事故と心理 なぜ事故に好かれてしまうのか
地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく「事故と心理」 なぜ事故に好かれてしまうのか 吉田信彌 2006/8 中央公論新書 私がこの本に関心を持ったのは車社会における交通事故と人間心理の関係を研究している一冊であったからである。このブログはテーマそのものはどんどん変わりつつあるものの、自分の生活、特に生計を成立される分野からだんだんと遠ざかっているのではないか、という反省があった。そんな折り、リスクマネジメントに関する仕事をしている自分としては、かならずしも、この本はこのブログには直接関係ないだろうが、ちょっと読んでおこうかな、と思ったのだった。 ところが、いくつかの面で、この本は、極めて面白い位置にある本であることがわかった。まず、この著者は私の住む市内の大学の教授だったのである。しかも、その実験や調査を繰り返していたのは、私がいつも利用する道路だった。なるほど、あそこは事故多発地帯だよね。私もあそこでおきた交通事故二件を担当したことがある。実際に横断歩道橋のうえから信号機の色の切り替わるタイミングを時計とにらめっこしたことがあった。 しかも驚いたことに、リビングに転がりながらこの本を読んでいたら、子どもが「なんでその本をよんでいるの?」と聞いてきた。なんと、子どもはこの吉田教授の教え子であり、著者の情熱に溢れた授業風景を細かく教えてくれたので、なお、親近感を持って読むことになってしまった。 しかもである。たしかに私は、ネット社会について、モータリゼーションに関連付けて考えてきたところがあるが、私の単なるアナロジーとしてのイメージをキチンと科学的に関連づけてくれていたのである。 交通安全対策は「人」「車」「道」の三方向から実施される。本書ではここまで「人」に焦点をあててきたが、個々の事故ではなく、全体の交通事故数や死者数の削減という政策を考えるときには、人だけではなく、車や道路の環境整備の必要であることは言うまでもない。p165 「人」「車」「道」は、まさに、ブッタ、ダンマ、サンガにも対応するようなアナロジーだ。なるほど、まさに目から鱗、という感じだ。まさにブッタは「人」であり、ダンマこそ「車」でなくてはならない。そして、サンガが「道」とはなんと言い得ていることか。 ブッタとはまさに人間らしい人間のこと。ダンマは2500年サイクルの法輪なのである。そしてサンガは、実際に歩むべき道のど真ん中のことである。とまぁ、親父ギャグにも似たひらめきはともかくとして、この他にも、いくつかの慧眼ともいうべき、調査結果がでている。 カナダの心理学者ワイルドの説によれば、人間は許容するリスクの水準をもっていて、それは体温や血糖値の恒常性を保つホメオスタシスと同じように、一定の水準で均衡するように保たれる。彼はこれをリスクホメオスタシスと呼ぶ。たとえば車が安全になると、危険性の水準は下がる。しかし、その下がった分をもとに戻すように、人は危険な行動に走る。その結果、危険性の水準は前と同じになる。たとえハードの改善によって、一時的な効果があがり事故が減ったとしても、それを人が知るようになると行動が変わり、やがては人口当たりの死者数はもとに戻る。改善の効果はもとの木阿弥になってしまう。p168 この辺についてはう~ん、と唸ってしまった。私は、このことをモータリゼーションの中ではなく、世界の戦争事情や自殺事情について考えていたからである。せっかく戦争による犠牲者が少なくなるように努力しているのに、最近の自殺や殺人事件のなんと多いことか、と嘆いていたわけである。とくに最近の日本の事情を考える時、人間とは、ある一定程度、「血」や「悲劇」を求めるようにできており、いくら努力しても、人間界からは、悲惨な事件は消えないのかもしれないと、ペシミステッィクに考えていたのだ。まさにホメオスタシスともいえる全体性なのだろうか・・・・・? 自動車事故対策は、人、車、道の三方向から行なわれるが、3Eという言い方もある。教育(Education)、工学(Engineering)、取り締まり(Enforcement)、の3Eである。p193 取り締まり、という言葉は一ドライバーとしてはちょっと歓迎したくないところがあるが、いざ被害者や弱者の立場にたってみれば、これはやむの得ないことなのであろうか。仏教で言えば、戒律、ということか。ネット社会であれば、セキュリティとか監視システムということになろうか。人間をどこまでも性善説で受け止めることはできないようだ。 交通安全だけではなく安全一般に拡げた言い方には、4M(Mam,Machine,Management,Media)などがある。アルファベットの頭文字遊びと思うかもしれないが、安全の対策と研究にはさまざまな分野がかかわる。その事情を3Eや4Mと言い表すのだが、実際にや既存の専門科学の分業が進み、相互の棲みわけがなさえてきた。そうしたなかで工学か教育か、モノの改善か人への対策か、ハードかソフトか、という対立軸が存在した。それは、専門科学でいえば、工学を中心とする理科系と心理学や法学などの文科系との対立、または相互無視という構図である。p192 縦割りや分業は、このような分野にまで悪影響を与える側面をもっていたのである。このモータリゼーションの問題について私は、どうも過去のことと考え勝ちであったが、実際にこの本がでたのは今年以降のことであり、まさに現代の問題でもあったのである。 犯罪や交通事故に巻き込まれた人だけではなく、日常の生活でも安全が問われる時代になった。ウィンドウズ95が販売されインターネットが広がると、「ウィルス」や「ハッカー」の存在が知られるようになった。他人の善意をあてにしての社会は成り立たず、自己防衛に努めなければならないことを思い知らされるのがIT社会である。p220 ここでの「ハッカー」は「クラッカー」と言い直されるべきだとは思うが、ここまでくれば、この本とこのブログには深い関係があったということが分かってくる。そしてさらには、北朝鮮核実験に対抗するために日本の核武装論議の必要性などということにも発展しかねない。ことは由々しい問題へと発展しかねないのである。 いずれにせよ、このような大学における研究が、一般に公開され、社会に還元されることはとてもよいことだと思う。「あとがき」をみれば、トヨタ財団、佐川交通社会財団、住友海上福祉財団などの民間の財団からの助成金でこれらの実験が行なわれたことが明記されている。 以前読んだ「スピリチュアリティの現在」が陽光文明研究所からの助成をうけていることと同じ図式なのであろうが、とりあえず、なるほど、と思うところもあった。