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2009年4月1日

地球人スピリット
・ジャーナル2.0


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全108件 (108件中 91-100件目)

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マルチチュード

2006.10.25
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カテゴリ:マルチチュード

「企業再生とM&Aのすべて」
藤原総一郎 2005



 思えば、M&Aという方法論以前には、空前の倒産という現実があった。20世紀末の日本にとって、失われた90年代の日々だったとすれば、あのバブルの酔いに踊っていた80年代後半の足元のふらついた好景気も、じつは仕組まれたものだったのではないだろうか。

 70年代のオイルショックに始まる不景気をさらに下回るバブル崩壊後の日本の不景気、そしてその倒産劇を救う形で、M&Aという手法がもてはやされることになったのだった。しかし、自立がおぼつかなくなった企業の多くは、外国資本に買収されていったということも事実だ。

 この15年ほどで、じつに多くの企業が姿を消して行った。名前を変えて存続している企業もあるが、栄枯盛衰の荒波は、企業ばかりではなく、文化やスポーツなどにもの大きな影響を与え続けている。この本を読んでいると、多く具体例が掲載されており、ああ、そうだった、こういうこともあったのだったと、ひとつひとつの具体例を思い出す。

 ふと思い出したことに、9.11の時に倒産したふたつの日本の損害保険会社があった。世界貿易センタービルの火災保険を法外に安い保険料で請け負っていたがために、ビル一つが倒壊したおかげで、保険会社まで倒壊してしまったのだ。そもそも、「戦争」による損害は、保険金が下りない免責のはずだが、世界貿易センタービルには、世界金融のヘッドクオーターがあつまっていたおかげで、お手盛りで保険金を下ろしたと言われている。たしかにグレーなことは確かだ。

 思えば95年の阪神淡路大震災の時も、地震免責を縦に、損害保険会社は火災保険による地震被害に対する保険金支払いを拒否したが、もし、あの時、甘い査定をしたら、最大規模のTM損保でさえ支払能力の2倍の支払いが必要だったというのだから、他の日本の損害保険会社も全滅しただろう。

 企業経営リスクの増大のなかで、確かにM&Aという手法が、企業の再生に大いに役立っているのだと理解すれば、なるほどと合点がいかないわけでもない。しかし、何か腑におちないものが、どこかにひっかかっているのも事実だ。ドメステックな資本が、倒産や経営危機に落としこめられることによって、M&Aに活路を見出し、やがて外国ファンドマネーに買収され、しだいに、グローバル・スタンダードの名の下に、<帝国>の一元化に組み込まれていっている。そんな思いは幻想なのだろうか。







Last updated  2009.02.04 19:13:59
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カテゴリ:マルチチュード
「企業買収の焦点」 M&Aが日本を動かす 
中村聡一 2005


 個人的にはこの分野の本は面白く感じるし、ちょっと遠まわしではあるが、自分の職業とも徐々につながってくる分野でもある。だが、このブログ、しかもマルチチュードという概念のなかで、このような内容をうまく取り扱うことができるかどうかは明確ではない。ただ、この本が出版された
2005年という時代性を考えると、このような内容は、一般的な常識として身に着けておくことも悪くはないのだろう。

 グローバル化という言葉や流れに対して、私は概して肯定的だ。交通や情報がボーダレスとなり、より一つのものになっていくのは賛成だ。グローバル・スタンダードという言葉に裏に、なんらかのたくらみや落とし穴があったとしても、日本人とかプロレタリアートとかいう限定的な存在ではなく、このブログが地球人というもっと大きな概念を標榜する限り、グローバル化は賛成と言わざるを得ない。

 ただグローバルに考え、ローカルに行動する、という言葉はちょっと中途半端だと思っている。あえていうなら、それに付け足して、パーソナルに生きる、と付け加えたいところだ。そして、そのような個人として、大企業が合併や買収を繰り返している様子を、どのように見守ったらいいのだろうか、ということを考えていってみたい。

 M&Aの「M」というのは「マージャー」(Merger)、すなわち「合併」という意味で、「A」というのはアクイジション(Acquisition)、つまり「買収」ということなので、二つあわせて、M&A、こうした取引形態のことをさす。「買収」とはある会社を買うことであり、「合併」とは複数の法人格を持つ会社を併合すること、あるいは法人格の融合はないものの、経営を統合することまで含められると考えてよいだろう。p82

 具体的なM&Aは、先のライブドアとニッポン放送や村上ファンドと阪神電鉄などのニュースばかりではなく、最近では、GoogleのYou Tube買収や、ソフトバンクのボォーダフォン買収などでも、おなじみであり、決して珍しいことではなくなった。このような大きなM&Aばかりではなく、地方銀行やスーパーやコンビニ、あるいは、ほとんど個人商店に近い保険代理店などでも盛んに行われるようになっている。

 現代は、人間ひとりひとりが細かく分断され、単独で存在するチャンスを与えられつつある反面、企業や巨大資本は、日増しに増強につぐ増強を重ねているように見える。まさに世界は<帝国>化しつつあるといっていいだろう。これらの動きに一個の人間として対峙し「物言う」ことはほぼ不可能に近い。であるがゆえに個的な存在ではあるが、<帝国>とほぼ対称的に同型のネットワークを形成し得るマルチチュードのうねりが、これからどのような具体的な様相を示していくことになるのだろうか。興味はつきない。 






Last updated  2009.02.04 19:16:20
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カテゴリ:マルチチュード

 

「最強のファイナンス理論」 心理学が解くマーケットの謎 
真壁昭夫 2003



 
「はじめての金融工学」と同じ著書がさらにその2年前に書いた本だが、どちらかと言うとこちらのほうが面白い。面白いとはいうものの、その金融工学やらファイナンス理論というものが、素人の物言いを許してもらえるなら、かなりいい加減なもんだなぁ、という感想は否めない。このような理論を研究することでノーベル経済学賞をもらえるということは、いかにして経済を合理性のあるものにするか、というより、いかにしてノーベル賞をもらうか、ということを主に研究しているのではないか、と懸念さえしてしまう。

 この世に生まれ、人間社会に育ち、まがりなりにも貨幣を使って経済活動に参加しているかぎり、金融から自由になるものではないが、しかし、それにしても、あまりにも合理性がなさ過ぎることに、ガックリときてしまうのは私だけだろうか。

 もし投資必勝法なるものがあれば、効率的市場仮説は正しくないと判断できる。p44

 それはそうだが、私には、投資必勝法なるもの、はあると思う。ただそれは公開されずに、一部の人間に秘匿されているのではないだろうか。その端的なものが、たとえばインサイダー取引だ。インサイダー取引がもし合理性を持っていないのであれば、法的に禁止されるはずがない。インサイダー取引が横行すれば、市場が成立しなくなるために禁止されているだけであって、つまりは、よりあいまいな市場を作り上げることによって、一般投資家を誘い出し、その金品を巻き上げている、と私には見えてしまうのである。
 
 儲けたこともなく、臆病になってしまった私の単なる犬の遠吠えであればよいが、必ずしもそうでもあるまい。たとえば、最近の日本におけるネットバブルの崩壊の陰で、さまざまな疑惑が見え隠れするのではないだろうか。一般投資家→ライブドア・ホリエモン→村上ファンド→宮内義彦オリックス→福井俊彦日銀総裁→外国人投資家→????という図式が見え隠れする。

 もしギョロ目村上ファンドの「物言う株主」スタンドプレーが最後の最後まで、持ち株上昇を狙った狂言だったとするなら、それは、限りなく「投資必勝法」に近づいていたということになる。村上ファンドの物まねをして、一連のライブドア劇場を主宰したのがホリエモンだったとするなら、そのお芝居に酔った一般投資家は、ああ、またやられちゃったねぇ、ということになる。

 最終的にあの大芝居を打った演出家、プロジューサー、大口スポンサーは誰か、ということになると、その本当の黒幕は見えてこない。外国人投資家だとか、投資ファンドだとか、いろいろ言われている。いずれにせよ、もしマルチチュードのポケット投資→・・・・・・・→<帝国>ファンド、という図式が本当に存在しているとするなら、単に投資行動をしなくても、この図式をすこしづつ解いてみようという試みは、地球人スピリットを探求する過程においてさえ、無駄だとはいえないだろう。

 この本において市場の動向には認知心理学が役に立つような表現が繰り返されているが、本当かな、と私は眉唾だ。この市場を一般投資家が読み解く場合、私はサーファーが波を読んでいるときのような図式が頭に浮かぶ。たしかに海岸の地形や気候や天候によって波の上下はあるだろう。しかし、それは表面的な波形についてであって、たとえば、地球と月と太陽の関係で、大潮や引き潮などが予測されている。それはほぼ確実にやってくる。あるいはもっと長期的に考えれば、地球温暖化による水位の上昇により、海岸線はどんどん変化しつつある。

 つまりこの「最強のファイナンス理論」にしても「はじめての金融工学」にしても、私には、あまりに小手技に終始しているように思える。サーファー達に、砂浜と岩場では、波はこう違うよ、ボードはこれを選んでね、と言っている程度のことだ、と感じる。いや、それだけだったとしてもそれなりに合理性がある。しかし、この本に書かれている程度では、それにさえ達していないと私は思う。

 なにもフリーメーソンやユダヤの陰謀論をいきなり持ち出す気はないが、波の表面的な動きだけではなく、波の深層、大きなうねりの仕組みを大公開しないことには、金融工学もファイナンス理論もあったもんではないのではないか、と思ってしまう。

 いずれにせよ、このブログにおいて「マーケットの謎」を解いていくのは、自分のポケットマネーをいかに増やすか、という合理性を追求していくためではなく、マルチチュードとしての視点から<帝国>の座標軸を見定めるためである。アメリカの401Kとエンロンの詐欺的行為の関係性や、G8のいわゆる「世界的秩序」のグローバリゼーションなど、いくつも話題にはことかかない。

 人間はなぜ、この辺の旧態依然とした呪縛から解放されないのか。この辺を、図書館から借りてきた新書本を読みながらブログを書く程度で、読み解けるかどうか。それはかなり困難ではあるが、この最小限の方法論でさえ、必ずや何事かを教えてくれるはずだ、という確信のもと、このブログは、もうすこし続くのである。







Last updated  2009.02.09 23:19:15
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2006.10.24
カテゴリ:マルチチュード
「はじめての金融工学」
真壁昭夫 2005


 以前より気になっていた金融工学というものをはじめて紐解くことになる。なぜ気になっていたのかといえば、どうも金融というものを直視できずに、皮肉な態度しか取れない自分の態度を嘆きつつ、しかし、どうも工学という限り、科学的に金融をみようとしているのだから、より人間の欲望から離れた客観的な視点を提供しているのかもしれないぞ、という期待感があったからだ。

 とりあえずファイナンシャル・プランニング技能者のひとりとして、一般的な家計をとりまく経済用語には慣れているが、所詮それは、家計簿や一人親方的な零細小企業の経理を対象としている程度で、すくなくとも私には巨視的な経済的な視点をもつことはできなかった。今回は、金融工学ということで、よりマクロな経済への感覚が養われるかもしれないという、ちょっと甘えた気分があった。

 しかし、この本で、そのような期待は簡単には答えてはもらえそうもないな、ということが分かった。天候デリバティブやリアルオプションなどの金融商品についての予備知識は増えても、実際には、それを媒介するような職業的ポジションにいない場合、その知識そのものを縦横に活用するなんてことは、ちょっと考えられない。

 <帝国>VSマルチチュードという図式の中で、一個人として「貨幣」や経済、金融というものをどのように捉えていったらよいのか、まだ糸口はつかめてはいない。ネット社会において、ひとりひとりのネット利用者に身近なものとなったネット・トレーディングだが、果たして、このインターネットを媒介とした株取引は、ネット利用者たちに最終的にもたらすものはいったい何だろうか。

 数多い友人達がすでにネット・トレーディングに手を染めている。私も口座を設定してからすでに7~8年が経過した。しかし、いかにネットを通じて株取引が身近になったとしても、株取引は株取引である。パチンコやマージャン、あるいは競輪や競馬と同列にするには無理があるとしても、一個人のポケットからでていく金とそれの効果に期待する心理においては、なんらギャンブルとかわらないのではないか、と思えてくる。

 口座を設けたものの、余裕資金などあるわけもなく、そのような職業的なポジションにもいないので、私に残されたのは
バーチャルなネット・トレードであった。だが、いままでのところは、見事に完敗といわざるを得ない。どのような形態にせよ、株取引に参加して、そこからなんらかの利益を得ようという期待感を、私個人はすでに失っていると言ってもいい。

 だが、<帝国>という概念を既定する大きな要素に「貨幣」があってみれば、その「貨幣」を自らの身の丈に引き寄せて考えていくために、このようなネット・トレードや金融工学といった切り口から、なんらかの糸口を探していくべきだろうと感じている。

 この本から学んだことはそれほど多くない。ただ、金融工学というものも発展途上にある視点であり、必ずしも、科学の勝利といえるほどの合理性もないようにも感じる。このあとには経済物理学なる分野も切り開かれ始めているという。

 いずれにせよ、このような本を書く人たち、あるいはこのような技能の習得者たちは、<帝国>側の人たちなのであろうか。あるいは、一人のマルチチュードとして、やがてはグローバルな人間ネットワークの形成に貢献する人々なのであろうか。どうも金融というと、善良な市民から金品を巻き上げるシステム、という曲解をしてしまう私がいる。

 平和であり、心身ともに豊かであるべき社会のなかで、「貨幣」を自らの身の丈に引き寄せて考えていく作業は、まだまだ続けなくてはならない。 






Last updated  2009.02.04 19:18:34
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カテゴリ:マルチチュード
「人民元は世界を変える」 
小口幸伸 2005


 世界平和のためには、いつか未来的には国連の発展形として、世界政府、地球政府ともいうべきものができて、国家間の紛争の調整をするべきなのだろう、と漠然と思ってきた。それは方向性としては間違ってはいないだろうけれど、現在の国連や、すでに国家間にある既得権益を不平等に固定したまま、地球政府へと発展していったならば、それは決して理想形にはならないのだろうと、このところ漠然と思い始めた。

 ネグリ&ハートにおける<帝国>は、必ずしも現在のアメリカを中心したものでもなく、国連を発展させたものでもない。しかし、このグローバル化した地球の情報をかき集めてみると、アメリカや国連などの動きが、やがてやってくる<帝国>の雛形となっていることは察しがつく。

 さて、マルチチュードという概念がより明確になってくると、ソビエト連邦や東欧の社会主義国家の政治形態が変化したことはともかくとして、現在のところ、中国や北朝鮮はどのような枠組みで捉えたらいいのだろう、という疑問が沸いてくる。中国は中華人民共和国という名前だし、北朝鮮は朝鮮民主主義人民共和国という名前だ。ここに踊っている「人民」や「民主主義」や「共和国」という概念をどう捉えたらいいのだろうか。少なくとも、名前と実態が一致せず、世界の問題児となっている朝鮮民主主義人民共和国などは、このブログでも、テレビなどで紋切り型で報道されている部分と切り離して、もっと冷静に捉えなおしてみる必要があるのだろう。

 ところで、中華人民共和国、この国も今後どのような発展を遂げるのか、世界が固唾をのみながら見守っているというのが本当だろう。世界経済のなかに、この人民元がどのように組み込まれていくのか、そのようなことをレポートしたのがこの本である。この本のなかで頻繁にでてくるのがG7という言葉。グループ7、先進7ヶ国、アメリカ・イギリス・イタリア・カナダ・ドイツ・フランス、日本の7つの先進国のことである。これにロシアを加えて、G8と言われる場合もある。

 さて、このG7/G8が繰り出す世界秩序について、痛烈な批判を繰り出しているのが、先日読んだノーム・チョムスキー他
「G8 ってナンですか」である。マルチチュードという概念がより明確になるには、<帝国>という概念がもう少し見えてきてほしい。<帝国>という概念がより明確になってくるには、G7/G8の姿をより明確に把握していく必要があるだろうし、通貨や「貨幣」についても、学んで行く必要があるのだろう。






Last updated  2009.02.04 19:20:22
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2006.10.23
カテゴリ:マルチチュード
「マルチチュード」(上) <帝国>時代の戦争と民主主義 
アントニオ・ネグリ マイケル・ハート 2005 原書は2004

 順序は逆転してしまったが、
下巻を読んでから上巻を読むというおかしなことになってしまったが、ある意味、マルチ的に理解するには、この方法もまんざら悪くもないようだ。「マルクスを超えたマルクス」「<帝国>」に一通り目を通した後に読んでみれば、この「マルチチュード」もきわめて読みやすい本とさえ思えるようになってきた。

 マルチチュードとは何か。グローバル化に伴い登場しつつある、国境を越えたネットワーク状の権力<帝国>。この新しい権力の形成途上で生じる終わりなきグローバル戦争状態への抗議運動は、それぞれの特異性を保ちながらも、共通のネットワークを創りあげる。権力と同型の、ネットワーク状の形態で闘う多種多様な運動の先に、グローバル民主主義を推進する主体=マルチチュードの登場を予見する。<帝国>論の新たなる展開、ついに日本語版登場! 表紙見返し

 このキャッチフレーズはなかなか刺激的でワクワクさせられるコピーだ。ほんとについに登場した、と思わせられる。さて、マルチチュードという概念はいまだにはっきりと明確な実態を伴ったものとして書き出されているわけではない。

 心にとどめておいていただきたいのは、本書が哲学書だということである。本書では、戦争を終わらせ、世界をもっと民主的なものにするための取り組みの例を数多く示していく。しかし、だからといって、本書に「何をなすべきか?」という問いに答えたり、具体的なプログラムを提示したりすることを期待しないでいただきたい。現代の世界が向き合うべき課題や可能性に照らしながら、権力や抵抗、マルチチュードや民主主義といったもっとも基本的な政治概念を再考することが必要だと私たちは確信している。p24

 
チョムスキーが、エスノセントリズム的でありながらも徹底的な歴史的分析をみせておいて、そのあとは読者「一人ひとりの地道な熟考と活動」を要求するように、ネグリ&ハートは、マルチチュードという概念を導きだしておきながら、「なにをなすべきか?」や具体的なプログラムを、いまだ提示しない。それはまだ、巨大潮流としてのマルチチュードと合流していないことを示していることにもなるが、また、多様的で分散的なマルチチュードという概念が、地球のあちこちから湧き出てきて次第にネットワークすることを期待しているかのようでもある。

 だから、ここにおいて、私はネグリ&ハートのマルチチュードという概念を寸借しながらも、より私らしいマルチチュードを育てていけばよいのではないか、と思う。まず彼らのマルチチュードは、ネット社会におけるフリーウェアやオープンソースといわれている<共産>的動きにすでに気づいていながらも、十分に合流しているとはいえない。そして、さらにWeb2.0とも言われるまさに21世紀的<革命論>にも、明確にコミットしたとはいえない。

 それはこの本が9.11以降2003年までの間に書かれていることを考えればやむを得ない面が大きいが、もし彼らが次の著書を準備しているとすれば、まさにその当たりが大きくクローズアップされることは間違いない。彼らがその動きを見逃すはずはない。しかし、その挙動が鈍重なのは、どうしても過去のマルクス主義や共産主義という殻をかぶりつつ行動しなくてはならないからだ。

 その挙動の鈍重さにいらつきながらも、このかつての左翼的言辞を多用する論調が、ともすればソビエト連邦の崩壊以降、行き場を失ってさまよっていたかに見える旧「プロレタリアート」的大衆を、たくさん引き連れて合流する可能性があることは愉快なことだ。 

 やはり彼らのマルチチュードに対しては、私の地球人スピリット的視点から見れば、不足していることがいくつもある。簡単に言えば「スピリチュアルだけど宗教を信じてはいない」というグローバル・ネットワーカー達の今日的精神スタイルをうまく取り込めていない、ということだ。

 しかしながら、逆に地球人スピリットからみると、<帝国>における3つの指標、「軍事」「貨幣」「コミュニケーション」という視点に対して、コミュニケーションはともかくとして、軍事、貨幣については、まだ十分取り込めていない、といっていいだろう。

 今後、このブログでは、スピリチュアリティを補完する意味で、「アガルタ」というキーワードで東西の精神的神秘主義にも深くおりていく予定であるが、また軍事、貨幣についても、考察していこうと思っている。軍事ということを考えるなら、現実的な沖縄を考えなくてはならないだろう。もちろん憲法9条についても、再考を重ねなくてはならない。そして、貨幣については、M&Aやグローバル金融というものについても、今後食らいついていかなくてはならないだろう。

 行く手にあるのは、<帝国>の秩序に属するネットワーカー状のさまざまな力が、四方八方に控えたネットワーク状の敵と対峙する戦争状態にほかならない。p120

 ネグリ&ハートのマルチチュードは、絶対的戦争拒否的な平和論者ではない。エンドレスな戦争をおこさざるを得ない<帝国>に抗するためには、戦争を終わらせる戦争を闘うことを厭わないという姿勢を保ち続けている。共産主義の歴史が、反逆と抵抗の歴史であってみれば、それは必然的で止むを得ない姿勢なのかも知れないが、私はとにかく違和感を持つ。血による行動は血による報復をよびおこすだけではないか、ということはマルチチュードにもいえる。

 むしろ、そのように血を用いないからこそ、マルチチュードと言えるのだ、という仮説を出しておきたい。






Last updated  2009.02.04 19:23:55
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カテゴリ:マルチチュード
「マルクスを超えるマルクス」 経済学批判要綱」研究 
アントニオ・ネグリ 2003 原書1979

 マルチチュードを探求する過程で、その提唱者であるネグリという人物の業績をより知りたいと思い、その過去の著書に触れてみたということである。過去の著書と言っても、2002年にでた「<帝国>」の評判がよかったので、一連の著書に脚光があたった、ということだろう。さらに、他の「構成的権力」「転覆の政治学」の既訳のほかに、「野生の異例性」や「ディオニソスの労働」などがある。

 このような本をどのように読めばよいのか、私にはニワカには分からない。本著は、アカデミックな研究者たちの書架を飾る一冊になるのではなく、革命的な活動家のために書かかれた本だということだが、研究者でもなく、ましてや活動家でもない私はどのように読んだらいいのか、戸惑ってしまうことになる。

 いずれにせよ、この本の原書は1979年以前に書かれたものであり、60年代70年代の反体制運動の熱き日々は遠く、また、91年のソビエト連邦崩壊以前ながら、その時点において、共産主義者ネグリは、マルクスを批判的に再構成し、新たな革命理論を模索する作業を始めていた、ということだろう。まさにマルクスを超えるマルクスの探求である。

 マルクスの「経済学批判要綱」を研究しながら、ここには、21世紀になってやってくるマルチチュードという着想の萌芽がしっかりと見て取れるようだ。この本の邦訳は「<帝国>」出版の成功を踏まえたうえで訳出されたものであり、序文や解説は、当然、その状況を反映させた内容となっている。

 難解であり、また時代的な背景を考慮するなど、この本を読むにはさまざまな予備知識を必要とするのだが、マルチチュードを理解するうえで、ネグリを多面的に把握するためには、この程度の読書しかできなくとも、いくらかのプラスにはなるだろう。 






Last updated  2009.02.04 19:25:56
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2006.10.22
カテゴリ:マルチチュード

(3)よりつづく
第四部<帝国>の衰退と没落 p441

 「訳者あとがき」p513までやってきてようやくわかることもある。この本1991年から1999年にかけて書かれた本であった。だから、時代感覚は90年代に据えてこの大作を味わっていく必要があるのである。本書は、「これまでのオーソドックスなマルクス主義からすれば、およそマイナーなものでしかなかったおびただしい理論や実践の水脈をたど」p516ったということだから、一読者でしかなく、ましてやマルクス主義者でもない私にとって、そう簡単に読み下せるものではないのだ、とやや自己愛撫する。

 読者が、本書のそこここにそうした多数の声を聴き取り、それらの声に揺り動かされながら、みずからもマルチチュードへと生成変化し、その運動のなかに組み込まれていくように感じていただければ、訳者たちにとって、これ以上の喜びはない。p516

 運動、組織、革命、主義、権力、闘士、抵抗、などなど、私のなかでは、いつの間にか死語化していた言葉が、この本のなかでは、新たな息吹を吹き込まれて、不死鳥のようによみがえろうとしている。あるいは、フランケンシュタインのような妖怪の復活をも予感させるような、怪しい雰囲気もある。

 マキアヴェッリは、古代の概念構成を振り返りながら、近代的な概念構成を先取りもしていた。じつのところ彼は、<帝国>の逆説をもっとも適切な仕方で浮き彫りにした人物である。p465

 なるほど、なんどもでてくるマキアヴェッリは、ネグリ&ハートにとっては、逆説の論理的基盤なのであった。

 何よりもまず来るべき<帝国>はアメリカではないし、アメリカ合衆国はその中心ではない。本書でずっと描いてきた<帝国>の根本原理は、<帝国>の権力は特定地域地域に局所化可能な現実的な地勢も中心ももってはいない、ということである。p478

 <帝国>はこれから現れるのだ。そしてそれはアメリカでもないし、アメリカを中心とするものでもない、と預言する。

 人はそれぞれこの関係性を非ー場、つまり世界とマルチチュードのうちに見出すのだ。<帝国>の理念が再び現れるのはここだ。領土としての<帝国>でも、特定の時間と空間の次元を有する<帝国>でも、ひとつの民族やその歴史の見地に立った<帝国>でもなく、ただたんに、普遍的なものに生成する傾向を備えた、存在論的な人間の次元の織物としての<帝国>なのである。p479

 さぁ、この辺からが、ネグリ&ハートの真骨頂といえるだろう。

 いまは亡霊が蠢く真夜中である。<帝国>の新しい支配力とマルチチュードの非物質的で協働的な新しい創造性が暗がりのなかを動いている。私たちのこの先の運命を首尾よく照らし出せるものは何もない。にもかかわらず、私たちは新しい参照点を獲得した(そしておそらくは明日には新しい意識を獲得するだろう)。p480

 この本が書かれてから、もっと古い部分は15年、最新の部分でも7年の時間が経過しているのである。9.11を経て、ネット社会の成熟を見、Googleの急上昇を経過した2006年の現在において、私たちは決して、「私たちのこの先の運命を首尾よく照らし出せるものは何もない。」とは言えない。いやむしろ、現代はますますネグリ&ハートの預言どうり動いてきているのではないか、そう実感せざるを得ない。この辺が<帝国>vsマルチチュードの図式がポストモダンなインテリたちにうけている理由なのだろう。

 私はマルチチュードという概念に感動し共感しつつも、おおいなる不満ももっている。それは、マルチチュードという概念は、マルクス主義のプロレタリアートの焼き直しでないか、という初歩的な疑問はともかくとして、その構造自体がどうも古いものに思えてしまうのである。階級闘争的な視点をより今日的にしただけでいいのだろうか、とちょっと首をかしげてしまう。

 個人的には自分の視点をマルチチュードという立場に据えてみるチャレンジをしてみたいと思いつつ、私の求めている「地球人スピリット」には、このままでは充足されない決定的重要な要素が残ってしまうと感じるのである。「スピリチュアルだが宗教は信じていない」という人々のネットワークが確実に成長しはじめている。この流れをネグリ&ハートは、十分把握しているとは思えないし、その理論に上手に取り込めているとは思えない。

 この本、皮肉にも最後の最後の結句は、アッシジの聖フランチェスコの伝説で終わっている。

 フランチェスコは生まれたての資本主義に異議を唱えながら、あらゆる道具的規律を拒絶したし、苦行(貧困や構成された秩序のなかでの)に異議を唱えながら、歓びに満ちた生を提示した。あらゆる存在、自然、動物たち、妹たる月、兄たる太陽、野原の鳥たち、貧民や搾取された人びとがそこには含まれ、それらは集って権力や腐敗の意志に抵抗するのだ。p512

<帝国>おわり

<5>につづく 







Last updated  2014.08.22 15:51:49
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カテゴリ:マルチチュード
(2)より続く
第三部 生産の移行 p287

 ようやく第三部にやってきて、我が意を得たりと思えるようなところがちょこちょこ出てくるようになる。p355あたりになると60年代のカウンターカルチャーが語られることになり、なんともほっとするのであった。

 「ポストモダン化、または生産の情報化」p363なると、ある意味トフラーの第三の波とかなりの点で波長を一つにする。そして情報ネットワークやネット社会を論じ、ようやく、このブログとの接点を見出そうとする私がいる。

 情報とコミュニケーションの権力構造における主要な要素の(事実上あるいは権利上の)統一化ーーーハリウッド、マイクロソフト、IBM、AT&T、等々ーーーを通じて、強大な中心化がすでに進行しているのである。p386

 面白いことにここには、まだGoogleやYahooはない。原書が2000年発行だからしかたないが、この後続の書において、この辺がどう書かれているのか、また新しいチェックポイントが増えた気分でうれしい。

 ここでネグリは、「帝国主義から「帝国」へ」p303、から、「大きな政府は終わった!」p437へと着々と進む。

 私たちはアナーキストではなくて共産主義者(コミュニスト)なのだ。リベラルな大きな政府、社会主義的な大きな政府による人間性の抑圧や破壊が、どれほどひどくはびこっているかを目の当たりにしてきた共産主義者である。p440

 この本の難解さは、論理自体の難解さではない。私とこの書の間における接点を見つけることの困難さに基づく難解さだ。だから、接点さえ見つけることができれば、この本はとても感動的な啓蒙の書となる。では、私が前半部を読むことに困難さを感じるのはなぜだろうか。そこには、ネグリ&ハートが強くもっているマルクスの後継(かどうかはこれから検証)であろうとし、共産主義者であろうとするところである。

 私の平凡な人生のなかで、自分を**主義者と自己規定することはほとんどなかった。もちろん共産主義に触れるチャンスがなかったわけではない。ましてや革命的共産主義者たちは、10代から、すぐ傍らに、紅顔の友人、という姿をとってさえ、常にそばにあった。しかしながら、70年代から20世紀末にかけて、90年前後の東欧社会の社会主義の終焉を横目でみながら、ついに旧来の共産主義は私のハートを貫くことはなかった。

 
日本共産党の現状をみるまでもなく、中国共産党や、北朝鮮(これは再検討要)などの、いわゆる共産主義や社会主義といわれるものも、現在のところ、決して、魅力あふるるものとは思えない。むしろ、いままでの手垢のついた共産主義ではなく、新しく問い直され、編みなおされたものとしての、ネオ共産主義論なら、一口乗ってみようかな、という誘惑に駆られてしまう。

つづく






Last updated  2009.02.04 19:30:35
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カテゴリ:マルチチュード
(1)より続き
<帝国>第二部 主権の移行p97

 この本を書いているあいだ、私たちは力の及ぶかぎり、広汎な学際的アプローチを適用しようと努めた。本書において私たちの展開する議論は、それぞれ同等の資格において、哲学的かつ歴史学的、文化論的かつ経済学的、政治学的かつ人類学であることをめざしている。p9

 ここで上げられているだけでも、哲学、歴史学、文化論、経済学、政治学、人類学などのアプローチが試みられていることがわかる。であるがゆえに、ネグリ&ハートの二人の共著とならざるを得ない、ということもわかる。なぜそうするのかという点に続いて、次のように続く。

 そうした広汎な学際性を私たちの研究対象が要求するのは、ひとつには、狭い専門分野にもとづくアプローチをそれまで正当化していたかもしれない境界が、<帝国>のなかでますます崩れ落ちつつあるためだ。p9

 第二部においては「ネットワーク的権力ーー合衆国の主権と新しい<帝国>p209あたりが強く興味をひかれる。この本の原書は9.11以前に出版されているはずだが、9.11にいたる道筋はすでに予測されたものであり、研究の集大成が出版された直後に9.11が起きたが故に、この本はある意味、ひとつのブームを呼んでいるのだろうと推測する。

 今日のNHKテレビ「週刊ブックレビュー」の出演者が、最近の読書界の二大潮流として(正確な表現は忘れた)アントニオ・ネグリと「何も共有していない者たちの共同体」の
アルフォンソ・リンギスを上げていた。そのような形で紹介されるとついついそちらに気をとられてしまう自分がいるが、このような「哲学」的アプローチを、このブログでどんどん追いかけていってみるのか、あるいはこの辺で引き返すのか、考え時ではある。

 第二部でもさかんに登場するスピノザについても、どうやらもう少し学ぶ必要があるようだ。ネグリ&ハートのマルチチュードのなかに科学や芸術というものを見つけることができても、意識ないしは魂のカテゴリについて、いまいち不足しているのではないかという感触がある。ところが、どうやらスピノザは、神秘主義にも影響を与えているらしいので、なぜマルチチュードにおいての魂論が語られないのかは、この辺を開いていくとわかっていく可能性がある。

 マルチチュードは、その対抗的であろうとする意志や解放への欲望を携えながら、<帝国>を押し分けて進み、ついには向こう側へと抜け出さなければならないのである。p285

 さて、この一連のマルチチュード論を読んでいくにあたり、自分をとりあえず一人のマルチチュードとして既定して考えてみようと試みている。とするなら、この部分などは、ある意味、指令でありアジテーションでもある。<帝国>を押し分けて進み、ついには向こう側へと抜け出さなければならないのである。さぁいよいよアヤシイ世界にはいりつつある。この辺の部分は、世界のマルチチュードを自認するひとりひとりはどのように読んでいるのであろうか。

つづく 






Last updated  2009.02.04 19:46:17
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