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金曜。Anna様と韓国料理を食べに行く。
「Biteraskaは、実はカテゴライズしにくい人間だよねー。 「たとえば、この作家好きそう、とか、この女性に憧れてそう、とか。 他の女の子は「ああ、らしいよね」というのがあるのだけど、Bitteraskaにはそういう特徴がない。」 と言われ、思い返してみるに、そういえば「このひとに憧れてます」っていう作家いないよなーと思い、様々例をあげて探しているうちに、女流作家分析論へと発展。 自分のロールモデルかどうかという点はおいといて、わたし的に、ひじょーに気になる存在が内館牧子だ。 内館牧子という人は、『想い出にかわるまで』とか『都合のいい女』とか『週末婚』等のドロドロっぷりから見るに、相当の修羅場をくぐってきたことが推察される。ほんと、結婚制度とか全く信じてないし、牧子殿。 しかしながら、あのエッセイのときの軽妙な語り口が、イイ。非常にイイ。 こういうポジションを築いている人というのはちょっと見当たらない。 軽妙な語り口というだけなら、酒井順子とか群ようことかがいるし、女の情念というだけなら、林真理子御大がいる。静かなる情念では向田邦子様がいる。魔性系カッコイイ女を目指すなら山田詠美だし、ちょっと脳内ファンタジー入るなら江國香織か唯川恵だ。 小説家にはエッセイがつきものであるが、ここで多くの作家が、作品のイメージを大事にするあまりなのか、自らのスタンスを貫き通すという意思の表れか、エッセイにおいても作品と同じテイストで書いてしまうという間違いを犯す。 作品としては何を書いてもよい。なぜならそれは虚構だからだ。登場人物は自分自身の分身ではあるが、違う人物である。しかし、エッセイというのは、どうしても外見も経歴も含めた「その人自身」に引きずられてしまうもの。 そのため、女流作家の書くエッセイには、「おいおい。おめー、どれだけ自分のことイイ女だと思ってんだよ。」っていうツッコミ入りがち。林真理子がどんなにモテる女の振る舞い方を書いたとしても、「でも、あんたその顔で・・・」と思わないではいられないであろう。えらそうなことを書かれても許せるのは、向田邦子ぐらいなものだろうか。(そんな彼女に限って、作風と同じく、えらく謙虚だったりする。)あ、あと江國香織のファンタジーも許す。だって脳内ファンタジーを奪ったら死んじゃいそうなんだもん。ぜってー躁鬱病だとおもう、あの人。 さて、ところがです。内館牧子は、ドラマでのドロドロをエッセイでまるで感じさせないのだ。ドラマに出てくる女は執念深くて、情念系の女なのに、彼女自身は自分のことをブスでおばさんと笑い飛ばせる、そのギャップが小気味がよい。 一体、この違いは一体何なのであろうか。 そのバックグラウンドを勝手に想像してみよう。(ちなみに全くの推測) ちょっと才気はあるけど特に美人というわけではなかった内館牧子。新入社員のときに会社のおじさん(既婚)にひっかかったのが運のツキ。フツーのOLなんだからさっさと結婚してなくちゃいけなかったものを、10年ぐらいズルズル不倫をして修羅場をくぐった挙句に、最後にはまた若い子に乗り換えられたりして再び修羅場、気づいたら30をとっくに過ぎてて売れ残り。 「もうこのまま一人で一生を終え、死んでいくんだろうから、少なくとも食い扶持は確保せねば!」と思えど、時代趨勢は変わって、女子総合職とかが入ってきて、事務職は派遣社員に取って代わられるようになり、修羅場のこともあり、会社にも居場所がなくなり退社。 TV局のバイトで食いつなぐ、そんな状況の中、脚本家としてデビュー。 「人生大逆転のサヨナラホームラン。勝った!!」 と思ったことでしょう。自分を捨てた男に対しても会社や世間に対しても。 彼女は多分「売れっ子脚本家」である自分というのが、楽しくて嬉しくて仕方ないんだと思う。 だから、過去の自分のことなんか「ブスで、何のとりえもないOLだったのよ」と、いくらでも笑い飛ばせる。その裏には「でも今私は成功していて幸せなのよ!昔の会社のだれよりも!」という自信の表れを感じる。 けれど、林真理子は違う。20代前半でコピーライター、作家として認められ、「時代の先端をいく女」としてチヤホヤされてきた。彼女が持つ闇は、社会的成功では乗り越えられなかった「ブスの壁」。社会的成功を収めたブスという点は同じなのに、林真理子にねっとりとした情念が漂うのは、その乗り越えられていないコンプレックスのせいなのだろう。(でも、結婚・出産後は段々とねっとり度が落ち着いてきましたね) そして、話は更に発展する。(つづく) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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