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カテゴリ:子ども
小学校2年生の息子の算数で掛け算の順序が間違っていると
×になるというのがあって、 理系の夫と、そもそも掛け算の順序は大切か? (いちいち順序にこだわるべきか?) と話した結果、まったくこんな教育するから数学嫌いが増えちゃうんだよ! って話している ところです。 これ、結構大きな教育問題では? 掛け算の順序は大切か? (いちいち順序にこだわるべきか?)、という教育問題がある。 たとえば、 「 50円の本を 8冊買いました。全部でいくらになったでしょう」 という問題に、 50×8 = 400 と書けば正答だが、 8×50 = 400 と書けば誤答となる(得点ゼロになる) ……というような採点が問題となる。 これについて、次の見解が話題となった。 → かけ算の順序にこだわる教師と出版社の皆様へ 一部抜粋すると・・・ 日本語でも「A円のノート8冊の代金」は「8冊のA円のノートの代金」と書き換えることもできる。 また、交換法則を教えてある以上、A×8と8×Aを同値と見なさないのは教育内容と合致しない。 他にもいろいろと見解があって、次にまとめられている。 → 掛け算順序問題派閥チャート これはおもしろい分類ですよ~ この問題は、「数式を言語的に表現する」という発想があるのだ と想定すると、よく理解できる。 たとえば、 「単価が A 円のノートを 8冊」 というふうに日本語で考えるから、 A × 8 というふうに書きたがる。 いっぽう、英語で考えるなら、 「 8冊の、単価 A 円のノート」 というふうに考えるから、 8 × A というふうに書きたがる。 ( 1冊ならば a book であり、8冊ならば eight books ) つまり、「 A × 8 というふうに書きたがる」というのは 「数式の意味を考える」ということのようでいて 実は、「数式を日本語で考える」 つまり「数式を日本語で表現する」ということに相当する。 換言すれば、「数式は言語で表現されるものだ」という思い込みと 「言語とは日本語だ」という思い込みがあるわけ。 この思い込みがおかしいわけだ。 では、正しくは? 数式は、思考を抽象化したものであって 思考過程そのものではない。 だから、思考過程における言語的な過程は 数式では消えてしまう。 ……こう理解するのが正しい。 なのに、そこを理解できないで 「数式には言語的な思考過程が残されている」と思うのが、学校教師だ。 本当は、その認識自体が、非数学的であるわけだ。 (言語 or 日本語でないものに、言語 or 日本語を持ち込むから。) なるほど、数式を書くときに、言語的な思考過程をきちんと押さえておくことは大切だ。 ただし、その過程は、数式には残らないのだ。 そのことをきちんと理解しておくべきだろう。 そして、その理解がないことから、 数式 = 意味 = 言語 = 日本語 というふうに結びつけてしまったのだ。 本当は、このような関係は全然ないのだが。 まとめると・・・ 「数式の意味を理解するべきだ」という主張には 「数式の意味は言語で理解される」という発想がひそんでいる。 「数式は言語で表現されるものだ」という思い込みが このような「意味の理解が大切だ」という主張をもたらす。 比喩的に言うと、次のことに似ている。 「英語を理解するときに、いちいち和訳して理解するか?」 本当ならば、英語を理解するときには 英語のままで理解すればよく いちいち和訳して理解するべきではない。 しかし、古い頭の持主だと、こう思い込む。 「英語を理解するためには いちいち和訳して理解することが絶対に必要だ それが教育というものだ」 これと同じ思い込みが、数学の世界にもある、と考えるといいだろう。 そのせいで、「数式を数式のまま理解する」ということができずに 「数式を言語によって理解する」という方針を取る。 そして、そのことを「数式を真に理解することだ」と思い込む。 実はそれは、とんでもない勘違いなのだが。 私の見解と同趣旨の見解はないかと思って、検索してみた。 → 「(掛け算 or かけ算) 順序 (言語 or 言葉) 」- Google 検索 次のページがヒットした。 → http://d.hatena.ne.jp/takehikom/20130126/1359147548 → http://nlogn.ath.cx/archives/001450.html 内容はどちらも同じで、次の趣旨。 「掛け算の順序は、言語に依存する。日本語ではこの順序だが、英語では逆の順序になる」 さて。上のことは、本項の趣旨に似ているが、似て非なる。 私が言いたいことは、 「日本語と英語では順序が異なる」 ということではなくて、 「『掛け算の順序』という発想は 『言語を数式化する』ということだ。 しかしそれは無意味だ」 ということだ。 ここでは、日本語と英語との違いを指摘したいのではない。 むしろ、次のことを言いたい。 「言語による思考を数式化することはできるが そこで数式化したものから言語による思考を探るということはできない」 つまり、 ○ 言語 → 数式 (言語の数式化は可能) × 言語 ← 数式 (数式から言語を探ることは不可能) ということだ。ここには不可逆性がある! この不可逆性を理解しない教師が多いことが この問題の本質だ、と言えるだろう。 ( ※ 言語の数式化はたしかに大切なことだが 数式を見てそこから言語の過程を知ることはできない。 だから、掛け算の順序から採点することはできない。 思考過程を教育することはいいのだが 数式から思考過程を推測して不合格点を出すことは不適切である。) もう少しわかりやすく書こう。 50×8 = 400 と書けば正答だが、 8×50 = 400 ……ということは、次の二つを区別したい、と意図している。 ・ 単価 50円のものが 8冊 ・ 単価 8円のものが 50冊 しかしそれは「単価×冊」という日本語の言語構造を前提としている発想なのだ。 実際には、逆順に「冊×単価」であってもいい。この場合には、 ・ 単価 50円のものが、 8冊 ・ 8冊の、単価 50円のもの という区別をすることになる。そして、この区別は無意味である。 これがつまり、上記の「不可逆性」ということだ。 掛け算の順序について、 (単価)×(数量) という順序に決まっているのだ……という主張もある。 しかし、それはおかしい。 「教わったものだけが正しい」 という発想は、 「別解は正しくない」 「自分の頭で真実に到達することは悪いことだ」 「考えることは悪いことだ」 というのと同じである。 それは民主主義的な発想とは正反対で 独裁者の言いなりになる人間ばかりを養成することになる。 日本を北朝鮮みたいにしようとする発想だ。 そんな教育は、有害無益である。やらない方がマシだ。 ちょっと行きすぎ発言でしょうか・・・ とにかく、変なところで子どもの自信を無くすような教育をしないでほしいと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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