに差し出す溢れんばかりのアイディアと事実を捕られていく。インターネット上で私たちを定義するのは、何を知っていて、何を共有しているのか、ということだ。今、歴史上初めて、このフィードバックのシステムはグローバルで、しかもほぼ瞬時の打ち返しが可能になったのだ。p381

 彼の文章には、分かち合いと愛があふれている。







Last updated  2009.02.24 00:43:59
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カテゴリ:バック・ヤード

 <2>からつづく

大学等からのアクセス<3>

 このリストアップは、当初の目的を達成したので、そろそろやめようと思うのだが、次から次とac.jpやらeduからのアクセス記録が積み上がっていく。いずれは打ち止めにするとしても、せっかくアクセスしてくれたのだから、公平性も込めて、今しばらく、気がついたときにメモしてアップしていくことにしようと思う。漏れてしまったら、ごめんなさい。


*.nao.ac.jp  国立天文台   画像映像    

*.kitami-it.ac.jp    北見工業大学   図書館

*.rakuno.ac.jp     酪農学園大学  アルバム  

***.chiba-u.jp  千葉大学 図書館

*.kaiyodai.ac.jp  東京海洋大学  図書館

*.tus.ac.jp 東京理科大 図書館

*.tokyo-med.ac.jp 東京医科大  図書館

*.ris.ac.jp 立正大学  図書館

*.sanno.ac.jp  産業能率大学  図書館

*.waseda.ac.jp   早稲田大学  図書館 

*.tuj.ac.jp テンプル大学ジャパンキャンパス OPC

*.shinshu-u.ac.jp  信州大学  図書館

*.juen.ac.jp  上越教育大学  図書館

*.kanazawa-u.ac.jp 金沢大学  図書館    

*.jaist.ac.jp  北陸先端科学技術大学院大学  図書館

*.salesio-sp.ac.jp  サレジオ高専 

*.suijo.ac.jp  水城高 

*.nanzan-u.ac.jp 南山大学  図書館

*.osaka-cu.ac.jp 大阪市立大学 図書館

*.baika.ac.jp 梅花女子大学 図書館

*.notredame.ac.jp 京都ノートルダム女子大学  図書館

*.kawasaki-m.ac.jp  川崎医科大学  図書館

*.bunri-u.ac.jp 徳島文理大学  推奨PC

*.kagoshima-u.ac.jp  鹿児島大学  図書館

*.u-ryukyu.ac.jp  琉球大学  図書館

***.uta.edu 米国テキサス大学アーリントン校 図書館

***.harvard.edu 米国ハーバード大学 図書館

***.unige.ch  スイス・ジュネーブ大学  図書館

***.ac.uk  英国の大学 どことは特定できないが、参考まで

***.edu.cn
中国教育网 中国の文部科学省か・・?

***.hinet.net  臺灣入門網站 台湾?

 <こんなところからも>へつづく







Last updated  2009.03.30 20:07:50
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2009.02.22
カテゴリ:バック・ヤード

<1>よりつづく 

当ブログへのアクセスマップ<2>

 一日500アクセスがあるとして、一時間に平均20アクセス。そのうち、地域を特定できるプロバイダ名は2~3%として、一時間に一つあるかないか。個人ブログである当ブログは24時間パソコンに張り付いているわけではないので、見逃しているプロバイダ情報はたくさんあるはずだ。

 まして楽天ブログは、過去50アクセスしか記録を見ることができないので、過去二時間しか確認できないことになる。その不十分な情報源をもとにしたものだが、現在のアクセスを大学名で限定した場合、<1>でみたような結果となった。過去一か月程度のウォッチングなので、もともと不十分な記録ではあるが、それでも個人ブログへのアクセスとしては十分すぎる結果だと、私は思う。

 日本は、関東圏に人口集中したおかしな国家だが、大学や公共機関の片寄りも、どうやら関東圏に偏っているように思う。だから、当ブログへのアクセス記録もそのような偏りを見せているのは事実だが、そうなってくると、当ブログの特性とともに、地域のデジタル・デバイトも気になってくる。

 そこで、地域中心のプロバイダからのアクセスで、いままで確認できなかった地域の調査をしてみた。それを加えると次のような日本列島地図ができる。

プロバイダ含む3.gif

***.hbb.jp 北海道ギガビット協同組合

*.infoaomori.ne.jp  7-dj.com 青森県

*.cna.ne.jp 秋田ケーブルテレビ 秋田県 

*.catv-mic.ne.jp 水沢テレビのインターネットサービス  岩手県

*.catvy.ne.jp  ケーブルテレビ山形  山形県

*.mni.ne.jp ケーブルテレビ キャベツ 宮城県

*.cc9.ne.jp  CC9ケーブルテレビ 栃木県

*.warabi.ne.jp 蕨(わらび)ケーブルビジョン 埼玉県

*.wind.ne.jp  群馬インターネット  群馬県

*.ogaki-tv.ne.jp  大垣ケーブルテレビ 岐阜県

*.nns.ne.jp  中部ケーブルテレビ 岐阜県 

*.tst.ne.jp  となみ衛星通信テレビ 富山県

*.kagacable.ne.jp  加賀ケーブルテレビ 石川県

*.coralnet.or.jp  コーラルネット 北陸が中心

*.ttn.ne.jp 丹南ケーブルテレビ 福井県武生市

*.amigo2.ne.jp ケーブルテレビ・アイティービー 三重県

*.ccnw.ne.jp  中部ケーブルネットワーク 三重県含む

*.medias.ne.jp  知多メディアスネットワーク 三重県含む 

*.cypress.ne.jp  (株)サイプレス(インターネット接続サービス) 和歌山県

*.pikara.ne.jp  ピカラ 四国全域

*.megaegg.ne.jp メガ・エッグ 中国電力のプロバイダ 鳥取島根含む 

*.c-able.ne.jp 
山口ケーブルビジョン 山口県

*.people-i.ne.jp 唐津ケーブルテレビジョン 佐賀県

*.oct-net.ne. jp   大分ケーブルテレコム  大分県

*.wainet.ne.jp  ケーブルメディアワイワイ  宮崎県

*.miyazaki-catv.ne.jp 宮崎ケーブルテレビ 宮崎県

*.cncm.ne.jp   長崎ケーブルメディア 長崎県

*.synapse.ne.jp  シナプス 鹿児島県 

***.bbiq.jp  ビビック 九州全域

*.nirai.ne.jp 沖縄ケーブルネットワーク 沖縄

*.ryucom.ne.jp リウコム・インターネット・サービス 沖縄

 このほか、実に多くの地域プロバイダからアクセスされている。もちろん全国ネットの大手プロバイダについては言及するまでもない。ここまで来ても都道府県単位で確認できないところもあるので、まずはとにかく全国制覇を目指して、今後もウォッチングを続けてみよう。

ーーーーーーーーーーーー
追記 2009/2/26現在次のようになっている。
見落としたかもしれない可能性を含めた場合、これでほとんど日本列島がつながっている状態と考えることができるだろう。

プロバイダ含む4.gif



------------------
追々記 2008/03/08

 アクセス履歴の観察もはや2か月近く経過し、すでに、大学、地域プロバイダ、個人メッセージ、トラックバックなどから、日本全国は、都道府県レベルすべての地域からアクセスされていることを確認した。全てのアクセス者のみなさんに感謝。

プロバイダ含む7.gif

 次回は、プラネット地球のジグソーパズルに挑戦だ。

 

空洞地球.jpg

 

世界からのアクセス090316.gif



現在のところ世界からのアクセスは、20の国と地域を確認した。
2009/3/26






Last updated  2009.03.27 01:51:43
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カテゴリ:バック・ヤード

<1>よりつづく

「ウェブ社会をどう生きるか」 <2> 再読
西垣通 2007/05  岩波書店  新書  182p 
★★★★★

 前からすこし気になっていたので、あらためて読みなおしてみた。前回は出版された直後に走り読みしているのだが、自分が期待する内容が書いていないと、あとはほとんど目にも入れないような勢いで読み飛ばしてしまうので、書籍全体としての価値を評価できていなかったようだ。

 こうして出版後1年半経過したところで読みなおしてみると、実によくまとまった透明度の高い本だと思う。当時、当ブログもまだまださまざまな本を読み込み中で、同時進行で出版されていた同種の本にも十分目が行っていなかった。今回読みなおしてみると、当ブログの読書量もだいぶ増え、この本に引用されている他の本の価値さえも自分なりに判断できるようになった。

 この本、今読んでも決して古くない。「ウェブ社会をどう生きるのか」というタイトルだとするなら、その内容で実によくまとまっている本だ。ネット社会と呼ぶか、ウェブ社会と呼ぶかはともかくとして、現状と問題の把握、そして決して過激ではない提言の数々。読んでいて、安心するような説得力だ。しかし・・・・、それでもやっぱり、私の中ではあと40%くらい、もっと他のものを求めているようだった。

 「インターネット的」で糸井重里が書いていた。

 さて、筋肉系の工業化社会→神経系の情報化社会ときて、そのあとにはどんな社会がくるのかということも、なかなか興味深いことです。ぼくは、それは「魂(スピリット)の社会」なのではないか、と一見オカルトに聞こえますが、思ってます。
 感動とか、センスとかいうものがどんどん価値をあげていくのだとしたら、それは「魂の満足」を求める社会でしょう。
 「食物を持つ・生きられる満足」を得ようとする農業社会の時代が、「ものを持つ・力を持つ満足」の工業化社会の時代に移行し、「ことを持つ・知恵を持つ満足」の情報化社会がきたのですから、次は、持つことから自由になって「魂を満足させることを求める」社会がくるのではないかと考えても、そんなに不思議ではないとも思うのですが。
「インターネット的」2001/07 p114

 ここで糸井が言っている「魂(スピリット)の社会」とはいかなるものだろうか。それは、すでにやってきているのだろうか。あるいは糸井自身は、いま現在、それをどのようにとらえているのだろうか。彼の本なり活動についてはほとんど何も知らないが、ちょっと前なら「ゲドを読む。」というゲド戦記のセールスプロモーション本をめくった程度だ。

 西垣通の一連の本を読んでいて、限りなくこの「魂(スピリット)の社会」への矢印には気がつくのだが、その社会そのものについては語られることはない。いや、この本にかぎらず、この著者にかぎらず、インターネットと魂(スピリット)の社会をダイレクトについて語りきっている本は多くないのではないだろうか、などと考えていて、ふと次の文章が目についた。

 私は情報学の研究のかたわら小説も書いているので、これは自分の思いでもあります。クリエイターにとって作品は精魂込めたものですから、自分の名前を示さず勝手に使われたり、あるいは改竄されたりすることは耐えられません。p41

 前回は飛ばし読みだったので気がつかなかったが、著者は小説も書いているのだった。ググってみると、彼の小説はネットでも読めるようだ。なるほど、そうであったか。西垣通という人は、いわゆるデジタルな部分とアナログな部分を合わせ持った人間のようだ。

 私はデジタルな著者ばっかりみていて、積極的にアナログな表現をしていることに気がつかなかった。著者もまた、アナログな部分はアナログに任せて、デジタルなものはデジタルで、という割り切り方をしているのだろう。私はデジタルな部分の著者にアナログ、アナログ、と言って、ないものねだりをしていたのだろう。ここは西垣通という人の小説も読んでみなければなるまい。

 思えば、梅田望夫が「ウェブ人間論」で対談した平野啓一郎も小説家だったし、「ターシャム・オルガヌム」の解説を書いていた小森健太朗も小説家だった。ゾルバ・ザ・ブッダのゾルバも小説「その男ゾルバ」が原典なのであり、Oshoは「私が愛した本」においても多数の小説のタイトルをあげているのだった。

 自称「プロの嘘つき」村上春樹について、当ブログでは彼のノンフィクション的な側面だけにアプローチしてきたのだが、今後は、この小説嫌い的体質は大いに反省して、今後はすこし小説も積極的に読んでいかなくてはならないだろう。ウェブ社会がアーシングするのは小説を通してか。

 そこまで行って考えた。宗教と言え、チベット密教と言え、これらはいわゆるアーシングとしての小説とつながっているのではないだろうか。タントラだって、マンダラだって、必ずしもノンフィクションとばかりは言えない。フィクションとまでは言わないまでも、人間の想像力に大きく依存していることは間違いない。しかし、ここまでくると、次のような反論もでてくる。

 それは、アメリカ人カルロス・カスタネダが創作した仮空の人物である「ドン・ファン」のようなフィクションではない。この男は人類に対する大いなる害をなした。人は霊的虚構(スピリチュアル・フィクション)を書くべきではない。その理由は単純で、人々が霊性(スピリチュアリティ)とは虚構にほかならないと考え始めるからだ。OSHO 「私が愛した本」p173

 さぁ、かなり微妙な話になってきた。

 私が小説を書く理由はひとつだけです。個人的存在の尊厳をおもてに引き上げ、光をあてる事です。物語の目的とは、私たちの存在がシステムの網に絡みとられ貶められるのを防ぐために、警報を鳴らしながらシステムに向けられた光を保ち続ける事です。私は完全に信じています。つまり個人それぞれの存在である唯一無二なるものを明らかにし続ける事が小説家の仕事だとかたく信じています。それは物語を書く事、生と死の物語であったり愛の物語であったり悲しみや恐怖や大笑いをもたらす物語を書く事によってなされます。生と死の物語や愛の物語、人々が声を上げて泣き、恐怖に身震いし、体全体で笑うような物語を書く事によってなされます。だから日々私たち小説家は、徹頭徹尾真剣に、創作をでっちあげ続けるのです。  村上春樹 エルサレム賞受賞講演

 当ブログ第二ステージではこのあたりを十分考慮していかなくてはなるまい。 







Last updated  2009.02.24 09:06:05
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2009.02.21
カテゴリ:バック・ヤード


「戦争絶滅へ、人間復活へ」 93歳・ジャーナリストの発言
むのたけじ 2008/07 岩波書店 新書 p205 発行年月
Vol.2 No.530 ★★★★★

 この人には、おべんちゃらや、お世辞を言っても仕方ない。ありのまま感じたことを書いておくしかないだろう。もっとも、いままで当ブログは基本的にいつでもそうしてきたが、しかし、やっぱり、それでも、この人にコメントをつけるのはむずかしい。

 実際、この本の出版直後に一度目を通しているが、その時は、当ブログがチベット密教真っ盛りの時でもあり、なんにも書けなかった。今回だって、さて書こうと思ってもそう簡単ではない。ほめ言葉から書こうか、批判から始めようか。

 93歳。当ブログでは「百歳回想法」「人生を癒す百歳の禅語」など、長寿をテーマにした本も何冊か読んだ記憶があるが、この93歳のジャーナリスト、ますます現役だ。高齢であることをカサにも着ていないし、エクスキューズにもしていない。先輩でも後輩でもない。人間対人間だ。

 この本のテーマが大きく二つに分かれ、一つが「戦争絶滅」で、もう一つが「人間復活」だとするなら、前半の「戦争絶滅」については、その従軍記者として見聞した戦地の体験をもとに、戦後、朝日新聞を退社し、みずから小さな新聞を出し続けたことを別にすれば、必ずしも目新しい哲学があるわけではない。

 しかし、その哲学を生きたのだから、もう余人は何にも言えない。その本人がここにきて「朝日を辞めるべきではなかった」p69と発言しているのだから、その勇気と正直さと、くったくのない人間性に驚かざるをえない。この本、どこを切り取っても、何行もコメントをつけることになり、収拾がつかなくなる可能性が高い。

 「今回の話は、93歳の私からの遺言みたいなものです。この本を読者がどう読んでくれるのか、楽しみですね。」  p194

 まさに遺言だ。ひとつひとつが重い。しかし敢えて言うなら、93歳になって、これが残されるべき言葉だろうか、と疑問が残る。戦争については「禅と戦争」「浄土真宗の戦争責任」「反戦平和の手帖」「特攻隊と憲法九条」「特攻隊だった僕がいま若者に伝えたいこと」「兵役を拒否した日本人 灯台社の戦時下抵抗」「戦争と聖書 兵役を拒否した燈台社の人々と明石順三」「非戦という希望」などなどを断片的に読んできた。戦争、反戦、非戦、平和、については、十分な読み込みではない。圧倒的に不足している。しかし、この本は、これらの本の流れで読まれるべき本ではないだろう。著者は「戦争をやめさせた反戦運動はない」p76と断言する。

 戦争は悲惨だ、兵士はかわいそうだ、あれは許せない罪悪だ、ということを百万回大声でしゃべったって、戦争をやろうとしている連中には、痛くもかゆくもないわけです。戦争が始まってから反戦平和運動をやったところで、戦争の論理とエネルギーに引きずられてしまう。戦争をなくすには、戦争をする必要をなくして、戦争をやれない仕組みをつくらなければだめです。かつて、そこまで踏み込んだ平和運動は一つもなかった。p76

 この本は当ブログで言えば、「アート・メディアとしてのブログを考える50冊」の中に加えたい一冊と言えるのではないだろうか。故郷秋田に帰って創刊した「たいまつ」は、コンテナとしてのメディアを形成していた。自ら取材して記事を書き、活版を組んで印刷し、全国に配送する。そして代金を回収して、次号の経費に回す。コンテナとしての、そのサイクルを作り上げたのだ。

 今なら、このサイクルをインターネット上のブログ機能で十分できる。生活費は稼げないが、個人メディアを形成するのに、経費はほとんどかからない。ひょっとすると、読者さえ、もっと大量に獲得できる可能性が高い。

 著者にして、このコンテナとしての「たいまつ」を維持させたのは、もちろん「反戦平和」のコンテンツがあってこそだが、「反戦平和」のコンテンツを持っていたとしても、みずからコンテナを作ることは、非凡な才能がなければできなかった。でも、鎌田慧の「反骨のジャーナリスト」にも著者は取り上げられているが、当ブログがこの著者から学びたかったのは、本当は、もはやコンテナでもなく、コンテンツでもなく、コンシャスネスとしてのジャーナリズムだった。

 反骨、反権力というより、さらに一歩進んだところに、著者はなにかを言い残したがっている。それこそが、この本の後半のテーマ「人間復活」についてであろう。

 教祖様がこの世を救うなんてことは、あるわけがないんです。一人が何千、何万の人間を救うなんて、常識で考えてもありえない。宗教は、人間が「ウルトラ」の存在を求めて創造したものにすぎません。「神様が人間をつくった」というところからうそで、人間がいなければ、神も仏も悪魔も天使も出てこない。人間が人間のつくったものに額づく、というのはおかしいじゃないですか。p184

 若かろうと、高令であろうと、ジャーナリストとしての見識なら、このコメントはごくごく当たり前のことだ。しかし、無遠慮を最初から自覚しながら言わせてもらえば、すこし煮詰めが甘いように思う。即断しぎる。「私は宗教は否定はしないけれども、『宗教を卒業するときだ』というふうに言っているんです。」p184とは言っているが、当ブログとしては、むしろ、人類はまだ真の「宗教性」に入学さえしていないのではないか、ととらえている。

 私たち普通の当たり前の人間たちは、結局のところ人間の常識を大切にして普通に生きぬくことではないか。人としてやらねばならぬと自分で思うことは、できるだけ力を込めてやる。人の道にそむくと思うことは、自分でやらないだけでなく、他人にもやらせないように手をつないでいく。この道を進めば、各個人をも人類みんなをも最もあやまりの少ない道に導くのではあるまいか。p203

 ここの部分についても、反論するものは何もないのだが、必要かつ十分とは思えない。93歳のジャーナリストに「私たち普通の当たり前の人間」と括られてしまう時、私は、その言葉のなかにすくい取られていない、私自身の不可知な部分の神秘な部分が取り残されているような気分になる。別に特別な人間だとは思わないし、特別な人間にもなりたいとも思わないのだが、私たち人間は、普通でありながら、なおかつ、ひとりひとりが「特別」だ、というニュアンスの味付けが欲しい。

 「人間の常識を大切にして普通に生きつらぬく」ことに何の反論はないのだが、人間とは何か、常識とはなにかについて、煮詰めが足らない。既知、未知、不可知、の3ステージがあった場合、この著者においては、既知の常識、というニュアンスが一番強い。もちろん未知についてもオープンなことは分かる。しかし、不可知な存在としての人間、というものに言及されなければ、当ブログとしては、素直に無批判的に著者のこの部分の言葉を受け取ることはできない。

 「常識」や「普通」はどこからやってくるのか。単一価値観によりかかった社会ならそれもいいかもしれない。しかしこれだけグローバル化した地球社会の中で、常識とか、普通、とは一体なにか。どこからそれはやってくるのか。そして、著者においては、常識や普通は、「社会」の中にあるようであるが、ひとりひとりのなかにある「常識」とか「普通」とはなにか。

 93歳の人生の先輩に対して、言上げすべき内容ではない。感想として書かれるべき言葉ではないかもしれない。しかし、個人的にこの本を読んだとしたら、やはりその点を私はこの本に求めるのだろうし、その部分が、この本に限定した場合、不足していると、私は思う。







Last updated  2009.02.25 14:33:57
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2009.02.20
カテゴリ:バック・ヤード


アガタ・ザ・テラン 誕生

 Agata the Terran.jpg

 今朝ワシントン大学からアクセスがあった。ついにと言うべきか、ようやくアクセスされていたことに気がついたというべきか。図書館から借りてきた本を一生懸命読み込んで、書き込みが多いうちは、書き込んだ直後に楽天IDからのアクセスが押し寄せるので、それが楽しみだったのだが、外からのIDにはほとんど関心を寄せることがなかった。

 最近は、当ブログのサドンデス、あるいはフェードアウトのため、書き込みを減らしているのだが、そうすると楽天IDは激減し、外からのプロバイダIDだけが残るようになった。最初はほとんど気に留めなかったのだが、ある時、*.u-tokyo.ac.jp というIDが何度も何度も残っているので、へ~、これはどこのプロバイダじゃい?とググってみたら、なんと東京大学からのアクセスであることが分かった。

 もちろん、それは学生かも知れないし、たまたま他の本のリストに引っかかった当ブログをワンクリックしてしまっただけだったかの知れない。だが、少なくとも、気ままに書きなぐっている個人ブログが、東京大学の誰かは知らないが、そのうちのどこからかはアクセス可能なのだ、と当たり前のことにようやく気がついて、ちょっと驚いたのだった。

 そのことに気がついて、メモをはじめたのが、「大学から当ブログへのアクセス」である。メモしてみれば、なんと日本列島ほとんどからアクセスされており、大学名だけではまだ日本地図は埋まっていないが、これに地域プロバイダや地方を中心とした企業名などを入れると、完全に都道府県を網羅していることが分かった。

 しかも、その基礎データとなっているのは全アクセス数の約2~3%なのである。あとは大手プロバイダ等なので、地域も用途も特定できない。なかにはスパム目的で何度もアクセスしてくるギャングもいるので、あまり歓迎はしたくないが、これだけアクセスされているということにあらためて驚いたというところである。

 外国からもアクセスされており、カナダ、中国、フランス、アメリカ、ブラジル、デンマーク、台湾、イギリスなどからのアクセスの痕跡がある。当ブログは日本語で書いてあり、まぁ、海外に行っている日本人か、当地のひとの気まぐれであろうとタカをくくって相手にしていなかったのだが、今朝、なんと米国ワシントン大学からのアクセスがあったことに気がついて、あらためて、ブログ機能のすごさに驚いた。

 彼らはいったい何を求めて当ブログに来るのだろうと思い、戯れに英語版Googleで当ブログを検索し、自動検索機にかけてみた。そしたらどうだ、なんと日本語Onlyなはずの当ブログは、英語版で読めるではないか。しかも一文章とか一ページのみというわけではない。当ブログにリンクを張ってあるところは全部英語に翻訳されるし、外部の本の案内なども、可能な範囲で英訳されている。これにはあらためてびっくりした。

 もちろんその翻訳機能は完全ではない。ざっと見て意訳で30点くらいの出来だろうか。で、あったとしても大意はつかめる。自分で翻訳できない異言語であったとしても、諦めるのはまだ早いということであろう。例えば、当ブログにアクセスしてくれたパリ第七大学関係者などは、フランス語で当ブログを読んでいる可能性もゼロではないのだ。地球は本当にグローバル化している。

 ちなみに昨日の当ブログで引用したこの部分 

(Osho Rajneesh) is the greatest incarnation since Gautama Buddha in India. He is a living Buddha.
Lama Karmapa 
Head of Tibetan Buddhism Quoted in Il Giorno, Italy
April,1988         裏表紙より

は、エキサイト翻訳で翻訳して、次のように日本語化しておいた。

 「インドの釈迦牟尼仏陀以来オショー・ラジニーシは最もすばらしい肉体化です。 彼は生きている仏陀です。
1988年4月に不-Giorno、イタリアで引用されたチベットの仏教のラマ僧のカルマパのヘッド」

 そうすると、こうなり、なんとも奇妙な部分は残るが、意味が分からないでもない。まぁ、60点が合格ラインだとすると、50点というところか。40点の赤点ラインは超えている感じがする。そして、この部分が、当ブログの英語版に再・翻訳されると、こうなる。

 
"Osho Rajneesh in India since the Buddha Sakyamuni is the most amazing body. He is a living Buddha.
1988年4月に不-Giorno、Not in 1988 4-Giorno, KARUMAPA the head lama of the Tibetan Buddhism was referred to in Italy. "

 なんとここまで来ると、自動翻訳に頼るのも、いかがなものかという珍妙な翻訳となっているが、もし、読み手側に、なんとしてでも読み込んでやろうという意欲があるならば、読解できない文章ではない。TOFICやTOFLEでは合格しなくても、まるで「吉祥秘密集会成就法清浄瑜伽次第」でも読み込んでやろう、という意欲の持ち主だったら、まったく意味不明ということでもないだろう。

 村上春樹の文学は世界中の言語に翻訳され、その結果、世界中の人々から読まれ、評価されてこそ、イスラエル賞の受賞する場での講演となったわけだが、世界中から「読まれる」立場になるには、現代においては、なにも小説家になったり、他言語に翻訳されることが必須というわけではない。「評価」されることはともかく、すくなくとも「発信」だけは誰にでもできる時代になっているのだ。

 自称「プロの嘘つき」である村上春樹が「私たちは誰もが人間であり、国籍・人種・宗教を超えた個人です。私たちはシステムと呼ばれる堅固な壁の前にいる壊れやすい卵です。」と発言するとき、世界中のどのブログにおいても「どんなに壁が正しくてどんなに卵がまちがっていても、私は卵の側に立ちます。」と宣言することはできるのではないか。

 ちなみにわが世代・中川昭一について、当ブログでは日本語のコメントを転載するのは忍びなく、あえて中国評論新聞網というところにリンクを張っておいたのだが、なんと当ブログ英語版からリンクに入っていくと「G7 ministers辭職Nakagawa goods than health reasons, Ro ugly drunk」というなんとも珍妙な言語となるのであった。

 言語の限界性があるとは言うものの、言語の可能性はかぎりなく追及される必要がある。特にサイバー・ネットワークにおいては言語は大きな表現手段である。可能性ゼロではない以上、できる限りの努力はされる必要がある。

 今回、当ブログの英語版であらためて思ったのは、地球人とはTerranとなることだ。なかなか翻訳しにくいし、日本語でもまだ一般的ではないようなのだが、この辺で当ブログでは、地球人=Terran=テランとしておこうではないか。

 そして、当ブログではアガルタ探検隊を派遣してきたのだが、ここまでなかなか納得のいく発見はできなかった。ここらあたりで、アガルタ=agartaと、アガータ=Agataははっきりと別個なものとしておこうと思う。アガータはアガルタからやってきた地球人としての、当ブログ独自の理解である、としておこう。そして、この際、短くしてアガタとしておく。

 地球人アガタ。ここはわが師Oshoの「ゾルバ・ザ・ブッダ」になぞらえて、「アガタ・ザ・テラン」とはしてはいかがだろうか。アガタは大地から湧き出でてきた存在ではあるが、すでに地球人として生きている当たり前の人間だ。ごくごく当たり前の人間たちのネットワークであり、当ブログは、まずその一つのポイントになろうではないか。

 本日のNHK番組「週刊ブックレビュー」にゲスト出演していた中川五郎が、むのたけじの「戦争絶滅へ、人間復活へ 九三歳・ジャーナリストの発言」を紹介していた。実は私もこの本を読んでいたが、まだそれについてブログの中で触れるチャンスがなかった。そのうちアップしよう。戦争絶滅、人間復活、はまさに当ブログにそのままいただきたいテーマである。むのたけじ、戦後の彼の孤軍奮闘の歴史は、現代ブロガーのまさに鏡ではなかろうか。まさに個人メディアの元祖だ。

 戦争絶滅、人間復活。その夢を当ブログとして、アガタ・ザ・テランに託すことができるだろうか。







Last updated  2009.02.22 00:20:48
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2009.02.19
カテゴリ:バック・ヤード

<3>よりつづく

「Om Mani Padme Hum」<4>
 The Sound of Silence, The Diamond in the Lotus
Osho

   最後の「21th カテゴリ」になだれ込んで、「観音のマントラ」も108に達し、現在17万のアクセス数が21万に達しようとする頃、幻身たる7つの身体もホロ見えて、当ブログにとっての究極、大団円への運びとなることだろう。当ブログ2008.10.27の書き込み

 現在この21番目のカテゴリとしての「バックデータ」カテゴリも、つねにサドンデスで終了する可能性があったのにもかかわらず、78個のエントリーを数えてもまだ終了する気配はない。このままだと、残り30個も吸収して、108個目までいくことになるのだろうか。

 そんな中、当ブログを「お気に入り」に入れてくれている楽天ブログのブロガーたちは長いこと21人で定量を保ってきたが、ここにきて微増し、現在24人になった。

 アクセス数は、さまざまな要素が絡み合いながらも、過去一週間の平均では一日500程度で推移している。そして当ブログの当面の目標だった21万アクセスには、本日到達した。拙いブログなのに、貴重な時間を使ってクリックしてくれたネットワーカーたちにお礼を申し上げたい。

 さて、当ブログ第一ステージは、そろそろフェードアウトする段取りとなって、このままサドンデスでも構わない気分でもあるのだが、ひとつ気がかりなことがある。

 それは、「観音のマントラ」(オンマニパドメフム)コレクションがまだ108に達していないことだ。20個ほどの空きがある。これを埋めるために、あらたなチベット本の中を探しはじめるには時間がかかりすぎるだろうし、また、現在となっては、探すという行為自体、関心のターゲットから外れてしまっている。

 なぜこうなったのか。振り返れば、いくつかの理由があるのだが、ひとつには、チベット密教の奥伝に近づくと、オムマニパドメフムは、もっと言魂化が進み、OM AH HUM、などと表記されることが多くなっていたのだ。例えば「吉祥秘密集会成就法清浄瑜伽次第」「反密教学」においてもこの言魂化は進み、単音化している。だから、本質に突き進みながら、あのリストには転記できない微妙な色合いがでてきていたのであった。

 当ブログとしては、すでにあのマントラ・リストは108に達しているのと同じことであると解釈はしているのだが、、第一ステージ最後のカテゴリ「バックデータ」に残り30ほどの空きがあり、「観音のマントラ」に20ほどの空きがあるかぎり、この空間を使って、オンマニパドメフムから、OM AH HUMへとつないでいくことも一興であろう、と考えることにした。

(Osho Rajneesh) is the greatest incarnation since Gautama Buddha in India. He is a living Buddha.
Lama Karmapa 
Head of Tibetan Buddhism Quoted in Il Giorno, Italy
April,1988
         裏表紙より

 今回あらためてこの本を眺めていてこのコメントを見つけ、短いコメントであるがゆえに、なお心動かされる部分があった。いや、動く心などに関わっている場合ではないが、魂の深いところで地下道が貫通する音がした。

 エキサイト翻訳にかけてみれば、

 「イ
ンドの釈迦牟尼仏陀以来オショー・ラジニーシは最もすばらしい肉体化です。 彼は生きている仏陀です。
1988年4月に不-Giorno、イタリアで引用されたチベットの仏教のラマ僧のカルマパのヘッド」

 となる。まんざら意味が通じないわけではないが、一番、???となる部分は、1988年というところ。カルマパ16世は1981年に亡くなっているのではなかったか? カルマパ16世がOshoに触れた部分は、「マイトレーヤ」の「高僧謁見記」に詳しく書かれてる。

 図書館には次から次と新刊が入庫し、書店に行けば刺激的な本が平積みになっている。RSSに登録して読んでいるいくつかの読書ブログにも素晴らしいコメントが続いている。あれもこれもと、興味はつきないが、当ブログ、ここは、「吉祥秘密集会成就法清浄瑜伽次第」「反密教学」と、この「Om Mani Padme Hum」の三冊を持って、私的ジャーナリングの第一ステージをしめくくることにしよう。

Om Mani Padme Hum







Last updated  2009.03.07 12:57:25
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