地球人スピリット・ジャーナル1.0

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2009年4月1日

地球人スピリット
・ジャーナル2.0


へ引越しました。

全108件 (108件中 41-50件目)

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ブログ・ジャーナリズム

2006.11.04
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地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく



 

「格差社会の結末」 富裕層の傲慢・貧困層の怠慢 
中野雅至 2006



 今現在の20・30歳代の若者が壮年に達した時、逆転できないレベルまで格差が拡大し、若者が希望さえも失う「希望格差社会」の到来が懸念されている。そうなると、「東大生の子供は東大生」「医者の子供は医者」「フリーターの子供はフリーター」というように、格差が世代を超えて受け継がれていく「格差の固定化」にまで至り、機会の均等が実質的に消滅することになるからである。p120

 もちろんそんな世の中になってもらっては困るし、そんな世の中にはならないだろうと思う。周囲を見渡すといろいろなケースがある。高校中退の子供が東大生になった。地方私大の子供二人が医者になった。医者の子供がフリーターをやっている。などなどキリがない。基本的に学歴社会には反対だし、職業に貴賎の差別があってはならないと思う。

 特にニートやフリーターと一般にいわれる人々を一束一からげにして総称することは、私は好きではない。あらゆる可能性があっていいし、ある程度の自由さが許される社会でなくてはならない。絵を書く人も必要だし、旅行するひとも必要だ。部屋で落ち着いて沈思黙考する人があってもいい。芝居に夢をもとめて一生シナリオを書き続けるのも一つの人生ではないか。

 立場を利用してかき集めたデータをあちこち組み合わせて、社会を論じているかのような評論家風情は私はすきではない。自分はどう生きるのかさえ、すこしづつでもしっかりとしていれば、世の中なんてのはどうにでもなる。日本の社会が5000年前のマヌ法典に縛られてカースト制度になってしまうわけでもない。格差社会なんて言葉で悲観してもならないし、それこそ傲慢になってしまってもならない。


祇園精舎の鐘の声

諸行無常の響きあり

沙羅双樹の花の色

盛者必衰の理をあらわす

おごれる人も久しからず

ただ春の世の夢のごとし

たけき者も遂には滅びぬ

偏に風の前の塵に同じ

合掌







Last updated  2009.03.29 13:15:34
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「北朝鮮に潜入せよ」
青木 理 2006



 このタイトルからすると、日本のジャーナリズムが、北朝鮮の拉致問題を取材するために、秘密報道チームを送り込む話なのか、と思ってみたが、すぐに自分のおっちょこちょいさに気づき、恥ずかしくなった。テレビのバラエティ番組の見すぎなのか、私にはその程度の発想しかできなくなりつつあるのかもしれない。事態はもっともっと複雑で根深い。

 朝鮮戦争により北緯38度線を境に定められた停戦ラインによって分断された朝鮮半島は、同じ民族による陰惨なスパイ合戦やゲリラ潜入が、その後も永遠と続いていたのである。北朝鮮から韓国や日本への潜入はそれなりに推測ができたし、報道もされてきた。しかしながら、韓国から北朝鮮側へのそれは、ほとんど報道されることもなく、関心を集めることもなかった。

 しかしながら、近年の「シルミド」という韓国映画や、金大中→
盧武鉉政権の「太陽政策」のもとで、しだいに明らかになってきたのが、北派工作員という韓国側から軍事境界線を越えて北朝鮮側へのゲリラの存在である。

 この本の中で告発されているのは、韓国の北朝鮮への侵犯という問題ではない。韓国がみずから仕立てた「北派工作員」という韓国国民(一部北朝鮮からの移動者)の存在を50年以上の間、認めなかったばかりか、ほとんど見殺しにし、わずかに生き残った帰還者たちに十分な補償をしなかったことである。その後も継続的に徹底的に監視をし、困窮においやってきたという。

 北側への派遣兵の意味であろう北派工作員という名前は、正式な名前ではないだろう。なぜなら、韓国政府はその存在を認めなかったばかりか、歴史の中に抹殺しようとしてきたからである。しかし、事実は異なる。5000名を越すという歴代の北派工作員たちの生き残りはごくわずかであるが、いまだにその工作員達は養成されつづけているのではないか、と言われている。

 徴兵年齢の貧しい青年達に街角で声をかけ、法外な報酬、兵役の免除、年金支給、除隊後の昇進、など、ほとんどありもしないことを餌に集め、北朝鮮に潜入させてほぼ全滅させてきた。わずかに生き残った帰還兵たちは、その任務を離れたあとも社会復帰することが難しく、自殺で果てた者達も多かったという。さらに生き延びようとしたものたちは、国家の重要機密を知るものとして、なんらの補償のないまま、長く監視下に置かれてきたという。

 この本を読み続けることは、通常の私の神経ではできない。朝鮮半島のことをすこしは考えなくては、と重い腰を上げたいまだからこそ、このようなレポートも、微妙なバランスで読むことができる程度だ。しかし、これは事実であろうし、このような事実をレポートするジャーナリズムの力を私は善しとする。

 このような事実は、掘り起こせば幾万とあるにちがいない。闇から闇へと葬られてきた事実が多く存在しているだろうことを考える時、誰がどうしたというひとつひとつの事実はともかくとして、人類というものの歩んできた歴史の中の深い陰影を感じざるを得ない。それはひとり、隣国の住民とはいえ、私にとってもまったく無関係なこととは言えない。

 青空に包まれた国立墓地で、(中略)墓前の芝生に座って取材に応じてくれた(中略)のこんな言葉印象的だった。
「自分がいる組織の中では完全に正しいことでも、人間としてみれば正しいとは限らないことがたくさんある。国と国でも、南と北でも一緒だ。(中略)も国の命令でやったこと。悲しみは一生消えないが、不幸を繰り返さぬためにも容赦し、対話していくしかない」
p162

 韓国で多くの元北派工作員にインタビューするうち、彼らからしばしばこんな台詞を耳にした。
「北では南派工作員は『英雄』として扱われ、最上級の待遇を受けている。それに比べ、国のために命をかけた北派工作員に対する韓国政府の対応は酷過ぎる」
p188

 ああ、このような言辞がつづくと、とても悲しくなる。またまた以前に書いた
加川良の「教訓1」を思い出してしまう。小泉前首相や右派政治家達が、お国のために戦った英霊たちに報いるためと称し「靖国参拝」をつづけている。なにをもって善とし、なにをもって否とするか、にわかには判断がつかなくなってくる。著者は、あとがきになって、こう述べる。

 そんな韓国が今、北朝鮮との対話路線に舵を切っている。もちろん韓国内に一部異論もあるし、過剰な民族主義には辟易するが、果て無き憎悪と対立の連鎖反応を断ち切って、対話による軟着陸を模索しようとする姿勢には頭が下がる。いや正確に言えば、カタストロフを避けるにはそれしか道はないのだ。p238

 私も北風政策よりは太陽政策に賛成だ。圧力よりは対話が重要だと思う。しかし、いまや核弾頭をかかえた孤独で頑なな旅人の心の中に、太陽の暖かさは染みていくことができるのだろうか。先に読んだ
「私は韓国を変える」p222にこうあった。

 「最近では北もIT産業に積極的に取り組み始めている。北でもインターネットの導入は時間の問題と言われる。北が情報化社会の流れに遅れないようにするためには、改革・開放は必要不可欠である。産業化時代を超えて情報化社会迎えた今日、新しい南北関係を切り開かなければならない。こうした認識に立つ時、情報化時代の東北アジアと南北関係の進展によって広がる空間も飛躍的に拡大する。そして、この空間は未来の主役である若者世代が率いていくだろう。」 盧武鉉 2002・10

 対話とは、なにも国家代表による6カ国協議に限らない。ネットを通じて、私(たち)も北朝鮮の「マルチチュード」たちとつながることができるなら、それこそ地球人スピリット探索への道の王道であることに違いない。そのような時代が、近いうちにやってくることを望みたい。







Last updated  2009.02.01 16:21:00
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2006.11.03

地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく



 

「拉致」 国家犯罪の構図 
金賛汀 2005



 北朝鮮における日本人拉致問題については、私なりにどこか人並み以上に関心をそそられるところがある。それは、拉致され、長く北朝鮮に留まった後、日本に帰国した人たちの年代が私と非常に近寄っており、なお、子供達の年代も近く、なんとも現実感が重なりすぎて、ぎょっとすることが多いからである。

 さらに、彼らが拉致されたとされるのが78年前後と聞いて、またまたぎょっとしてしまうのだ。実に私はその時期、確かに海岸で遊びもしたし、一年ほど外国で暮らしてもいたからだ。現在の海外旅行ブームとは違い、当時ではまだまだ海外旅行もそう多い時代ではなかった。

 あのような時代背景の中で、私が仮に拉致され北朝鮮で暮らすことになったら、はてどうしただろうか。心の中は複雑だ。私は年代や家族構成的には、蓮池薫さんにやや似ている。彼の言動に深く注目してきたわけではないが、漏れ伝わってくる彼の複雑な心境は、推し量ってあまりある。

 朝鮮総連の「地上の楽園に帰還して、豊かで自由な生活を送ろう」という虚偽の宣伝に騙され、北朝鮮への帰還が開始された当初、在日社会は民団系の人々も含めて北朝鮮を支持する人々が圧倒的に多くなっていった。p043

 郷に入っては郷に従え。朝鮮民主主義人民共和国、という国家には国家なりの理想と存在意義があったはずなのである。それがどれほどの妥当性があり、どれほど多くの人々の共感を得ることができたものかどうかは私にはわからないが、すくなくとも、盗人にも三分の理、とはあまりに非礼な言葉になるやもしれないが、そこにはそこの理(つまりダルマ)があったはずである。

 しかしながら、2006年の現在、私(たち)が見聞きする北朝鮮は、すでに近代国家という形を成しているのだろうか、と疑問視せざるを得ない。社会主義国家を目指しているのであろうと独裁政治が長期に渡って横暴を振るい、国民が飢えているのに、核兵器を開発するという無謀な手段を平気でおこない続けるような国になってしまっている現実は、無視できない。

 拉致という理解に苦しむ行為が、社会主義革命による朝鮮半島の南北統一という目的のために行われてきたとしても、すでにそのような行為は、「地上の楽園に帰還して、豊かで自由な生活を送ろう」という理想からは、遠く隔たってしまっている。

 私は拉致について書いてある本を読むことはほとんどなかったが、この本もまた、私の中ではなかなか評価のさだまらない本だ。日本生まれの在日の方であり、関連のジャーナリズムで働いたことのある著者でなければ、書けない内容でありながら、私はこの本をどこまで信頼し、どこまで疑問視すればよいか、いまのところはわからない。特に拉致事件は1977年から始まっており、それ以前はありえないとするあたり、ちょっと、現在の私には理解に苦しむ。

 ジャーナリズムに限らないが、ものごと全般の判断に関する限り、私は常に複数の情報源を利用することにしている。多いければ多いほどよい、ということでもないし、またまったく唯一の情報源だから信用できない、ということでもない。しかし、こと、この北朝鮮や拉致問題については、あまりに信頼できる情報や人物が少なすぎる。なにが本当でなにがウソなのかわからない。

 私は、「地上の楽園に帰還して、豊かで自由な生活を送ろう」というスローガンには賛成である。いや、私は残りの人生を、地上の楽園の建設に賭けることができたら、どんなにいいだろうか、とさえ思う。しかるに、この拉致問題や朝鮮半島の問題を考える時、どうしようもない憤りと悲しさを覚える。ここまで問題が進んでしまったことには、日本も韓国も中国もアメリカもロシアも関係がある。

 果てしない未曾有な難問題だが、きっと解決方法はあるはずだと思う。暴力的な方策で早期解決を狙うことでもなく、時間が解決するだろうという無策でもなく、人間としてのひとりひとりの意識を変えることによって、かならず乗り越えることができる、なんらかの方策があるはずだと思う。今のところは、具体的にはわからないが、私は個人的には、その至上の解決策のことを仮にではあるが、地球人スピリットと名づけておく。







Last updated  2009.03.29 13:16:10
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地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく



 

「私は韓国を変える」 盧武鉉 著 青柳純一・青柳優子 訳 2003 原書2002



 私は自国の首相達の名前を順番どおり間違いなくいえるだろうか。年代や主な業績など、おおよそでもいいから十分に自信をもって言えるだろうか? テレビや新聞などで報道された表面的なことについてはそれなりに空んじることはできるだろう。しかし、ひとりひとりについてのプロフィールや突っ込んだこまかいデティールまで言うことは、とてもできないだろうと思う。

 自国についてさえその通りなのだから、いくら隣国であったとしても、韓国の歴代大統領の名前などでてこない。言われてみれば、ああそういう名前の政治家はいたね、という程度であり、そのひとりひとりについてどれほどの思い入れがあるだろうか。ただ盧武鉉(ノ・ムヒョン)は韓国の現大統領だ。知らないはずはない。そして、その柔和な面影と人権派弁護士出身という背景にそれなりの近しいものを感じるのは事実だ。

 しかしながら、このところの領土問題や靖国問題で、盧武鉉大統領が日本に向けてみせる顔は、かならずしも柔和なものではなく、人権的公平なものでもない。あえて言えば、敵愾心をむき出しにする顔が繰り返しマスコミで報道される。その顔は、かならずしも日本向けではなく、韓国内の反対勢力におもねた外交的スタンスの表現ともいわれるが、実際はどうなのか。

 この本は2002年の12月に行われた大統領選挙の前に書かれた本だ。もともとは「盧武鉉のリーダーシップ論」だったというが、日本語訳にあたって「私は韓国を変える」に変題されたようだ。韓国のリーダーが韓国の国民にわかり易く、自分のポリシーを述べているこの本には、他での日本向けにない、どこかやさしい、どこか入りやすい窓が開かれている感じがする。この本は
青柳純一・青柳優子夫妻の翻訳である。2002年12月の大統領選挙の夜、二人は勝利の祝杯をあげたという。p235

 この時私は、こみあげる感激とともに「韓国に来て本当によかった」とあらためて思いながら、韓国民主化運動の歴史的な勝利の瞬間を噛み締めていた。p235

 金大中から盧武鉉へ、この二人に代表される韓国民主化運動のリーダーの世代交代はこうした質的な変化を予告する。極めて望ましい形で、社会変革・改革のの松明はしっかりと若い世代へと受け継がれたのだ。(中略)南北平和共存政策を継承できるのは盧武鉉しかいなかったのだp236

 政治の一寸先は闇だ。すでに3年半以上前に書かれた政治上の文章など、かなりの旧聞に属してしまうので、そのことを勘案しながら検討しなくてはならないが、いまや、核保有国として名乗りを上げてしまった北朝鮮に対するする世界の目は違っている。まして、そこまで北朝鮮を許してしまった韓国の太陽政策も見直しを迫られているようだ。

 金大中→盧武鉉という太陽政策が本当に良かったのかどうか、これから朝鮮半島はどうなるのか。それをとりまく東アジアの軍事バランスはどうなるのか、混沌としてきたことは間違いないし、これまでの盧武鉉の大統領としての業績の評価は、これから定まっていくに違いない。

 政治の世界は、どこまで行っても政治の世界だ。本来私にとっては、なるべく一定距離を置いてみておきたい世界だ。本当の主題はどこか別にある。その思いは私にもあり、訳者たちにもある。

 さて、こうした話とともに、私自身にもこの「変える」を適用しなければならないだろう。実際、訳者としての私はこの書から多くのことを学び、遅ればせながら、「私は自分を変える」という自覚に達した。今回本書をつれあいと訳しながら、「私を変える」契機があって仕事は急にスムーズに進んだ。(中略)ともあれ、個人的にも社会的にも転換期の訪れを実感している。だからこそ、「私は自分を変える」を口先だけでなく行動で、それも生活の中でどう実践していくのかが課題だ。p239

 団塊の世代の生き残りにして、誠実な実践を通じて活動してきた彼らであるがゆえに「私を変える」という時に、当時流行の「自己否定」という言葉が裏にありそうで、ちょっとつらい。今の時代は自己肯定のうえで「私はもっと本当の私になる」という言葉のほうに人気がある。実は私もそちらのほうが好きだ。

 まったく脈絡のない追記ながら、私は、ネットのどこかに私自身の神秘体験(というかまぁびっくり体験)をいろいろ書いたことがある。その一つに、10代の時に、知り合いの二人姉妹の間におきていた自動書記現象を目撃したことがある。かなり意味深いものであったが、その時の二人姉妹の姉であり、メディウムとなって文字を実際に記したのは、この翻訳者たちの片割れのおひとりである。







Last updated  2009.03.29 13:16:40
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「韓国現代史」 これだけは知っておきたい 青柳純一 2004



 通常なら私はこの本を読まないだろう。韓流ブームといわれる昨今だが、特に「冬のソナタ」に感動したわけでもなく、近いうちに韓国旅行を企画しているわけでもない。むしろ、最近の北朝鮮の拉致や核保有問題と絡みながら、なかなか捉えにくい国、韓国というイメージが強すぎ、できれば近寄りたくない、と思っている、というのが本当だ。

 しかし反面、最近のワールドカップやオリンピックなどのスポーツ界での活躍や、あるいは、日本をはるかに凌駕するといわれるインターネット状況、あるいは自動車産業や家電産業の隆盛のニュースに触れるたび、おそるべし韓国、という「警戒心」さえ生まれている、というのが本当のところだろうか。

 犬を食べる韓国、というイメージは作られたものか、いまでもあるのか、互いの食文化の違いによるのか、とにかく、そのことに限らず、感情表現や文化の違いに、わずか海の隔てたお向かいの国、という以上に、私の中にも大きな隔たりがあるし、どこか拒否感がある、というのが、偽ざる気持ちだ。

 そんな私がこの本を読もうと思ったのは、この著者に関心があったからである。著者とは面識がある。面識があるというより、むしろ人生の一番の出発地点で接点があったと言ってもいいかもしれない。彼は、70年前後のある時期、名の知れた学生運動の活動家だった。

 彼は、当時定式化していた、ヘルメットに覆面、そして角棒というゲバルトスタイルではなく、「ベトナムに平和を!市民連合」(べ平連)などのリーダーとして、両手をつないで大通りいっぱいに行進するフランス・デモなどを指揮していたのだ。当時彼は20歳、私は16歳だった。

 ある時、機動隊のカマボコ車から「アオヤギくん、ただちにデモ隊を解散しなさい!」という恫喝が飛んだ。すると、彼は使っていたマイクで機動隊の指揮官に、「私たちはひとりひとりが自主的に参加しています。私にはデモ隊を解散する権利はありませ~~ん」と応酬していたことがあったことを思い出した。

 年齢の違いもあり、それほど親しい関係ではなかったが、友人の友人に位置しており、近しい存在の一人であったことは間違いない。彼が作った資料ももらったし、彼が主催していた勉強会にも参加した。議論をするとまさに激情型で、口角泡を飛ばすとは、まさにこの人のことか、と思えるところがあった。もう35年以上の前のことだが。

 それから、何年も同じ街に住んではいたが、それほど親しい関係とはならず、やがて彼ら(奥さんのほうは私たちの共同体に参加していた)は関西に移り住んでいった。そしてそこで彼らは韓国語をまなび、日本語教師として韓国に渡ったらしいとは聞いていた。

 今回この本を読んでわかったことだが、著者は71年にすでに韓国を初めて訪れていた。だが、韓国に住むようになったのは90年春のことだったというから、必ずしもそんなに以前のことではない。ある時、偶然カーラジオのスイッチを入れたら、彼の言葉が飛び込んできたことがあった。午後のNHK番組で、一週間(といっても5日ほどだが)連続でインタビューを受けるという企画に出演していたのだ。

 たぶん2000年前後だっただろうか。彼は韓国にいて、日本人でありながら「反日」的な言辞に終始した(と私には聞こえたが・・)。しかも、例の口角泡を飛ばす勢いの激情型の表現方法だった。私には、ちょっと耐えがたかった。あとから、この番組を企画した担当者の首が飛んだとか、飛ばなかったとかいう噂話があったが、確かではない。

 いずれにせよ、在日「日本人」である私は、
在日「韓国人」(朝鮮人?)である人々からの告発を受けることもあり、また、このようにして在韓「日本人」からの告発を受けることもある。戦後日本民主主義教育の欠陥か、あるいは私の個人的な怠慢か、私はアジアや世界に対する日本の戦争責任というものを十分理解していないところがあるらしい。もっと理解せよ、と激を飛ばされる。

 たしかに沖縄に行ったり、グアムに行ったりして、その戦争の傷跡を見るたびに、心はうずく。どうすればいいんだ。わからん、というのが正直なところだ。もちろん、私ひとりで解決できることなど、何一つあるわけがない。しかし、私は日本人でありつつ、日本に住みつつ、もし問題があるのであれば、それらの告発にも耳を傾けつづけるつもりだ。

 私は日本人であり続けることをやめるつもりはないし、自虐的に「反日」的言動に終始するつもりはない。そして、政治的な問題や軍事的な問題は、いずれは、別な角度からの解決策を見つけない限り、永遠とその怨嗟の応酬を続けることになるのではないか、と危惧するものでもある。

 地球人スピリットや<帝国>VSマルチチュードという角度から、周囲を見渡していくとき、ごく当たり前に、お隣の国が見えてくる。韓国や北朝鮮との外交問題は、すでに待ったなしの課題として、私(たち)の目の前にぶら下がっている。あえて火中の栗を拾うほどの蛮勇もないが、見ざる言わざる聞かざるを通し続けることができるほど、私は厚顔でもない。

 本著において、現代韓国史をわかったわけでもないが、すくなくとも、そのようなことを分かろうとする時、個人的にもつながりのある著者のような存在があるということは、私にとっては幸運だと思う。機会があれば、彼の一連の本に目を通そうと思っている。 







Last updated  2009.02.01 17:53:35
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地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく



 

「使える読書」 齋藤孝 2006



 もともとはこのブログ、ふらふらと立ち寄った書店や図書館でチラッと読みかけた本に触発されて、なにか自分のなかからでてきたものを書いておこうという程度のものだった。これからも、そのような根本は変わりようがないと思う。
 
 ところが読み進めていくとどうも、止めがたく次から次へと関連本を読みたくなってしまう。そうすると、うまいこと新書本連なりなら良いけれど、だんだんと分厚いハードカバー本になっていってしまったりする。あるいは、どうかするとトンデモない難解な哲学書や理論書になったりする。

 それもやむを得ないと、あきらめつつあるこの頃ではあるが、やはり、朝起きて、ちらっと朝刊を見開いて、大文字の見出しだけを拾い読みするような、あるいは、ポータルサイトの最新ニュースをななめ読みするような、そんな楽しみは残しておきたい。

 最近、時間があいた時に立ち寄る書店での新刊新書コーナーはなかなか面白い本が多い。書店によっては、新書本だけのベスト10を掲示していたりするので、ますます興味深い。これは読まなくては、と図書館を覗くのだが、なかなかうまいこと、こちらが希望する本が入っておらず、また人気本は私に回ってくるまで時間がかかってしまい、いずれは、こちらの熱気もさめてしまう、ということになる。

 そんな時に、立ち読みは、強烈な手段となる。このような時は、新書本は好ましいことに、立ち読みにはぴったりであるということが多い。特に、「受け」に入っている流行著作家たちの本は、中身はすかすかだけど、ちらちらと読んでみると、なかなか気の利いたことをいくつか見つけることができる。

 この齋藤孝という人も、最近はやりの国語論者(?)なのかな。よく出てくる名前と顔だが、キチンと読んだことはない。今回も、この本、立ち読みですましてしまったが、なかなか面白い気づきがあった。立ち読みだから、正確には思い出せないが、これから参考にしようと思ったことを列記すると。

1)本は出会い頭に読むべし

 これは本当だなぁ、と思う。どうしても傾向性のある本を続けて読んでいるうちに、次第とその分野については詳しくはなるが、全体からの自分や本の立ち位置というものが見えなくなることが多い。実際には、自分がこのブログを書き始めたのは、そのような反省があったからだ。あまりひとつごとを深追いせずに、書店や図書館やあちこちで、出会ったのが百年目と、いままで手を出さなかった本を読んでみると、なんとこんなに面白かったのか、と感動することも少なくない。これからも乱読はやめられない、ということになろう。

2)よくわからない本を批判するのではなく、好意的に書く

 これも、私には納得できる。私には、よく理解できない本も多いので、飛ばし読みしつつ、ちょっと誤解しながら、的外れな批判を書いてすましてしまっていることもある。反省はするけど、誤解は理解の始まり、何も書かないよりはいいだろう、というお気軽な気分で書いているが、まぁ、これ以上の恥を書きたくなければ、とりあえず、褒めておいて、あとでじっくり理解したら、反論なり批判なりをやるのもいいかな、と思う。

3)ブログは、制限がないのが長所でもあり欠点でもある

 これも痛感しているところだ。内容にせよ、文章の形態や長短にせよ、想定読者にせよ、書き込みの頻度にせよ、ブログは、まったく自由に変更可能なので、それがまたいいのだが、それがゆえに、どのように書いたらよいか悩むということにもなりやすい。書くことに目的があるのか、読んでもらうことに目的があるのか、あるいはレスしてもらったり、リンクしあうことが目的なのか、その辺をしっかり自分なりに把握する必要がある。

 ひとつひとつなるほどと思うことばかりだった。現在、3つほどの図書館から借りてきた本が常に枕元に10~20冊ほど待機しているという状況の現在、最近ではせっかく借りてきても読まないで返すことが1~2度あった。理由はいろいろあるのだが、自分がどうも好意的に読めないなとか、グットタイミングではないな、と思ったら、読まないことにした。

 というのも、どうやら読むにしても、時間的な制約や、自分の理解力の限界なども次第にわかってきたからだ。そして、ゆくべき方向性もだんだん見えてきている現段階で、読まないで済ましてしまえるものは、読まないでおこうと思ってきたし、読みたいものを読まないで済ましてしまうのも残念だなぁと思うからだ。特に、現在は、なるべく新書本にこだわりながらこのブログを続けていこうとは思っているのだが、そのこだわりが、今後、どのような結果を生み出すかは、実はまだわかっていない。もうこのスタイルをすこし続けてみようとは思っている。







Last updated  2009.03.29 13:17:16
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2006.10.27

地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく



 

「新書365冊」 宮崎哲弥 2006



 この新書2006年10月30日発行だから、まったくの新刊ほやほやということになる。本日の新聞に出版社の広告が掲載されていた。「一日一冊、新書生活始めませんか!」というコピーが生きている。奥さんが見つけてくれたこの本、早速、紀伊国屋に行って、現物を見てきた。う~~ん、この本は自分で購入しなくてはならないと、さっそく入手。まだちらちらとめくり始めたところ。

 今後、この本をナビゲータとして、私の新書本読みは、ますます進むことになりそうだ。この本の存在を知って、ああ、なるほど、私がこのブログを書こうとして、結局、新書本にたどりついたのも訳があったのだと、自分なりに納得。私の場合はそれなり、テーマ性を持っていて、なお、最終的には新書本にこだわり続けようと思っているわけではないので、新書本オンリーというわけではない。

 しかし、著者は、雑誌「諸君!」誌上で「解体『新書』」と「『今月の新書』完全読破」という連載記事を持ち、2002~2006年の間、新刊の新書本を完全読破したという。少ないときでも月に60冊、多いときには100冊にものぼったというから、凄い。さらにそれをジャンル別にわけて、書評を書き続けたのだから、ニワカ新書本読みになった私としては、一応敬意を表しておかなくてはならない。

 月に60冊~100冊、という勢いは、まぁ、私の経験から言っても出来ないわけではない。ましてや著者は、それを仕事として生業の中でやったのだろうし、それが自らの教養源となるのであれば、まさに著者にとっては願ったりかなったりの仕事だったのではないだろうか。

 さて、取り上げられている365冊のうち、私が読んだ本はわずか10%足らずだった。この数ヶ月それなりのスピードで新書本を読んでみたが、結局私の場合は、図書館に並んでおり、かつ貸し出し可能な新書本に限ってきたので、全てを網羅する、という訳にはいかない。まして、くだらない本や超むずかしい本、現在のところはとにかく関心のない本は、読まないので、まぁ、読破率がこの程度であることは止むを得ない。

 ただ、逆に考えると、ダブった数十冊に対する評価を読み比べてみると、これがまた著者である宮崎哲弥と私の傾向性の比較が面白いように現れている。その内容については後日、ひとつづつ提出していこうとおもう
「UFOとポストモダン」「秘密結社の世界史」などの評価が高いことについては納得。

 
「社会学入門」「日本共産党」などには点数は辛いが、注目していることに納得。「世界共和国へ」に対する評価も納得。ネグリ&ハートの<帝国>論にも触れている。現在の日本に流通している新書本を読んでいくのだから、同じような傾向がでてくるのは当然だが、またこの記事自体が「諸君!」という雑誌に連載されたという性質上、そのオススメ、ベスト新書がちょっとハズしていることも止むをえないかもしれない。

 これから、もうすこしじっくり読んでみるつもりだが、一連の
仲正昌樹を高く評価しているのは、納得がいかない。この元・統一原理活動家には、他にもたくさん著書があるようだが、私がこの人を読むかどうかは、いまのところ未定。読むとしても、批判的に読むことになるだろう。

 
「ケータイを持ったサル」などについては酷評してくれているので納得。それと香山リカについては評価が高い。私には、ちょっと「読めない」類だが、図書館には、彼女の本がたくさんあるので、時期がきたら、まとめて読破するつもり。ただ、私の興味からすこしはずれている。

 
「9.11ジェネレーション」もそれなりに評価されている。「ネオ共産主義論」などの好著の評価がないようだが、これは、今年の3月まででた新書本に限っているので、仕方ないのだろう。いずれにしても、この新書本が出ることによって、私のブログも、すこし俯瞰的な視点からの見直しが可能になりそうだ、ということで、私にとってはうれしい。

 考えてみれば、雑誌類や業務上必要な書籍を除いて、この半年で、買っても読みたいと思ったのは、春にでた
「ウェブ進化論」に次いで二冊目だった。そういえば、この「新書本365冊」には「ウェブ進化論」が評価されていない。多分、あまりに新しいこの半年一年のところは、多分、最新刊の「諸君!」に掲載されていて、まだこちらに再掲載されるまでに至っていないのであろう。

 まぁ、とにかく、私はこの本を歓迎する。







Last updated  2009.03.29 13:17:47
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2006.10.23

地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく



 このブログにおいて、結果的に新書本を読みながら、その感想を書いていくというスタイルにたどりついてしまったのには、それなりに訳がある。まず、ブログというメディアが目の前にあった時に、まずは、そこに表現することを要求されたと思う。そして、「何を」表現すると問われるまえに、「どう」表現する、ということを問われた感じがした。私には、ジャーナリズム的に表現する、という選択肢しかないと考えざるを得なかった。

 さて、新書本というものは、常に時事的であり、多様性を持ちながら、さらに、情報源や評価の対象としては、それなりに信頼のおけるものだと判断した。それを読み、感じ、評価を重ねていくことによって、何事かの道筋が生まれるのではないか、という期待は、今のところまだ裏切られてはいない。しかし、新書本にも限界というべきものが当然ある。それは今日的とは言って、その情報の新鮮さからいえば、新聞、テレビ、ラジオというものとは比較できないほど遅い。

 逆に考えれば、テレビやラジオはともかくとして、なぜ私は新聞をその対象にしないのだろうか。それは、新聞は、つまり共通の話題にしにくいということがある。全文的に引用して、さらにその感想を述べるのであれば、読み手と書き手の間の垣根はそうとうに低くなるのだが、ブログは、速度的に全文を引用することはできないし、また、共通の話題として新聞の占めるウェイトが低下している、ということも問題がある。

 今朝2006年10月23日の朝日新聞12版p10に、
興味深い記事が載っていた。「ネット時代 新聞の役割は」「シンポジウム ジャーナリズムの力ーー試練と可能性」「基調講演 質高ければ紙でもウェブでも」「3人の敵と戦う必要性」「国際報道は分析重視を」「取捨選択は読者の手に」「発掘できる記者育成」などなど、ほぼ前面を使ったコラム記事である。

 この記事においては興味深いことがいくつも提起されている。まさに、このブログでもダイレクトに話題にしたいポイントがいくつもある。ブログの質の問題。ネットと新聞の融合、書き手の教育など、そのほか、いくつもの点で、私もひとこと言いたい、という気分になった。
 
 今後、このような企画に対して、このブログでどのように対応できるのか、研究していく余地があると思った。新書本探索では、すこしまどろっこしくなるつつある今日だからこそ、なにか新しい私なりの手法をそろそろまた考えつかないといけない。






Last updated  2009.03.29 13:19:06
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2006.10.21

地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく



 

「メディアのからくり」 公平中立を謳う報道のウソを暴く 
保岡裕之 2002/07 
ベストセラーズ   新書   243p 
★★★★☆




 9.11からまだ一年も経過しないうちに出版された本である。事件直後の緊急性を帯びながら、なお90年代、あるいは80年代、70年代、あるいは戦後までさかのぼって、ジャーナリズムの本質を問う好著。9.11直後の米国ジャーナリズムをエスノセントリズム(自国中心主義)として強烈に批判する。そして、当時、急成長していたインターネット上の個人メディアの成長に期待を寄せる。

 2002年の状況と、まもなく2006年も終わろうとするこの時期の、ネット状況には、また新たな変化はでてきているが、基本的に、あちら側かこちら側か、と二者選択に大衆を押しやり、マスメディアを使って大量の偏向した情報だけを流し続ける体制には、極力、ノンと言わなければならない。その役割はひとりひとりの市民にあり、手段としてインターネットが大きな役割を果たすというのは、今でも変わらない。

 世界一の発行部数を誇る「読売新聞」のジャーナリズムに疑問を感じ、ジャーナリストとしての理想を共有する”同志”とともに退社、「黒田ジャーナル」を旗揚げし、月刊紙「窓友新聞」を発行したジャーナリストの故・黒田清氏は、マスメディア内部の「多事争論」(=民主度)の重要性について(後略)p49

 とある。思えば
「9.11ジェネレーション」の岡崎玲子は「第三回・黒田清日本ジャーナリスト会議新人賞」を受賞しているのだった。黒田清については詳しくはしらないが、その同志の一人が、よくテレビで見かける大谷昭宏などだったりしてみれば、一概にマスメディア、と弾劾するわけにはいかず、すこしづつ丁寧にマスメディアもウォッチングしていく必要性を感じる。

 近年のアメリカの単独主義は、アメリカ全体がアメリカ中心の内向きな豊かさにのみ専念するという”品位なき”(チョムスキー教授)単独主義で、全体的な傾向が見受けられる。p179

 ここには、こういう形でチョムスキーが登場するわけだが、ふと思ったのは、チョムスキーもまた、ひとりのエスノセントリストなのではないか、という仮説である。
トフラー養老孟司など、70歳前後以上の人の著書を読んでいると、感じることだが、よくも悪くもエスノセントリズムになっているのではないか、と思うことが多い。ただ、これは仮説である。今後、そのような視点で読み直す必要がある。

 いずれにせよ、本書はとても読みやすく分かりやすく、21世紀の常識とも言えるが、その常識を具体化し現実化することは簡単なことではない。インターネットを通じたブログやコミュニケーションが、グローバルな動きに大きく左右する、ということを大きく指摘している本書に、私はほとんど無批判的に賛同してしまう。 







Last updated  2009.03.29 13:19:35
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2006.10.20

地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく



 

「覇権か、生存か」 --アメリカの世界戦略と人類の未来 
ノーム・チョムスキー 2003 原書 HEGEMONY OR SURVIVAL America's Quest for Global Dominance 2002



 この本、通常の新書本の倍もある厚いものだ。本来ならば一冊のハードカバー本となりえるものだろう。著者にはこのほか「メディア・コントロール」「9.11アメリカに批判する資格はない」「グローバリズムは世界を破壊する」「テロの帝国 アメリカ」などの本がある。この本一冊で判断することはできないが、「アメリカの世界戦略と人類の未来」という邦題のサブタイトルの割には、この本からは「人類の未来」を探し出すことはできない。

 もっとも原題は「America's Quest for Global Dominance 」であって、「Future for Mankind」なんて書いてない。

 問題は、全てがなくなる前に悪夢から自分を目覚めさせられるかどうかであり、平和と正義と希望を世界にもたらすことができるかどうかだ。そして今、自分の意思で好機を掴もうとしさえすればそれができるところに、我々はいるのである。p337

 という文言がようやく出てきたのは、この大作の最後の最後の結句としてである。これ以上、この本にはない。この本は、悪夢は悪夢としてみつめよ、悪夢から目覚めよ。悪夢から目覚めなければ、我々に未来はない、と言っているだけである。

 この本を読むきっかけになったのは、ネグり&ハートの<帝国>とマルチチュードの対立概念を理解するときに、そのほかに併走している論調にはどのようなものがあるのだろうと、こちらの本まで手を伸ばしたということだった。しかし、この本には、「平和と正義と希望を世界にもたらす」ことの出来るようなものは書いていない。

 前後するが、アメリカの覇権主義をアメリカ帝国主義と呼ぶ潮流もあるだろうが、ネグり&ハートの<帝国>は、アバウトにそちらを指し示しているが、彼らはもっと大きな包括的な動きをさしている。であるが故に、このブログでは他の帝国論争と区別するためにネグリ&ハートの定義を<帝国>という表記を使って区別していく。マルチチュードについては、ネグり&ハートの論調がほぼ99%そのベースになっていくので、特に括弧を使わないで、そのまま単語として使って行く。

 さて、チョムスキーがいうところの「平和と正義と希望を世界にもたらす」べきものの探索にでているのが、このブログであり、私はとりあえずそれを「地球人スピリット」と仮名をつけておいた。公立図書館の書架に並んだ新書本の中にも、その糸口はいくつも見つけることができた。今後、それを少しづつ手繰りよせて行くつもりだ。

 その過程で、一つは、私の中にある、もっと深い直感みたいなものがあり、それはまだ文字化されず、イメージ化されないままで眠っているものもある。これの掘り起こしもすこしづつ進めていかなくてはならない。そして、今、このマルチチュードという概念に「平和と正義と希望を世界にもたらす」ものとしての夢を託そうとする私の所業に、どれだけの妥当性があるだろうか。

 著者1928年(昭和3年)生まれである。私達は親の世代の警世の書に胸を躍らせるのではなく、自分自身がその「平和と正義と希望を世界にもたらす」ものとしての自覚をもたなくてはならないのだろう。それには次代を担う来るべき世代としての青年層にも影響力の持ちうる先駆的なものとなる必要性もあるのだろう。







Last updated  2009.03.29 13:19:58
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