地球人スピリット・ジャーナル1.0

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2009年4月1日

地球人スピリット
・ジャーナル2.0


へ引越しました。

全108件 (108件中 31-40件目)

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ブログ・ジャーナリズム

2006.11.17
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地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく



 

「壊れる男たち」
金子雅臣 2006



 この本の内容も厳しい。身につまされる。いわゆるセクハラというものに対する考え方を再認識させられる。最近では、北米トヨタの元社長秘書の
210億円訴訟というのが話題になった。あの西武ライオンズ松坂投手のボストン・レッドソックスへの移籍問題で言われている60億円などはかすんで見える。

 インターネット時代になって、あらゆるお茶の間で職場でお手軽に無料ポルノを見えるようになった。動画であろうと変態であろうと、なんでもござれだ。多分、この10年間ほど、地球人類がこれほどまでにお手軽に春画やポルノグラフィーを手にできるような時代になったことはあるまい。まぁ、逆に言えば、他の情報も同じことがいえるのだが、その中にあって、このセクハラという問題は、男たちにとっては、当然のごとく手厳しい。

 私は漠然と、セクハラとは、職場で卑猥な下品な言葉を女性に発したり、間違ったふりして、お尻にさわって「キャ、エッチ!」といわれたりする程度のことかなぁ、と思っていたが、この本を読んでみると、なんと、ものごとはそれほど簡単で皮相なものではないようだ。そこには職場における職権や立場を援用したパワーハラスメントが色濃く関与しているのである。

 下半身問題については、私も奇麗事だけを言えるわけもなく、白日の下に何事かを告白できるものではない。しかしながら、まぁ、そのような事件の当事者になった人たちに対しては、お気の毒というのか、なんでかなぁ、と反省を促すというか、とにかく、内心は他人事ではない。

 カウンセラーの端くれとして、いろいろと大人の恋愛をながながと聞かされたことが、何度もある。ほうぉお、こういう立場の人がこういうことをねぇ、と、人生は小説より奇なりとはいうけれど、びっくりするような内容にぶつかることもおおかった。

 もちろんカウンセラーとしては、大げさにびっくりした態度は見せないし、そのこと自体を取り上げて、どうのこうの諭す立場にないのだから、自然と忘れていくものは自然と忘れてしまうことにしている。しかし、私がかつて聞いた内容が単なる大人同士の「情事」で片付けられないような、微妙なお話もあったのだろうなぁ、とあらためてこの本を読んで再認識した。

 特に、私は男性であってみれば、どうしても男性としてのジェンダーとしてのものの見方をしてしまっているようだ。ふうむ、女性の立場からのお話は、聞いて見なければわからないことが多く、きっと聞いてもわからないこともあるに違いない。

 数年前、中学校の校長までなっておきながら、電車内で破廉恥行為に及んで解雇になってしまった高校時代の同級生がいたが、彼の行いは、セクハラという意味では、ほんの一面をみせてくれただけであった。職場や大学でよくセクハラ問題が取り上げられるが、実際のところ公表されていないところで何があったのかは外部の人間には良くわからないことが多いのだろう。

 そういえば、数年前に日本共産党の要職をはずされ、やがて離党してしまった
筆坂秀世も、その理由はセクハラだった。その経緯については週刊誌にもかかれたようだし、彼の本にも詳しく書いてあるが、まぁ、あの程度のことがセクハラだとすると、いったいどこにどんな基準があるのだろう、と不思議な気分になる。

 
セクハラを”する男”と”しない男”
 「そんな区分はありえない」し、「壊れているのはもとからで、最近のことではない」というのがフェミニズムを中心とする人たちの意見であり、「男というものは、すべからく差別的であり、セクハラ体験をもっていて、そうした区分は意味がない」という言い方が主張であるようである。
p181

 わお、ここまで言われれば私には何もいえません。代わって、もとアメリカ大領領のmr.クリントン氏にでも答えてもらいたいものだ。もっともこの本では、女性からの男性に対するセクハラ(「日本郵政公社事件」大阪地裁 平16.9.3判決)p222というものも紹介しているが、まぁ少数であるようだ。

 いずれにせよ、わかっていることだけ知りたいのなら新たな本を読む必要もないのであり、このような本を通じて、新たなる視点に気づかされるということも貴重な体験だ。







Last updated  2009.03.29 13:08:55
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「魔法ファンタジーの世界」 脇 明子 2006



 このブログで読書をしながら何事かを書こうとしている理由はいくつかあるが、重要な要素の一つに我が家の奥さんが近年、いきなり読書を始めたということがある。いままでも読まなかったわけではないが、ほとんどの家庭の余暇時間は家族や親戚へのプレゼント用の編み物をやっている、ということが多かった。ところが数年前から某中学校の図書事務を引き受けることになり、読書が始まったのである。

 それを見ていて、私も刺激された、というわけだが、彼女の場合は、ティーンエイジャーとその教員たちが読む図書が多く、また、新設校ということもあり、図書購入費が通常の学校より多いため、自分で図書選択にかかわることが多いらしい。それで、まず図書館にある図書の手短なところから読み始めたのだが、これにどうやらはまったらしい。

 多いか少ないかは分からないが、月にハードカバーを20冊くらい読んでいるようだ。最初は、学校でも人気のある
「ハリーポッター」「ナルニア国物語」から始まり、「指輪物語」「ゲド戦記」など、どうやらファンタジー小説へと進んでいったようだ。その後も、次々と読み続けているのだから、一緒に住んでいるこちらとしては、はて、何を読んでいるんだろう、と気になり始めたのだった。

 ある時、郊外をドライブをしながら、居眠り防止のために、彼女は助手席で、小説のダイジェストのお話をしてくれたことがあった。これが面白かった。よく、これだけ小説のこまかいディティールまで覚えているものだなぁ、と関心したのである。まず、このファンタジーを読んでみたいと思った。そして、同じ小説を読んで一緒に感想を話し合うことも夫婦円満の秘訣か、と咄嗟に思ったのだった。

 しかし、彼女の薦めてくれたファンタジーの世界に挑戦したものの、今のところなかなか進まないというのが本当のところだ。そんな時、この「魔法ファンタジーの世界」がなんらかの手助けをしてくれるかなぁ、と思ったのだが、さて・・。

 物語を読むことが大変なのは、その世界に入り込むまでであって、それは長編でも短編でもおなじなのだから、急いで読み終えて数をかせごうなどと思ってさえいなければ、短編を十読むよりも、入る手間が一度ですむ長編のほうが、かえって楽だ。それに、短編では、その世界が心に刻みこまれる前に終わってしまうことが多いけれども、長編だとその世界や人物たちがどんどんリアルになってきて、物語を読むことの本当の楽しさが実感されやすいのも利点である。p18

 なるほど、そういうものか。いずれにしても「物語を読むことが大変」という感覚は、私だけのものではないようだ。しかし、とにかく私はいそいでこの本を読んでしまおう、と「数」を稼ごうとしていることは確かだ。すでにこちらの姿勢を見透かされている。再チャレンジするときは、もうすこしゆったりとその世界に浸るつもりで入っていくことにしよう。

 私にとっての現実の世界はというと、いろんなやっかいごとが目白押しだが、ファンタジーの世界から抜け出してまずい最初に気になるのは、とうていいいとは思えないようなファンタジー作品を、子どもたちが好んで手にしているという現実だ。p176

 ファンタジー作品のいくつかの走りを読み始めている段階では、私には、良いも悪いも分からないが、幻想小説や神秘主義的作品ということで言えば、例えば、雑誌「ムー」に書かれているようなことと、現実の境目がなくなって、虚構の世界に走り始めてしまったAなどの集団があったことを思い出す。私がこのブログの主テーマにあげている「来るべき種族」も幻想小説の世界である。これがナチスに何事かの影響を与えているとすると、この辺は実はとても要注意だろうと思う。

 娯楽においても、ホラーなどのグロテスクなもの、暴力的なものが人気を集め、それも以前と同程度の刺激では喜ばれなとあって、どんどん刺激をエスカレートさせつつある。
 だが、そんなものを押し付けられたら、子どもたちは、日々の困難を乗り越えて成長していく気力を失って当然ではないだろうか。お先まっ暗なこの世界に、もう子どもなんかいたって仕方ない、とあきらめてしまうのならともかく、少しでも未来に希望を持ちつづけるのなら、私たちは、昔々の大人たちが炉端で昔話や思い出話を語ったように、子どもたちが生きていくための助けになるような物語を、ちゃんと選んで手渡す配慮を怠ってはなるまい。
p186

 なるほど、そういうものか。これからもファンタジーは心して読みすすめていかなくてはならないなぁ、とあらためて再認識。この辺のところにうちの奥さんの仕事の一端もあるかもしれない。この本、女性の書き手によって書かれている。女性らしい視点が各所にある。私には魔法ファンタジーの世界は、ちょっと敷居が高いのであるが、時がきたら、おもむろにまた読み始めてみようと思っている。







Last updated  2009.02.01 16:02:29
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2006.11.16

地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく



 

「BRICs新興する大国と日本」 
門倉貴史 2006



 BRICsとは、現在、経済新興いちじるしいブラジル、ロシア、インド、中国の頭文字をとって、ゴールドマンサックス社がなずけた名称である。これらの国は、高い経済成長を続けており、日本の2.7%という実質経済成長率に比して、プラス7.2%となっている。

 中国株に続いてインド株が注目の話題になり、またITのソフト関連産業がインドで花さいていることは、インドに多少の縁のある自分としてはうれしい限りだ。あのインドの混沌とした文化とIT産業がマッチしたら、いったいどのような文化が発展していくのだろうと、楽しみでもある。

 しかしながら、現在のところは、富裕層と貧困層の格差が増大したりする矛盾点も増えているに違いない。中国やブラジルにしても、大人口を抱えながら、経済が新興して、人々がより豊かになりつつあるとしたら、それはそれで同慶に耐えない。

 日本において高度成長時代というのは、過当競争や自然破壊を生み出し、必ずしも歓迎すべきことばかりではなかった。そして、バブルがはじけて、デフレ経済になればなったで、リストラ、就職難というデメリットを生み出した。経済というのは、このようになったら、どこからみても満点だ、ということはなさそうだ。

 このBRICsにおいても、見る視点を変えれば、よいことばかりではなさそうだが、日本の経済ばかりを考えていると落ち込みがちになるので、このような元気のよさそうな話を覗いてみる価値はありそうだ。







Last updated  2009.03.29 13:10:51
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地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく



 

「禅と戦争」 禅仏教は戦争に協力したか 
ブラィアン・アンドルー・ヴィクトリア著 エィミー・ルィーズ・ツジモト訳 2001 原著1997



 友人Cダ氏の書評にあった一冊。地元の図書館になく、他の図書館から借りてもらった。この本、日本語版は2001年に
光人社という出版社からでているが、いったいこの本がどのくらい出版されて、一般にどのような読まれ方をしたのかは、にわかには判断がつかない。しかしこの光人社の出版リストから考えると、このような出版社からでることになった経緯も知っておきたいものだと思った。

 この本、
原著ではペーパーバック本なのに、日本語訳になるときはハードカバーになっている。いずれにせよ、「禅仏教は戦争に協力したか」というセンセーショナルな主テーマだけに、物議をかもし出さないでいるわけはなく、しかも、立場によっては、とても直視できない内容となっている可能性もある。

 本書の出版に際し、一人の年老いた中国人僧からは、どうかこの本を発行しないでくれといわれ、心が動くこともあった。彼いわく、「もしこの本が世にでるなら、仏法をけなすことになりかねない」と訴える。かつて日本の侵略の犠牲者であるはずの老僧であるだけに、彼の思いはいっそう私の心に響いた。もしや私自身、この人のいうように、仏法を誹謗していることになるのかと自問自答をくり返した。p281

 当然、内容のいかんによっては、このような感想や意見があって当然だろうし、読まれ方によっては、まさにそのとおりになるかもしれない。著者は1961年、アメリカにおける良心的徴兵忌避者として、日米親善のキリスト教宣教師として来日した。そのあとキリスト教の「聖戦」思想に疑問を感じ、仏教の非戦思想に心ひかれて禅の道へと進んだという。

 曹洞宗の僧となった著者は1970年の春に、上司にあたる僧から「あなたは曹洞宗の僧、さらに駒沢大学で仏教学を専攻する大学院生でありながら、日本でのベトナム反戦運動に加わるとはなにごとか」と叱咤された、ということである。p11

 私には、この辺の事情や時代背景については、よくわかる感じがする。私もこの時16歳の高校二年生だったが、やはり同じようにこの春にこの運動に加わっている。この頃、地学の教師は、一週間に一度の授業をそっちのけで、「全共闘とは全狂頭だ!」と教壇の上で板書までして、激怒していたことを思い出す。私には、日本の仏教など、右翼反動のなにものでもない、という勝手な思い込みがあったが、ゆえに、逆になんの期待もしていなかったのではなかっただろうか。

 70年前後の団塊の世代を中心とした、いわゆる学生運動が下火になった頃、心の時代とやらがやってきて、私はにわかに宗教や仏教というものを見直すようになった。20歳前後の時には、この本にもでてくる曹洞宗名刹に参禅するようにになり、その思想にも関心をいだくようになった。

 機縁、法縁とは不思議なもので、私はそのまま仏教への道を進むことなく、やがて「存在の詩」に触れて、インドへと旅立ちOshoの門に入った。そこに一年間滞在したあと、帰国した私をまっていたものはさまざまあれど、そのうちの一人は曹洞宗の僧侶だったから、不思議なものだ。

 私は、かつて参禅していた禅寺を再び訪れてみた。その時、それほど歴史的なものを学んでいたわけではなかったが、その境内にはいったとたんに、私は「血のにおい」を感じたのである。その時、私には、戦国時代ゆかりのこのお寺に残る、その戦国の侍達の血のにおいであろうか、と感じていた。

 この本を読んであらためて感じるのは、戦国時代どころか、20世紀に行われた戦争の血のにおいがしたのではなかっただろうか、ということだった。禅仏教がいかに戦争に「協力」していったかが、著名な僧侶達の残した文献から、その経緯が詳しく述べられている。

 この本の前半部分においては、僧侶でありながら、いや仏教を護持する僧侶であるからこそ戦争に反対し、「非協力」立場を貫いただけではなく、明らかに反戦を唱え、高々と宣言したがゆえに処罰され獄死していった僧侶達も多くいたということにも触れている。

 この本は貴重であると思いつつも、ちょっと残念だと思うことは、私の感じるところ、仏教に一身をささげた人たちの中には、ブッタと同化することによって、自らの名を残すことをしなかった人々も多くいたに違いないということである。いや、むしろその人々のほうが圧倒的に多かっただろうと思う。その辺の配慮が本書にはちょっとかけているのではないだろうか、と思う。

 禅仏教と言われるところの、名前が残っている人々の、印刷物として残っている文献から、「禅仏教は戦争に協力したか」と問うている。この手の本は、学術書なのか研究書なのか、わからないが、その方法論とは裏腹に、明確に戦争に協力しなかった人々は多くいる、という点をどこかで見失っている。「声なき声」を見落としているような感じがするのである。

 私の生家の菩提寺は、もと曹洞宗の寺院であったが、檀家の合意のもと、戦後、曹洞宗から離れ、単立寺院となっている。その経緯、その可否はともかくとして、この度の戦争責任というものを考えた結果であったようである。現在の日本の仏教界がどのようなものであるか知らないが、私はインドに生まれたブッタの教えが2500年のサイクルで再びインドにもどり、再び次のサイクルがスタートしているという考え方に共鳴しているものである。戦争はあらゆる原因からおこるのであり、こと宗教、特に禅のみを取り上げて、論ずることは、私にはちょっと片手落ちのような感じがする。







Last updated  2009.03.29 13:11:17
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2006.11.13

地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく



 コメントをかいてくれた人に返信のつもりで書いたら、どうやら半角で1600文字しか入らないらしい。この文は6600文字ほどあるとか。しかたがないので、こちらに書いておきます。
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>abhi
 報告から。abhiの著書、どうやら市内の図書館には蔵書としてはいっておらず、現在、他の地区を探してもらっています。もうすこし時間ください。

 ところでabhiは学校の先生でしたよね(たしか)。僕は必ずしも学校嫌いじゃないのだけど、できるだけ学校にはいたくなかった人間なので、実は学校のことはよくわからない、というのが本当です。

 でも、自分の子供の子育てについては、自分なりに楽しみたいと思っていて(ごく普通の意味でですが)、幼稚園や小学校に通い始めた時には、地域の人たちにも注意していてもらいたいなぁ、という気持ちから、町内会の活動にも積極的に参加したし、PTA活動もやれる範囲でやってきました。

 でも、現在は、子供は二人ともボンクラなりに成人してしまったために、おかげさまで、もう学校のことなんか考えなくて良くなった、万歳!、って解放感も実はあります。

 しかし、このごろの学校にまつわるニュースを見ていて、はてさて、どうなっているんだろうなぁ、ということがいろいろあります。

 実は、PTAから離れてすでに3年になるのですが、県の教育委員会の外部委員というのを二つしてました、4年くらい。学校評価システム、ってのと、エクセレント・ハイスクールという特色ある学校づくりってやつですね。この外部委員は3人いて、某国立大大学院の教育学の教授と県P連の会長と、私は民間代表だそうです(笑)。実際は、元P会長ということで呼ばれているわけですが、いろいろ通常なら見れないところも見せてもらったし、十分ではないにしろ、「民間」の意見もそれなりに与えらた時間で自分なりに発言してきました。

 まぁ、どんな意見を言おうと、とにかく、校長も教育者も人間ですし、ましてや年齢が近ければ、ほとんど子供も同じ年配で、親としての心配ごとは同じなわけです。

 そんなこんなで、私はなるべく教師と対立しないように活動してきたつもりですが、やはりいろいろな教師がいて、とんでもないアホウはいるわけです(もちろん親もいろいろですが)。

 子供が受験体制にはいっている時期に、体育教師が酔っ払ってタクシーをかっぱらって運転し道に乗り上げ、逮捕される、という事件がおきたことがありました。

 こどもたちは動揺し、親たちは騒ぎ出し、校長は頭を抱えてしまいました。この時、私はP役員としていろいろ考えて、減刑嘆願の署名活動を中心となって行いました。

 身内に甘いとか言われることもありましたが、あえて教師をつるし上げたり、一年目の校長を詰問することで、私は何も解決しないと思ったからです。

 署名活動には私の見るところ約50%の人々が賛成でした。実際には3日間で1000名ほど集まったのですが、教師は首にはなったものの、署名は役にたったようで、その後、事件はほどなく沈静化しました。

 これはいろいろ考えると、私自身が、地域密着で仕事をしていることが多く、こまぎれながら、P活動に時間を割くことができたからできたことだと思ってます。
その他、エピソードは限りなくあるのですが、子育てや教育、地域づくりということが、みんな自分のやれる範囲で協力してくれれば、うまくいくことも多くあると思うのです。実際には、学校はあれだけの人数がいるわけですから、毎日毎日ドラマの連続のはずです。事件はあって当たり前だと思う。

 でも、どこかでぶっちぎれて、取り返しのつかない大事件に発展してしまうのには、なにか原因があると思うのです。

 家庭でも(とくに我が家ではそうですが)、どうも定期的にガス抜き的に夫婦喧嘩がおきます(年に一度くらい)。そういう時は、私もそうとう悪おやじで奥さんを罵倒したりします(肉体的な暴力はありませんが)。でも、言うだけ言うと、あとは自然と、何だか元に戻ってしまっています。

 学校もそういうもので、ある時、いきなりとんでもない事件が起きたりする。みんなでなんとかやっていると、自然と回復して、また、いつかみたいな平和な学校に戻っている。こういう回復力があるうちはよいと思うし、関係者は、誰もみんなで、このような回復力というかセーフティネットというか、そういうものが自分たちの身の回りにうまく作れるといいなぁ、と思うのです。

 これは、病院のことなども同じような気がします。どんなヘボな医師でも、結果的にその医師にお世話になると決めたかぎり、まぁ、死んでもいいや、くらいの覚悟は必要と思って手術を受けなくてはならないと、個人的には思ってます。(一説では、どんな名医でも3~4割は誤診するとのことです)

 自殺のことがだいぶ騒がれていますが、実際は、昔から自殺は結構あると思います。あまり報道されてこなかっただけで、自分のことを考えても、小学校のときに、「死んでやる」と思ったことは何回もありました。一晩ねたら忘れてましたが。いじめもありました。今考えれれば私はそうとうないじめっ子でした。悪ふざけもいっぱいしました。

 でも、私もけっこう傷つきやすく、友達の言葉が何日もこころから離れないことも何度もありました。でも、その子をナイフで刺したりはしませんでした。

 だから、心理的には、たぶんそれほど、昔も今も変わらないのだと思うのだけど、社会全体の一体感というものがなくなってきたのか、責任の縦割り性というか、うまくコラボレーションをする力がなくなってきているんだろうなぁ、と思います。

 漫才で言ったら、ボケと突っ込みと、両方いて、うまくバランスをとっているような、両方いないと絵にならないようなそういう微妙なバランスってあると思うのです。

 学校と親と地域、と言われます。これは本当に個別性が大きいので一概には言えないのですが、私の場合は、幸運にもこのトリニティがうまくいった空間で子供を育てることができたかな、と思っています。

 いや、問題はたくさんあるのです。農村部分とサラリーマン戸建てと、マンション引越し族の渾然とした地帯です。学校も新設校で伝統がない。設備もたりない。

 だけど、どういうわけか、その弱点が逆に長所になって、みんなでわいわい楽しめてしまった、というケースだと思うのです。

 とにかく、ひょこりひょうたん島でもちろりん村でも、ドラマがなければつまらないから、多少の事件は起きたほうがいいと思います。

 四こま漫画ふうに言えば、起、承、まではくるんだけど、たまに転のところで、ホントに転んじゃって、どうにも、結にいたらないでしまう、というケースがあるようです。あるいはとんでもない結末ですね。

 転、というか、ひねりが、アイディアが、ひらめきが、思いも着かなかった新しい着想が必要だと思います。

 これは、マニュアルでも手引きでも指針でもドクマでも教義でも方針でもなくて、なんか、人間力とでもいうような余裕と緊迫のバランスからでてくる悟りみたいなものがあるはずだとおもうのですが。

 まぁ、ほぼ10年ほどの短い時間でしたが学校をみていて思うのは、同じ学校でも校長が変わると、校風がガラッと変わることです。人事権者もよくしたもので、「良い」校長と「悪い」校長を交互に派遣してくるのかなぁ、と思うほど、よくもまぁ、時計の振り子のように、右に左に触れます。でも、これでいいのだろうなぁ、と思います。

 できの「悪い」校長のときには、教頭がけっこう活躍したりしますが、「良い」校長のときには、ほんとに集まってくる教師も父母も生徒も「良い」のが集まってきます。校風も明るくなります。でも、これって定期的なサイクルだから、いつかは暗くなるんです。

 暗くなることも分かった上で、楽しいときには多いに楽しい学校ライフを送れればいいと思います。駄目なときは駄目ですから、なんとか春がくるのを待つ力も必要ですね。

 でも、生徒も校長も自殺はだめだなぁ。自分で死んでは駄目だ。ここは譲れない。ぼろぼろでもいいから、生きていくことを考えなくてはいけない。

 かっこわるくても、プライドがぶっちぎれても、満身創痍でも、生きていかなくてはならない。

 学校では、学力なんか、二の次でいいから、まずはここから教えてもらいたいなぁと思う。

 上に書いた、タクシーをかっぱらって首になった体育教師は、現在、タクシーの運転手をやっているそうです。

 いいなぁ、この馬鹿元教師、いつかどこかで会ったら、みんなで、わいわいやろうと、思ってます。






Last updated  2009.03.29 13:11:59
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地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく



 

「ヴィゴツキー入門」
柴田義松 2006



 今朝起きて、テレビのスイッチを入れたら、いじめ問題のあった小学校の校長が自殺した、というニュースをやっていた。月曜の朝一番からこのような事件を直視しなくてはならない時代に、今、私は生きている。高校の必修単位取得問題でも、あちこちの校長が自殺している。生徒も児童もどうしたんだろう、というくらいに自殺している。

 もうすでにこのような世相というか社会現象にお手上げ状況になって久しいが、ある地点から私は、ええい、もう私にゃ関係ないや、とほおり投げてしまったところがある。私にとって一番ショックだったのは、2000年に発覚した三条市児童誘拐9年間監禁事件だったと思う。あれまではなんとか、この世がどうにかよい方向にいくことを考えようとしていたと思う。

 時代も丁度、世紀末騒動から21世紀という「夢」に向かい始めるような時代だった。しかし、あの事件以来、はっきり言って私はとてつもない無力感を感じるようになった。もう、テレビや新聞で報道されているような事件は、どこか私のしらない惑星でおきているに違いない、と、そう突っ放して考えるようになってしまった。

 ヴィゴツキーは1986年にロシアに生まれ、1934年に37歳でなくなってしまった天才心理学者といわれている。

 その短い生涯のなかで、彼は「繊細な心理学者、博識な芸術学者、有能な教育学者、たいへんな文学通、華麗な文筆家、鋭い観察力をもった生涯学者、工夫に富む実験家、考え深い理論家、そして何よりも思想家」として並外れた才能を発揮したと、ヴィゴツキーの伝記作者レヴィチンは書いていますが、ヴィゴツキーの多才ぶりは、これだけではまだ語りつくせないほどです。p4

 ここまで言われると、言われるほうも聞いているほうも、ポッと赤くなってしまうのではないだろうか。

 ヴィゴツキーの著書・論文は、どれを読んでも刺激的で、教えられることが多いのですが、「教育心理学講義」(1926年)ほど私にとって興味深く読めた本はほかにありませんでした。p186

 というのだから、まさに、こういう人にこそ本は読まれ、このような人にこそ翻訳されるべきなのだろうと思う。それ以上、言うことはないのではないだろうか。彼は1920年代に発表されながら30年代以降、反マルクス主義のレッテルを貼られ、その著書・論文はすべて封印されてしまった。そのヴィゴツキーが復活したのは60年代以降であったとのことであり、欧米における研究はソ連崩壊後の90年代以降になってからますます活発化している。

 ソ連研究やマルクス主義研究への熱が、そのころから急速に冷めていったわが国とは対照的であって、ヴィゴツキーを含めてマルクス主義の哲学・心理学の研究がアメリカをはじめとして西欧諸国で活発化するという逆転現象が起こっているのです。p39

 さらにわが国でも最近、新世紀になってから彼に対する研究がますます盛んになっているとのことだが、この入門書一冊を読んだだけでは、にわかには、この天才心理学者の真髄というものを理解するには至らない。私には、教育や心理学などの現場では、一つの理論がどうしたこうしただけでは、もうどうにもならなくなっているように思えるのだが。 







Last updated  2009.03.29 13:12:24
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2006.11.12

地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく



 

「人生のちょっとした難問」 
小浜逸郎 2005



 著者には、「学校の現象学のために」「方法としての子供」「オウムと全共闘」「癒しとしての死の哲学」「なぜ人を殺してはいけないのか」「なぜ私はここに『いる』のか」などの著書がある。あえていうなら高踏的でより抽象性の高い哲学的なアプローチが続いたものと思われる。そのことへの反省としてこの書は書かれたのだろう。

 最近、少々下手の横好きが高じて、哲学っぽい本を何冊か手がけることになった。哲学はとりわけ抽象度の高い言語領域であるため、その密室の中で過ごしていると、ともすれば具体的な経験の相への視点を見失いがちだ。そんな折り、筆者の最近の傾向を見破るように、「中二階からのまなざしを忘れてはいないか」というある批評家からの好意的な叱咤に出会い、洋泉社編集部からも、現代状況をどう読みとるかという問いに応えるべきだとの要請があった。いったん原理論レベルから状況論レベルにもどってみようと決断したしだいである。p220

 その反省には妥当性があったとは思われるが、本書が、状況論レベルにもどるという目的に達することに成功したかどうかは、私には疑問に思える。たしかに、高踏な哲学論議には、ちょっと飽き飽きして、いい加減にしておくれ、ということも再々ある。まさに密室の作業の連続だ。だが、本著がそこから脱出し得たとは私には思えない。

 質問内容は、実際のものではありません。洋泉社編集部が筆者に対して、現代の生活者の突き当たっている問題に応えてほしいという意図にもとづいてその大枠を用意しました。それを筆者なりにアレンジを多少加えるかたちで設定されています。p6

 私の拙いカウンセラー歴の中には、もちろん一度のカウンセリングでその目的を達する場合もあったし、逆に10数年を要してもなお解決せずに残ってしまったという問題もある。人生上の問題というのは、ひとつひとつの人生があるからこそ、問題として浮かび上がってくるのであって、表面的な事象だけをとらえて解決を考えることなどできるものではない。

 ましてや、表面的な問題を解決することが、本来の人生の目的でなく、表面的なものからより深度の深い世界へとゆっくり歩み始めていくことが人生の目的であってみれば、自分で質問をこしらえて、自分で応えて、これが、原理論レベルではなく、状況論レベルだ、と主張されても、それはウソでしょう、といいたくなる。それは原理論レベルを、単に状況論レベルに置き換えただけであって、やっていることは原理論レベルの密室の戯事である。

 著者が意図したことについては、私は賛成できるが、この書は成功したとは言えない。ひとつひとつの現場においては、紋切り型の「正解」などありはしない。丁寧に、ひとつひとつに対応していくしかない。そして、もっとも大事なことは、問いに対する回答は、質問者自身がすでに持っているはずだ、という他者に対する愛だ。

 偽装「身の上相談」とカウンセリングを比較して、偽装「身の上相談」のほうが面白く興味深いなんてことはあってはならない。原理的レベルから状況論レベルへ視点を変えるという試みは正しいが、著者には更に一段下がって、平行なまなざしでのリアリティを望みたい。著者の本にふれたのはこれが最初であるので、機会があれば他書にも目を通そうと思う。 







Last updated  2009.03.29 13:12:52
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2006.11.08

地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく



 

「編集長を出せ!」 「噂の眞相」クレーム対応の舞台裏 
岡留安則 2006/03 
ソフトバンククリエイティブ  新書  255p 
★★☆☆☆


 
「『噂の眞相』25年戦記」の続編に位置する内幕暴露本。前著より1年経過しているが、前著で、バックパッキングの旅にでたい、と書いていたが、どうやらそれはまだ達成していないようだ。

 この本、図書館の棚にあるのは発見していたが、前著を読んでさらに続けて読もうという気分にはならないでいた。気にはなるが、そのうち誰か借りてくれれば、私の視野から消えるだろうと思っていたが、どうも誰も借りてくれない。しかたがないので、一回とにかく借りることにした。

 やはり前著のイメージそのままで、「クレーム対応」というところに特化しただけ、なお、岡留ジャーナリズムの「眞相」が浮き彫りになっている。

 トラブルを解決するのに何よりも大事なことは対話である。そのためには、対人関係や人間そのものを知り尽くすことがいかに大切であるかを、この本からぜひ読み取って欲しい。p12

 ということだが、その「トラブル」自体は、「噂の眞相」の記事や取材にまつわることから始まる。この取材や記事の方向性に、どれだけの大義があるのか、私にはにわかには判断できない。というより、私には理解できない。理解できないというより、受け入れがたく、批判的でもある。

 何を持ってどう評価するかは省くけれど、いわゆる週刊誌やスポーツ新聞と言われる分野に通じる編集方針があるのだろうし、それらのマーケットが繁栄を誇っている限り、特に外野が言うべきことでもないが、私には理解しがたいことが多い。
 
 もっとも私の場合は、一般的な漫画も読まないし、2chもすきでないので、私のほうが、現代の常識から外れているのかもしれないので、あまりこの人や彼の業績については、大口をたたかないでおこうと思う。

 スキャンダル記事を掲載したり批判するのは、決してその人物を憎んだり、嫌いだったりするわけではない。その行状や言動、スタンスに疑問を呈して問題提起するだけであって、そもそも私憤なんてものとは無縁なのがジャーナリズムとしての基本だからだp35

 ということだが、この「ジャーナリズムの基本」には、私は疑問を持つ。

 大切なことは”ヒット&アウェイ戦略の精神である。 p35

 これじゃぁ、やりっぱなしのずらかりっぱなし、ってことになるんじゃないかな。

 筆者(注・岡留)は学生時代にはマルクス主義に傾倒していた時期があり、史的唯物論に基づく思考方法が身についている。社会変革の思想としてのマルクス主義は歴史的遺物と化したものの、唯物論自体は物事の真理を探究する方法論としては、今でも基本的に正しいと考えている。p208

 といいつつ、この人はこの人なりのリアリズムの人生を生きてきてしまった。

 オウム真理教事件以降、下火になったかに見えたこの手のオカルト番組や記事も、喉元過ぎれば何とやらで、再び息を吹き返すというパターンの繰り返しだったからだ。p215

 「彼のスタンス、彼の言行に疑問を呈して、問題提起するだけ」で、あとは「ヒット&アウェイ」なんて、お綺麗なことは私には言えないな。私は彼に対しては「私憤」すら感じる。しかし、それをどのような形で表現するか(あるいはしないかは)、私の側の問題だが。彼のジャーナリズム論と私のそれとには、大きなギャップを感じる。







Last updated  2009.03.29 13:13:26
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2006.11.07

地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく



 

「こころをさなき世界のために」 親鸞から学ぶ<地球幼年期>のメソッド 森 達也 2005



 仏教つながりでこの本を読み始めたつもりだったが、実は、この本はオウム問題つながりにいれるべき本だったかもしれない。しかも、この本は、著者のなんからかの表現物をすでに知っていて、その後に読むべき本だったのだろう。でも、いきなり「出会い頭」で新書本を読んでいこうというこのブログのテーマからは大きく外れてはおらず、逆にこの本は、個や私にこだわる面から見ると、このブログ向きとも言えるかも知れない。

 まず、著者に対する近親感。彼は1953年うまれで、大卒後、就職活動などをおこなわず、芝居活動などを始めている。30前後になって子供が出生したことをきっかけに、生活のため、小さなプロダクションでドキュメンタリー映像の世界に入っていく。テレビ番組の制作などにかかわる途上でオウム真理教事件にであい、オウムサイドからみたドキュメンタリー映像「A」や「A2」を製作、オウムPR作家と言われる。さらにその後、その活動を通じて親鸞を知り、そのフレームの中で、オウムに触発された何かをとらえ直そうとしている。

 ジャーナリズムや、ノンフィクション、ルポルタージュ、などのジャンルとともに、そういえばドキュメンタリーという手法があったな、と改めて再認識。しかし、本著でも書かれているとおり、製作テーマがあり、カメラ位置があり、フィルム編集という作業があるかぎり、意図のないドキュメンタリーはない、という著者の意見は当然だと思う。

 この本にまず共感するところは、徹底的に一人称「僕」で通すところ。これはある意味、ブログ的であり、また、このブログでも再三私自身が反芻して考えてきたところ。この点については、オウム事件に触発されて注目をあびた宗教社会学というジャンルで書かれた
井上順孝の著書などとは、対極に位置する。読み始めて、その徹底した極<私>的世界観に共感するとともに啓発されるところもあったが、一冊読み終わってみれば、それもちょっと辟易するところもあった。「主体なき骨無し研究」とまで井上の著書を酷評してしまったが、こちらの森達也の本も、はてさて「主体ばかりの骨だらけ独白」とでも名づけたくなるこだわりようだ。

 この人、1953年生まれだから、私とまったく同じ学年のはずなので、時代感覚が相当似ている。同級生という感覚だ。クラスにこいつがいたら、大親友になるか、一番嫌な奴になるか、どちらかだ。すくなくとも無視はできない、意識せざるを得ない奴ということになる。だが彼にして、小さな間違いはいろいろありそうだなぁ、という感じ。

 例えば麻原彰晃の生年を1951年のように書いているが、実は1955年というのが正しいだろう。あるいはビンラディンの生年も1953年のごときに書いてあるが(p189)、諸説あるものの1957年説がただしそう。別に大きくこだわるところではないが、世代的に共感を示しているくだりなので、ちょっと見逃すことはできない。

 つまりこの方の表現は、かなり<私>的ではあり、ユニークであるが、つっこみどころは山ほどあるということになる。親鸞についての知識も付けけ刃的だなぁ、と思う。私自身、親鸞のこまかいことは知らないので、コメントしないが、この辺も<私>的表現だから、それを分かった上で彼の表現物に触っていく必要があるのだな、と感じる。

 いずれにせよ、一人称にこだわるところ、オウムをあらたなフレームでとらえ直そうとするところ、現代を「こころをさなき」「地球幼年期」とみるところなど、共感すべきところは多くある。代表作ともいうべき「A」「A2」も含めて、機会があれば、彼の一連の作品や著書に目を通したいものだと思った。しかし、私は麻原一派に対しては、彼ほど甘い評価は与えない。 







Last updated  2009.03.29 13:13:54
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2006.11.04

地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく



 

「誰のための会社にするか」 ロナルド・ドーア 2006



 下の子が幼稚園の七夕のとき、七夕飾りの短冊に願い事として「サラリーマンになりたい」と書いた。可笑しいやつだなぁ、と父親の私は笑った。ちょっとひょうきんな子供だったから、ジョークを込めてそう書いたのかも知れない。あるいは、ウルトラマンやスパイダーマンのようにマンがつくから、なにかかっこいいものだと思ったのだろうか。あるいは、不安定な自営業をしている父親をみて、自分はしっかりしたサラリーマンになりたい、と決意したのだったろうか。

 たぶんどれも本当だろうし、どれも確たる思いがあったわけではないだろう。子供は子供として、単に七夕を楽しんだに過ぎないだろう。時はあっという間に流れ、その子が、まもなく就職活動にはいる。まさに今や、ようやくサラリーマンになろうとしているのだ。希望している職種につけるだろうか、親としても期待しつつまた不安な気持ちでもある。

 ニートやフリーターなどという言葉が若い世代の職業状況の中で嵐のように吹き荒れている。この子供の前にはどんな人生のドラマが待っているのだろうか、と、それなりに楽しみにしているところだ。会社という響きは、正直言って私は好きではない。会社員にならないような人生をなんとか歩みたいと思ってきた人間だ。社則に縛られてたくなかったし、社蓄と言われるものにもなりたくなかった。

 現在のところ、形としては、私も会社の代表ではあるが、便宜上、個人零細企業が法人化しただけであって、本著に言われる会社とは、まったく規模も意味も違う。いや、日本における法人会社は、私のような中小企業が数の上では圧倒的に多いはずだ。この本で言われているのは、株式市場に上場されているような一部の大企業のことを言っているのだ。

 今日はもみじ狩りに最高の日和だった。妻とふたりでドライブがてら山を越え、友達の絵の個展に遊んできた。帰り道、ふと見ると、いくつかのコンビニエンスストアが廃業していた。8年とか10年とか、長期に営業を続けてきたコンビニではない。ほんの1~2年前に開業したようなコンビニでさえ、最近はあちらこちらで廃業するようになった。

 シャッター商店街と言われて久しい。郊外型スーパーやコンビにの台頭で地元商店街はすでに一命を落としている。後継者もなく再起不能な状態だ。しかしその刺客であったはずのコンビニやスーパーも、なんの前触れもなく、いきなりやめていく。残された地元の消費者は、あっというまに自らの消費活動に困難をきたすようになる。資本の論理は極めて冷淡だ。儲かるなら出店する。儲からないなら撤退する。地元の住民や消費者や商店街のことなどはお構いなしだ。

 グローバル・スタンダードと言われる経営スタイルの中身は、いわゆるこのコンビニやスーパーのやや巨大なスケールの動きのように見える。アングロサクソン・スタイルだ。儲かるところには投資し、利益が上がらなくなれば撤退する。露骨と言えば露骨、冷淡と言えば冷淡。とにかくそれが資本の論理だ。

 誰のための会社にするか、という問いは、いろいろな意味に捉えることができるが、まずはサービスを受ける側のものであってほしい。経営者だとか、従業員だとか、株主のものだとか、いろいろな意見はある。しかし、私など庶民は、まずは大株主などにはなることはない。ほんの気まぐれにネット・トレードすることはあっても、そんなゴミ投資家のことなど気にかける大会社などない。だからまずは、会社は消費者のものであってほしいし、その次は働く人たちのものであってほしい。

 この本の著者は大正生まれの80歳を超えた方だ。しかも英国生まれのカタカナの名前の人ときている。この人のことはなにも知らないが、このような人に何か日本の会社のことを聞かなくてはならない、ということ自体、私にはよくわからない世界ではある。会社が誰のものでもあってもいいが、そこに参加する私たちひとりひとりが参加しやすくわかり易く公平なものであってほしい、と願うのみだ。







Last updated  2009.03.29 13:14:48
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