猫の話
それではうちの猫の話。 Billyが私に出会ったのは、1996年の5月28日火曜日の夜のことだった(細かく覚えてるな、しかし)。当時はまだ今のダンナに逢う前で、東京に在住していた。その頃時々会っていた彼がうちへ来ることになって、裏のファミリーマートへ呼び出されて行って見ると、その前の駐車場にかがみこんで、懸命に何か小さな生き物を食べさせようとしているではないか。 よくよく見たら、茶トラの子猫だった。さらにもっとよく見たら、目がうまく開かないらしく、駐車場のバンパーにけつまずいていた。差し出された缶フードにも見向きもしない。「鼻が利かないんだ、きっと。」と彼は言う。ファミリーマートの買い物袋(飲み物用のごくごく小さなやつ)の、くしゃくしゃ、という音に反応して、袋に入ってきた。耳はきちんと聞こえるらしい。 彼は猫好きだったけど、私はどちらかと言うと犬好きだったので、正直言って、「ああ、野良なんかに関わって、困った人だなぁ」と思っていたのだけど、この子猫が袋に自分で入ってきた瞬間から、「この猫欲しい!」と思っていた。 彼も「うちじゃ飼えないしな、困ったな、どうしよう。」と言う。すぐ傍に同じ模様の、母親らしき大人猫がいるのだけど、うちらがその子猫を袋で取ってしまってもとくにどうでもいいような顔をしている。多分、「その子は病気でもうあきらめてますから、どうぞご自由に。」とでも思っていたのだろう。というわけで、彼はそのまま買い物袋を、別の知人のところへ持っていった(私が猫人間じゃないのを知っていて)。 でも、その知人のところで、飼えないか交渉しているという間に、私は、「どうかその人が飼えなくて、うちに来ることになりますように。」と天にお願いしていたのだ。どうしてもその猫が欲しかった。 数時間後、結局うちに来ることになって、獣医で目をきれいにしてもらってぼんやりと開くようになって、ビタミン剤を打たれて、その猫はうちにやってきた。段ボール箱に入って、使い古しの猫トイレとともに。「初めての猫」のための本も2冊もらった。 「猫の名前はビリーだよ。Billy the Kidのビリー。」と言われた。 それからというもの、私の生活がすっかり猫中心になってしまった。まず、翌日とにかく食べさそうと試みたのだが、全然なんにも手をつけない。やっぱり物の匂いが全然判らない様子だった。段ボール箱の中でくたっとしたきりでおしっこもしてくれない。 早速獣医へ連れいていくとまたビタミン剤を打たれて、「核酸」と、なんだか液状の薬を処方される。「全然食べない、ミルクも飲まない。」と言ったら、シリンジで猫用ミルクを作って飲ませなさい、一日最低4回は食べさせないと駄目、と言われた。体重を量ってもらうと、たったの350g。でも歯はしっかり生えていて、2ヶ月ぐらいの子猫に見える。 それからというもの、毎日朝5時に起きて、ミルクを作って、砕いた「核酸」の錠剤をそれに混ぜてシリンジでゆっくり飲ませていた。朝、仕事に行って、昼に帰宅してまたミルク作って、夕方に仕事から帰るとまた作って、そして夜寝る前にまたやって、とやっていた。おまけに、鼻の悪いせいで、どこがトイレだか全然わからない様子で、ミルクを飲みだしてからは、部屋の隅のほうへ行ってはちいさなお尻と尻尾をふるふるとやっている。 ペット用シートをどの部屋も四隅に敷いて仕事に行くことにする。一度は台所でミルクを作っている間に「ふるふる」が始まって、あわててひょいっとBillyをすくってもう一方の手のひらでお尻をカバーしながらトイレに連れいていこうとしたら、間に合わなくて、じゃーっと右手にやられたこともあった。 これじゃまるで赤ん坊そだててるような…。赤ん坊と違うのは、Billyは2週間もそれを続けたらよくなったというところだ。 親ばかというけれど、Billyがはじめて一人でトイレに行かれるようになったときと、初めて自分で缶フードが食べられるようになったときは、うれしくて、どちらもじーっと見つめながら、写真をぱちぱちと撮ってしまった。 今では、Billyは「何か大きな力」(Higher Power)が「あなたにはいま、この猫が必要なんです」と授けてくれた存在なんだろう、と、信じて疑わない。 そのころ自分の意思ではなくて、一人暮らしを始めたばかりだった。91年に母が亡くなり、95年には父が亡くなり、翌年の2月には弟が「一人暮らししたいから、アパートを借りた」と言う。親戚はなぜか、私たち兄弟の仲が悪いんじゃないかと思ったみたいだが、マシュウとマリラ・カスバートじゃあるまいし(笑)、弟が一人で住みたいのは健全だろう、と、私は思っていたし、今でもあれは正しいことだったと思う。しかしながら、あっという間に一人暮らしに追いやられた私には家ががらんどうに見えたし、それに我慢できなくてしょっちゅう出かけていたように思う。そして、Billyがつかわされた(笑)。 Billyを通じて、自分でも命を救うことが出来ることがわかったし、それによって、自分も精神的にとても救われたと思う。おまけにすっかり猫人間にされてしまった。 ところで、Billyは今は15ポンド半ぐらい、つまり7kgほどのでぶ猫である、これでも一時8kg近く行ったので、がんばってダイエットしたわけだが…。