「%」が分からない大学生
副題は「日本の数学教育の致命的欠陥」。 著者は『分数ができない大学生』の執筆者の一人、桜美林大の芳沢教授。 著者は、分数が出来なくなった背景に、 「は・じ・き」と「く・も・わ」があると言う。 「は・じ・き」は、「速さ」×「時間」=「距離」の頭文字、 「く・も・わ」は、「元にする量」×「割合」=「比べられる量」の頭文字だが、 子どもたちは、これを「は」と「じ」の上に「き」、 「も」と「わ」の上に「く」と視覚的に覚えているとのこと。そして、この種の問題で驚くべく誤答を書く学生に限って、「は・じ・き」と「く・も・わ」の図が、描き添えられていたのだそうだ。つまり、「やり方」だけを暗記し、そのプロセスを全く理解していないため、まるで見当はずれな間違いを、平気でしてしまっているのだと。と言うことで、本著は「暗記だけでプロセス無視」になってしまっている数学教育を、今何とかしておかないと、とんでもないことになってしまうという警告の書である。 *** 来たるAI時代に向けた学習では、 コンピュータと競うかのような答えを当てる学習スタイルより、 論述力のアップを目指す学習スタイルの方が大切なことは言うまでもない。 もちろん、これまで私が主張してきた「式変形もきちんと書く、 多様な計算練習をたくさん行うべき」と言う主張に変わりはない。(p.98)新学習指導要領が求めているものが、ここにある。そして、次のことにも同じことが言える。 私は何十年も前から、 「数学は教え合うと効果的な教科である」ということを薄々感じていた。(中略) 「こんなことを聞いたら恥ずかしいんじゃないか」と思うような内容は、 教員にはなかなか質問できないだろう。(中略) だが、そのような空気が充満していても、気心の知れた友人同士であれば、 恥ずかしい気持ちを持つことなく何でも質問できるものである。(中略) 試験で100点をとった人でも「三慧」の視点から見れば、 まだまだ「聞慧」の状態の場合はいくらでもある。 だから、そのような人は「思慧」、そして「修慧」のステージを目指せばよい。 すなわち、100点をとった人が40点の人に教える場合でも、 その人は「修慧」の段階の10000点を目指せばよいのである。(p.141)「三慧」については、著者がp.138から丁寧に説明してくれている。これこそが「学び合い」だと感じた。