大空のサムライ(上)
零戦で200回以上の空戦を戦い、 64機を撃墜した坂井三郎さんの回想記。 六中受験に失敗し、入学した青学中等部も退学。 故郷・佐賀に戻ってからは、百姓をしながら少年航空兵を目指す。 しかし、二度の受験に失敗。 そして、一般海軍志願兵に応募して何とか合格。 兵科第八分隊に編入され、戦艦霧島の十五インチ副砲分隊へ。 さらに、横須賀の海軍砲術学校を経て、戦艦榛名の主砲分隊へ。そこで、上官に飛行機乗りになりたいと申し出たところ、二番砲手から弾庫員に格下げ。それでも諦めずに操縦練習生を受験して合格。念願の霞ヶ浦海軍航空隊の一員となったのだった。そこでの日々も、克明に記されている。飛行機の操縦が、どんなものかが目に浮かぶ程に。教官の指導を受けながら成長し、首席で卒業、九州・佐伯航空隊で三か月の延長教育後、高雄航空隊に配属される。さらに、九紅の第十二航空隊に転属、中国大陸へと渡る。そこからは、明日の命は分からない、闘いの日々。そこで描かれる戦闘シーンは、まるでゲームの世界。自らの生命に、全く執着がないかのようにさえ感じられる。 当時の日本の飛行機乗りは、誰も落下傘を持っていなかった。 とくに戦闘機乗りは、戦闘に絶対に必要なもの以外は、 すべて出撃のときに棄てたのだ。 すこしでも機を軽くして、空戦性能をよくするようにと、 ただそれだけしか考えなかった。 そして、もしも敵地において被弾したら、ただ自爆するだけさ。 そういった、あっさりとした観念を、いつのまにか植えつけられていた。 これは、戦に出ることは死ぬことと決めてかかっていた 日本人特有の<思想>からきているのかもしれない。 また飛行機乗りには、とくにこの思想が強かったのかもしれない。 私たちのあいだには<生きる>ということを考えていたものは、 一人もいなかった。 死ぬことを飛行機乗りは当然の運命のように甘受していた。 だから、いささかでも空戦において 生命を惜しんだと思われるような行動は、 誰もとりたくなかったのだ。(p.359)そう、飛行機に乗るということは、もう、その時点で死を覚悟するということだった。自分の生命に拘っていては、戦闘機で撃ち合うことなどできない。自らがゲームのキャラクターと化すしか、戦う術はないのだ。 ***先日読んだ『自分を変える読書術』で、著者の堀さんのお薦め本に挙げられていたので読んでみた。上巻を読み終えた段階では、5,000冊以上の中から選ばれた6冊という実感はまだない。下巻には、どのようなお話が描かれているのだろうか。