2008.04.30

究極の旅 <2>

カテゴリ:osho@spiritual.earth

<1>よりつづく

「究極の旅」 禅の十牛図を語る <2>
Osho 


 帯に横尾忠則が推薦文を書いている。

 禅は言葉の世界ではない。禅の思想は坐禅を通してのみ体感できるものである。だがそれでも尚、体感できないのが禅である。この本の著者は、生まれながらに人間は悟った存在者であるということを体感させる方法とそのプロセスを「十牛図」によって説き明かし、とてつもない世界に導引してくれる。読者は今そのスタート台から一歩足を踏み出している自分を発見しているはずだ。横尾忠則 本書の帯より

 私の手元にあるこの本は、1991年発行の12刷だ。初版本からこの推薦文があったかどうかはわからない。インドで求めた一冊はそのままインドにおいてきたし、帰国してから購入した本も、なんどか友人達にプレゼントしてしまったので、私はなんども何冊もこの本を買ったことになる。

 横尾忠則は、小学生時代からの私の憧れだった。高校卒業してすぐ世田谷の彼の自宅を訪ねたことがある。長じて彼から直接サインをしてもらった画集は私の宝物だ。現在の彼の動向はともかくとして、この人がいたから私もインドに行った、という面がないこともない。

 77年当時に出版されていた雑誌「メディテーション」には、「横尾忠則ともにいくプーナツアー」というものの企画の広告が掲載されていた。私は実はこのツアーでインドにいくつもりでいた。しかし、残念ながら、この企画は直前にキャンセルになり、その後、横尾がプーナに行ったという話は聞いたことはない。

 さて、究極の旅、種を明かせば、結局は、十牛図の十番であろう。

 十 世間にて (入てん垂手)

足は裸足で、胸ははだけ
私は世間の人々と交わる

服はぼろぼろで埃まみれでも
私はつねに至福に満ちている

自分の寿命を延ばす魔術など用いない

いまや、私の目の前で
樹々は息を吹き返す

私の門の中では、千人の賢者たちも私を知らない。私の庭の美しさは目に見えないのだ。どうして祖師たちの足跡など探し求めることがあるだろう? 酒瓶をさげて市場にでかけ、杖を持って家に戻る。私が酒屋やマーケットを訪れると、目をとめる誰もが悟ってしまう。 p449 

 このエントリーがスタートとなる[OSHOagarta/mmp/gnu]というカテゴリの、mmpとは、meditation in the marketplaceの略である。そして、mmpの象徴として、この十牛図の十番が高く掲げられている。

 しかし、Oshoは、「マーケット・プレイスでの瞑想」で、手厳しい指摘もしている。 

  瞑想をマーケット・プレイスにもたらすがいい。だが、瞑想とは、満足という意味ではない。いつかは満足がやってくる。だが、それは瞑想の出発点ではなく、瞑想の究極の開花においてもたらされる。瞑想が深まるにつれて、あなたはより静かになり、平和に満ちてくる。よりバランスがとれ、より中心が定まり、気づきが増し、意識的になる。それにつれて、満足はまるで影のように、あなたに付き従うようになる。だが、そうなるのはあなたの作為によってではない。 The Osho Upanishad, #33 より抜粋 p710

 尋牛、見跡、見牛、得牛、牧牛、騎牛帰家、忘牛存人、人牛倶忘、返本還源、入てん垂手・・・と円を結ぶ十牛図。当ブログでは、0.0.1βが尋牛、0.0.2が見跡となっているだろうか。とするなら次なるこの[OSHOagarta/mmp/gnu0.3]は、みごと「
見牛」となるだろうか。


kinryugo.jpg
<3>につづく





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