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モラルに体当たり記

全515件 (515件中 1-10件目)

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April 3, 2010
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Last updated  April 4, 2010 01:04:00 AM
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October 18, 2006
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忙しい人の秘書なんていう仕事をしていると、
いろんな所からいろんな電話がかかってくる。

一日電話のやり取りで終わってしまうこともしばしば。

(これが来ないときはパッタリ来ないのだけど。不思議。)

で、しみじみ思うのだけど、何かを人にしてもらいたいのなら、態度って本当に重要だよなあああ。

言葉遣いとか、こちらへの気遣いとかがあって、
私の方も、できる限りご希望に添うようにしてあげたいと思う方もいれば、
「それが人にものを頼むときの態度か?!」と思い、もはや私のところで「申し訳ございませんが、ボスは今忙しいので」と断ってしまいたいと思うくらいの方もいる。
(いや、もちろん、それでもお取り次ぎしますけどw)

いきなり「○○だけど××いる?」みたいな電話でもOKなのは、仲良しさんや先輩、お世話になっている方などなのだけど、
そういう方々はこちらもよく存じ上げているし、また、そういう方々は大体においてボスの携帯を知っているので、あんまりオフィスの方に電話をかけてくることはない。

(しかし、むしろそういう人ほどこちらが恐縮したくなるくらい丁寧なのは一体どうしたことだろうか)

オフィスに電話をかけてきている時点で、絶対に断れない「しがらみ軍団」ではないことが多いわけで、とすると、あとは秘書の胸算用ひとつとなるわけである。(いや、もちろん全部お伝えしますけどw)

というわけで、秘書に好かれ、アポをできる限り早く取る方法。

1)秘書に対してであっても、態度は丁寧に
2)アポや依頼の内容と要望をできる限り詳しく伝える
3)どんな遠い方でも、できる限り仲介者を探して○○さんの紹介で~といった方がいい

案外(2)を嫌がり「内容はボスに直接お話しいたしたい」という態度の方が多いのだけど、その点は秘書を信用してもらわないと困る。

当人が電話なんぞイチイチしてられないから、秘書がいるんである。
しかも、当人にいくら説明したところで、当人は忙しすぎて、何を頼まれたかなんぞ全く覚えていないのである。

そこを締切直前に秘書が「これをやってください」とプッシュするのだから、秘書に内容(と〆切日)をわかっていてもらう方が、絶対ぬかりはない。

スケジュールだって、本人だったら断るところでも、秘書が「この人のアポを入れてあげたい」と思えば、ちょっと無理矢理に入れちゃうこともできるのである。

将を射んとせばまず馬を射よ。

人間関係は気遣いなのである。






Last updated  October 28, 2006 02:20:05 AM
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July 31, 2006
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今日、今後の進路の相談で、久しぶりに、
大学学部時代のゼミの教授にお会いした。

(ていうか、先日、推薦状を書いてもらいに行ったら、
別途わざわざ時間を設けて頂くことになり、それが本日。
「今後の人生をどうするつもりかについて話し合う必要アリ」
と判断されたらしい。かなり心配をかけていると思われる。)

さて、J先生は学者らしく、物事の表面に惑わされないで、
すこーんと、核心に切り込んでくる。

大体においてその切り込み方は、
超核心だが普段全く考えていない方向から、来る。

本日も、「で、これからどうするの?」という話が始まって、
私がいかに口に糊するかというところで悩んでるんです、
と切り出したところ、そっこー、

「いや、そんなことはどうでもいいんであってさ」
と、その問題は一蹴。

「明日死ぬかもしれないわけですから、
そこのところ考えて、何をしていたら
道半ばで死んでも自分で納得できるかを考えなきゃ」

と、一気に生き死にの話に。

(>ゼミの皆さま、いかにもJ先生っぽいでしょ(笑?
 ぜひあの口調を思い出しながら読んでください。)

しかし、最近過労死で死んだというゼミ生(私たちの3つ上らしい)の話とかを聞くと、
確かに「明日死んでも後悔しない」というのは大事なことかもしれないと思う。

そして、帰ってきたら、たまたま、こんな記事を目にする。
http://www.rankado.co.jp/data-base/0000/2000-7-18.html

>「西村君、僕は今、君の後ろで斧(おの)を持って立っているんだよ。この斧で君の頭を打てば君は死ぬんだよ。君が死ねばその作品が君の遺作になるんだよ。それでいいのかい」。

うわーん、シンクロニシティ。
神さまも「よーく考えなさい」って言ってるんだろう。

にしても、先生、「道半ばで死んでも」って・・・。
縁起悪すぎです(苦笑)!


追記)
なんでそんな話になったのかわからないのですが、
夏休み(9月末まで)の間、
先生の秘書業務をすることになりました。

ゼミ生の皆さま、先生のところに用事があれば、
私が懇切丁寧に対応いたしますので、ぜひお越しください。






Last updated  August 1, 2006 04:04:58 AM
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もう何ヶ月も前から予約していた音楽座ミュージカル『泣かないで』。

わが愛する遠藤周作の『私が・棄てた・女』が原作のミュージカルである。
『星の王子様』しか観たことないけど、音楽座のミュージカルは音楽も割とよかった覚えがある。
しかも、十数年前、この舞台を見た遠藤周作本人が「このミツ(本作の主人公で、周作の色んな作品に出てくるひと。周作が思い入れの深い登場人物)は自分の思ったとおりのミツ」って言っていたそうである。
そりゃ行くでしょ!

さて、問題は誰と行くかである。
私は一人で舞台や映画を見るのがあまり好きではない。
やっぱり終わった後に感動を誰かと分かち合いたいのである。

目に留まったのが、遠藤周作作品をほぼ読んでいるというマイミクA嬢。
実はお会いしたことがないのだが、前からお会いしたいと思っていた。
これはお会いするのにぴったりの機会では? と考え、お誘いしたところ快諾いただく。

わーい。
私は頭のいいちょっと毒のある美人さんが大好きなのである。
頭がよくてちょっと毒があるのは日記を読んでいればわかるし、
美人さんだとは共通の友人から聞いている。
ウキウキ。
これで、終演後、周作話・舞台話に話が咲くにちがいない。

さて当日。
会場前でお会いし、滞りなく開演する。

が、しかし。

終演後のふたり。
私:「・・・・・」
A嬢:「・・・・・」

いや、日本のミュージカルにしては、踊りも歌も頑張ってたよ。(それでも微妙だが)
悪くなかったよ、悪くはなかった。

でもさ、でもさあっ!!!その脚本はないだろー!
あの話の中で、一番大事な部分が、ものすごく端折られてるんですけど!
前半のどうでもいい部分に異常に時間をかけているのはまだ許せるとしても、
「さあっ、ここから周作の周作たるゆえん。周作のメインテーマ(愛とは何か、神とは何か)であり、泣き所だ!」
って準備したら、そこがものすごくあっさり流されて、舞台、終わっちゃったんですけど!!
え?え?ええええっっ!!これで終わり?
その時間配分、完全に間違ってるだろ?!

あのね、『私が・棄てた・女』って、ものすごく泣ける話なんですよ。
俺、いっつも号泣ですよ。
なのに、この舞台ときたら、「うるっ」って来たと思ったら、終わっちゃうんだもん。

おおい、あの大事な、シスターの葛藤は?!
ミツのやりきれない現世での切なさは?!
人はいつどんなときに神を必要とし、
そして、神はどのように人に答えるかっていう話が、
まるまる、すぽっとぬけてるんだよーーーーう。
そこ取ったら、遠藤周作じゃないじゃん!

てなわけで、私とA嬢、ぽかーーん。。。。

申し訳程度に拍手して、食事へ移動。
毒トークを繰り広げる。
ああ、本日の収穫は、A嬢とお知り合いになれたことだけであった。
次は、ブロードウェイかバレエでもいきましょう!>A嬢

家に帰って、周作とV.フランクルを読み返す。
ああ、やっぱりいいなあ。

私は品性を大事にしているし、
最近話題の『国家の品格』なんてのも確かに重要なものだと思うけれど、
人間にといって本当に大事なものは、こういう優しさだ。

決して強さだけではない。
むしろ弱さの中に、消えそうな輝きできらめくようなもの。
でも、それだけが、人間が弱いだけの、卑しいだけの存在ではないと、教えてくれる。






Last updated  August 1, 2006 04:03:04 AM
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June 11, 2006
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いまだに数多くの議論を生んでいるダーウィン・進化論。

その議論のひとつとして、
「進化論は歴史教育や道徳教育にマイナス」
というものがある。

産経新聞からその種の議論について、ある記事の一部を抜粋してみよう。

================================================
進化論偏向は道徳教育にマイナス 日本の識者も主張

 「人間の祖先はサルだという教育は、生物の授業の仮説ならともかく歴史教育や道徳教育にはマイナスだ」「進化論はマルクス主義と同じ唯物論であり、人間の尊厳を重視した教育を行うべきだ」という議論は日本でも多くの識者から主張されてきた。

 マルクス主義の影響を最も強く受けているとされる日本書籍の中学歴史教科書は平成十三年度使用版まで、見開き二ページを使ってダーウィンの進化論と旧約聖書の創世記、戦前の歴史教科書の日本神話を対比させて聖書や神話を否定的に受け止めるよう誘導していた。

 このような教育に対し、日本神話の再評価を訴えている作家・日本画家の出雲井晶さんは「道徳の上では人間は人間、獣は獣。人間を獣の次元に落とす進化論偏向教育が子供たちを野蛮にしている。誰が日本人を作ったのかというロマンを教えるべきだ」と話す。

 中川八洋筑波大教授は著書『正統の哲学 異端の思想』でダーウィンを批判。創造論、進化論の双方が非科学的だとしても「文明の政治社会の人間の祖先として『神の創造した人間』という非科学的な神話は人間をより高貴なものへと発展させる自覚と責任をわれわれに与えるが、『サルの子孫』という非科学的な神話(神学)は、人間の人間としての自己否定を促しその退行や動物化を正当化する」と論じている。

(ソース)
http://www.sankei.co.jp/databox/kyoiku/etc/050926etc.html
================================================

うーむ。
私自身の感覚では、人間の祖先がサルってむしろ感動的だけどな。
サルどころか、アメーバだったりするんだよ?
それがこんなになるなんて、鳥肌が立つほど感動できる。

私たちの祖先がアメーバやサルだったりするほうが、
よっぽど、子どもたちに夢と希望を与えないか。

だってそれは、私たちが過去の限界を、
乗り越えることが出来る、ということを意味するからだ。

今は絶対に乗り越えられない限界に思えるものでも、
そのパラダイムを乗り越えることが出来る。

空を飛びたいと強く強く願う集団があれば、
何百万年後かに、羽が生えた人間が登場するかもしれない。
(それを人、と呼ぶかどうかは別として)

今それぞれの人が抱えている個人的問題や、
貧困・暴力・差別といった社会的問題だって、
なんか解決可能な気がしてくる。

だって、アメーバから人まで進化したんだから、
それに比べれば、ねえ。

そっちのほうがずうっとロマンがあるし、
人間の可能性を信じれることになる気がする。

ついでに、上記本文には、

>『神の創造した人間』という非科学的な神話は
>人間をより高貴なものへと発展させる自覚と責任を
>われわれに与える

とあるけれど、

神話って、結構ミもフタもない話のオンパレードで、
私なんか神話を読むと、がっくりきちゃうこと多い。

日本国を産んだイザナミとイザナギの話なんて、
もう、トホホもいいところだ。

知らない方のためにあらすじを追うと、
愛する妻・イザナミを取り戻すため黄泉の国まで行ったイザナギ。

イザナミが、黄泉の国の王と相談してる間、
「絶対見ないでください」と言われる。

にもかかわらず、イザナミはその相談が終わるのを待ちきれず、
「ダメ」と言われてるにもかかわらず、覗いちゃうんである。

そこにあったのはウジがわいて雷神がまとわりつくイザナミの姿。
(当たり前だ、死んでで腐ってるんだから。)

そしたら、それに驚いたイザナミは、妻から逃げ出すんである!

おい、逃げんなよ!イザナギ!!!!!!

追いかけるイザナミであるが、イザナギはなんとか振り切る。

でもって、最後には現世に帰ってこられないよう、
あの世とこの世の入り口をでっかい岩でふさいでしまう。

そこで、あの世側に残されたイザナミが、腹いせに、
「お前の国の人間を一日1000人殺してやる」
と言って(神のくせに、大人気ない・・・)、

イザナギもイザナギで、謝ればいいものを売り言葉に買い言葉、
「だったら、一日1500人産ませるからいいもんねー」
と言い返したわけで(さらに、大人気ない・・・)、

つまり、これが日本人の死の起源、
この痴話喧嘩によって、日本人は死ぬことになったんである。

こんな二人が、「日本人の起源」である。


・・・・ねぇ、この話のどこが、
「誰が日本人を作ったのかというロマン」
「人間をより高貴なものへと発展させる自覚と責任をわれわれに与える」
話なわけ???

ある意味人間のトホホっぷりを突いてて面白いとは思うけど、
でもこれこそ「道徳教育上」問題じゃないの(w?

誤解してほしくないのだけど、
私は決して進化論が正しいとか、聖書や神話は嘘だとか
言ってるわけじゃない。

でも、聖書や神話には間違いなく
「ロマン」や「高貴さへの自覚と責任」という要素とは
相反するものが存在する。

上記のような論者は、本当は
「人は神に選ばれた生物である」という「選民思想」
を言いたいんでしょ?

だったら、「ロマン」とか、耳触りのいい言葉を使わずに、
ズバッとそう書けばいいのに。

ま、私は「だってそもそも俺はお前たちとは違うんだから」
って感じで、自らの優越を示そうという精神こそ、
限りなく貧しいと思うけどね。






Last updated  June 12, 2006 01:11:19 AM
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May 17, 2006
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コメントを書いてて『他者』の理解、について考える。

(『他者』の定義は、諸説入り乱れなのでここでは厳密に言わない。)

人は、自分以外の(もしかすると自分自身も含めた)『他者』とは絶対的な断絶がある。
どんなに手を伸ばしても届かない断絶がある。

母の胎内にいるとき、母は『自己と同一の他者』である。
しかし、人は、母の胎内から出て母と切り離さた瞬間、『自己と同一の他者』を永遠に失う。

そして人が出会うのは、『自己をわかってくれない他者』である。
(そりゃそうだ。なんたって胎内にいるときは、『おなかすいた』と胎児が思ったら、それが自動的に伝わって、母親がご飯を食べるのである。そのような自動性は、母親と赤ん坊になった瞬間に絶たれる。)

赤ん坊が泣くのは、不快なときである。
そして泣かない赤ん坊はいないという事実は、赤ん坊が生まれてからすぐに『自分の欲求が(自動的に)伝わらないことによる不快』という現実に、何度も何度も向き合っていることを示す。

そのような出会いによる、絶対的な絶望と断絶感から、人生、すなわち自我の発達が始まる・・・
(とかいう話をどこかで読んだ気がするけど、これって何ていうんだっけ?)

とにかく、『自分を完全に理解してくれる他者/他者を完全に理解する自分』というのは、生まれ落ちた瞬間に絶たれた夢である。

にもかかわらず、『自己を理解してもらいたい』『他者を理解したい』という欲望は、生れ落ちた瞬間に、(絶たれたがゆえに)人が希求してやまない夢である。

『他者』と『自己』は、惑星と衛星の関係に似ている。
惑星が自己の意思でその軌道を変えて、衛星に触ることができないように、私たちは『他者』というものに、直接触れることはできない。
(そりゃそうだ、直接触れたら、惑星と衛星じゃなくなっちゃう。)

では、そのような『他者』との絶対的な断絶を、どのように乗り越えればいいのか。

思うに、私たちは、
相手と自分の間に感じる「わかった気がする」部分と「わからない」部分について、
「何がどう違うのか」「何をもってわかった(気がした)と感じたのか」という感触を、
丁寧にきちんと言葉を尽くして記していくような気の遠くなる作業と、
それをインタラクティブに行うことによって生じる膨大なコミュニケーションを共有することによってのみ、
私たちは、理解したいけれど理解しえない『他者』に少し近づけるのだと思う。
(正確に言えば、近づいたという幻想を抱ける、かな?)

その『理解』は、惑星と周りをくるくると回る衛星の間の理解である。
その間にはブラックホールがあって、惑星と衛星にいる私たちは、お互いを行き来することはできない。

だから、私たちは、『他者』を観察するのみである。
惑星の住民の望遠鏡の精度が悪いせいで、衛星の地表は全然見えないかもしれない。
衛星の住民は太陽の関係で、1年のうち半分の惑星の状況を見えないかもしれない。

だから、『他者』とのコミュニケーションにおいて、
「てめーのみてる俺は本当の俺じゃねぇよ」
「貴方は私を何にもわかってない」
という感覚がいつまでもつきまとうことは、最初からの必定である。
だって、『他者』はそもそも『理解しあえない人』なんだから。

重要なのは、『相手を見たい』という気持ちと、『相手を見てみた』という行動である。

『他者』とのコミュニケーションの目的とは、他者を理解することではない。
『他者』とのコミュニケーションそのものである。

だから、どのような形であっても、『他者』とはコミュニケーションをとることが、取らないことよりもよいのである。

そして、そのコミュニケーションは、簡単でないほうがいいのである。
だって、簡単だったら、すぐコミュニケーションが終わっちゃうでしょ?

『自己』と『他者』とを結ぶものは、『このひととこれだけの量をコミュニケーションした』という量的なものだけである。
極論してしまえば、そのコミュニケーションの中身はどうでもいい。
共感や理解が全くないコミュニケーションだって、コミュニケーションがないよりましなのだ。
繰り返すが、重要なものは『コミュニケーションの量』なのである。

へええええ、そうだったのか。書いてるうちにこんな話になっちゃったよ。すげえ。

なのでみなさん、大事な『他者』とは、とにかくコミュニケーションをとるように。
たとえ、そこに理解や共感が全くなくても(うっわー、ブラック・・・)。

ちなみに、そのような作業によってのみ、『自己という他者』についても、少し近づくことができるので、一挙両得ではないかと思うのだが、『自己の他者性』については、書くとまた長くなるのでこのへんで。






Last updated  May 18, 2006 01:40:33 AM
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May 15, 2006
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『誇り』は自己の業績に対して抱くものであり、人の業績に対して抱くのはおかしいのではないか、という私の意見に対して、非常に興味深い意見をいただいた。

一番興味深かったのは、ある共同体の出身者の業績を自身に転化することにより(もしくは、その業績への貢献を自身を投影することにより)、自己の価値を見つめなおす、という論である。

少し抜粋すると、
『(前略)ワールドカップのサッカーで日本が勝てば嬉しくて誇らしい。WBCで日本のチームが勝てば嬉しくて誇らしい。何も関係ないけど、同じ共同体から誰かが成功すれば嬉しくて誇らしい。
人は人の成功体験を分かち合って自分の物として同化する。誰かの成功を自分の心の糧として取り入れる。それが自信となりさらなる成功の糧となる。人を祝福することから、有形無形、何か自分もその成功に寄与できたのかもしれないと思い、自分の価値を見つめなおす。(中略)
個人的には彼氏のことを誇りに思っても、全然関係ない監督を誇っても、何一つ問題ないしおかしくもないと思う。っつーか、問題と思う方がどうかと思う。誇ることが自分の心の糧になるなら誇ればいい。そのことで自信が付いて次へ進めるなら誇ればいい。』

少しと言ってながくなってしまったけど、このような意見は、彼のみならず、今までも数人の人から聞いたことがある。

彼らは、「郷土」や「国家」に対する誇りを「自分が存在するというだけで、自分の存在には価値がある」と人が認識するための装置として捉えている。それが、「家」だろうと「国家」だろうと、役に立つし、役に立つならいいじゃないか、と言っている(のだと思う)。

さて、翻って考えるに、「誇り」というものを持つには、今の現代日本の中では、自分という個人にその源泉があることが、一番明らかなやり方である。

個人というものを基本単位に設計され構成されている現代日本では、「家」や「地域」や「国家」は、周辺である。
そしてその周辺度は、彼らのいうように、個人→家→地域→国家となればなるほど強くなる(つまり、自己との関連性が低くなる)。

周辺にあるはずの国家に対して、誇りの問題が大きく取りざたされるようになってきているということは、逆に考えてみると、より中心的な「個人」「家」「会社」などといったところへの誇りが持てなくなってきていることの兆候ではないか。

なぜなら、より中心的な部分で誇りを持っていれば、より周辺への誇りなど、殊更取り立てて言う必要のないことであるからである。

逆に、そのような周辺への誇りは、周辺であるがゆえに、「殊更取り立てて言う」必要が出てくる。誇りの密度が薄いからである。
密度が薄いものとの関連を、自己及び他者に承認させるには、「強く」「何度も」「声高に」言う必要が出てくる。

つまり、昨今の愛国心問題とか国の誇り問題は、より近い部分での誇りをもてなくなっているということを、暗喩しているものだと考えることができる。

とはいえ、「自分は存在するだけで価値がある」ということを知るのに、「日本人だから」なんて周辺にまでいかなくてはいけないという部分に、私はやはり違和感を覚える。

もちろん、それはきっかけとしてはいいのかもしれない。

ただ、そのような周辺への誇りは、常に、その集団以外への抑圧や蔑みに転化しやすいという危険性がある。
(自己への誇りの場合、その危険性はかなり小さい。だって、「俺ってすげえ。あいつらはアホだ」という態度は、大体まわりから嫌な奴って思われるし、そうなると、多勢に無勢だから分が悪い。
逆に言えば、その危険性は、周辺が広がれば広がるだけ高まる。)

そして、何より、一番の問題は、そのような誇りは、彼らが満足できる誇りの形には到達しえないということである。

ちょっともう眠いので、説明は省くけど、
たとえば、それは、売りに出されるときは「美人女優」であった人でも、そのうち「演技ができる」ことを証明しようとするように、
結局は、誇りにしたって、「自己の実績」を得ないことには、その「誇りへの欲求」を満足させることはできないのではないか。

だったら、最初から、「自己の実績」を積み重ねる方向にエネルギーを向けた方が、効率がよいと私は思うのだが、どうだろう。

ちなみに、彼からはもうひとつ、
>『私が「日本を誇りに思わない」のが理にかなっている』と思うのは全然かまわないけど、
>それを堂々と宣言してしまうのはかなり病んでて頭おかしく聞こえるから
>気をつけた方がいいと思うのは余計なお世話か。

とご忠告を頂きましたが、日本と私の関係をいうなら、「私が日本を誇りに思う」んじゃなくて、
「日本が私を誇りに思う」ような関係のほうが、私はいいな。
そっちのほうが、ずっと気分がいいもの。やっぱり。

でもって、「まつおあすかの価値観世界」の中では、もう既に
(日本はほんとに私を誇っていいよなあ、こんな素敵な国民がいてよかったね)
と思ってるんだけど、
残念ながらそれは「まつおあすかの価値観世界」の中だけであって、たぶん他の人にはあんまり受け入れられない。(それこそ頭おかしいと思われる)

なので、そんなこと言っても「まあ、そうかもね」とそれなりに納得してもらえる、実績なり能力なりを獲得していくしかないのですな。
ふぅ。がんばろうっと。






Last updated  May 15, 2006 05:56:16 AM
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May 5, 2006
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なんでも教育基本法に「愛国心」とかいう言葉が盛り込まれるかどうかが、
議論になっているようだ。

愛国心の議論の中で、ひとつ、私がどうしても理解できない感覚が、
「日本を誇りに思う」
という言葉、もしくはその感覚である。

私は、日本という国は、とっても素晴らしい国だと思う。
戦争してないし、水と安全はタダだし、不況とはいえ食うには困らない。
日本文化も本当に奥深くて、その美や精神は私の心を捉えて離さない。

じゃあ、だからといって、
「日本は私の誇りです」
と思うかというと、それはない。全然ない。

逆に「日本は私の誇りです」という人々の感覚を私は全く理解できないし、
そんな発言を聞くと、恥ずかしくて妙に居心地悪くなってしまう。

それはなぜか。
まず、話を「誇りとは何ぞや」という根本的なところに戻してみたい。

誇りとは何ぞや。
私の考えでは、誇りとは、自身の成し遂げたこと(もしくはその過程)に対して持つものである。
家柄がいいとか、(家が)金持ちだとか、そういうのは誇りとは呼ばない。
だって、「自分が元から持っているものを誇ることは、恥ずかしいこと。」だからだ。
私たちは、家が金持ちとか名門だとかいう理由で人が威張ってたりすると、その人たちを、バカにする。
それは、その人が、たまたまそこに生まれたということだけであって、その人が努力して手に入れたものではないからなのである。

さて、翻って、「日本を誇りに思う」人たちに、「日本の何を誇りに思うのか」ということを聞いてみると、
歴史的な文化、奇跡的な戦後復興、最近で言えばWBCでの世界一などなど。
私が不思議なのは、それを誇りに思う人々は、多くの場合、「それを作った人々ではない」ということだ。

私が日本人なのは、「たまたまそこに生まれた」という所与のものであって、
私が努力して得たものではない。
たまたま生まれた国の文化が素晴らしかったり、その国が世界一を成し遂げたとしても、
私がそれに貢献したわけではない。
なのに、どうしてそのような「他人の業績」を「自分の誇り」にすることができるのか。

前に友達からこんな話を聞いたことがある。
ある女性が、片思いの相手について「彼は私の誇りなの」といったのを聞いて、
その友達はぶったまげたそうだ。

しかし、その友達も、ある大好きな映画監督に対し、
「彼と同じ日本人であることを誇りに思う」ということを言っていた。

このふたつの発言は、「人の業績を自分の誇りにする」という点において、
同じようにおかしい。
けれど、前者の発言は、瞬間的に「そりゃーおかしいだろ」と思うのに対し、
後者の発言はそんなにおかしいとは感じられない。

個人の間では、「そりゃーおかしいだろ」と思うことが、
どうして国の話を経由されると、「ぜんぜんおかしくない話」になってしまうのか。
ここに「国家」「愛国心」のマジックがある。

(これはこれで、すごい考察に値する面白い話だけれど、本筋から離れてしまうので、
これはおいといて、話を戻そう。)

とにかく、きちんと考えてみると、
「その業績に貢献してない人間が、それを誇りに思うなんておかしい」
はずなんである。

とすると、私が「日本を誇りに思わない」のは、全く理にかなっている。
なぜなら、私が、その「世界に誇れる日本の素晴らしさ」を作ったわけではないからだ。
(私がしている貢献といえば、インフラのために税金払って、安全のために犯罪に加担しないで、景気のために消費しているくらいだ。)
それを、私が「日本を誇りに思う」など、おこがましいにもほどがあるじゃないか。

それでは、よく「誇り」といわれている(間違って使われている)、
私たちを育むこの日本という環境に対して持つ感情は、何か。
私は、それは、「感謝」なのだと思う。

「こんな日本を作ってくれてありがとう」という先人への感謝、
「こんな日本に生まれさせてくれてありがとう」という神様への感謝。

「日本人の誇りを取り戻せ」とか言うけれど、まったくナンセンスだ。
誇りとは、所与としてあるものではない。
取り戻すようなものではなく、作るものである。

誰かが作った日本の価値を誇りに思うのではなく、
「いやあ、やっと私も、日本の誇りと呼べるような仕事ができました」
というような形の「誇りのあり方」のほうが、私は好きだ。

・・・て書いてて気づく。これって、ケネディが言ってることじゃん。
「国が私に何をしてくれるかじゃなくて、私が国のために何ができるか」
いやあ、ケネディ、さすがだなあ。






Last updated  May 5, 2006 04:11:19 PM
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March 24, 2006
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今(さらながら)、 フロイト『精神分析入門』を読んでいます。

でもって、さらに今更ていうか、当たり前の発見なんですが、が、
この本ね・・・これね、読むのすっごく怖いよーーーーーー(泣)。

なぜかっていうと、この本で語られている事例と分析手法に、
自分に当てはめて考えてみるとですね、
すると・・・・・・・・。

うわあああああ△×■○▲×!!!

あの時のあの行動にこんな意味があったのか!
この行動ってもしやこんな心理を反映してる?!
ってなことがいっぱいなんです。

しかも、それはあたってるんです!

なぜって、『なぜそこまで断言できる?』って尋ねたくなる位、
(ていうか本書内でもフロイト先生ご自身で質問されていますが)
フロイト先生ってば、自信たっぷりに、
『だって、そうなのです。』って断言してるんですもの。
ついでに、何十ページもの論証がついてくるんですもの。

20世紀の知の巨人、フロイト先生の論証力にかかれば、
私など赤子のようなもの。
たやすくフロイト先生の論証にはまってしまいます。

例えばですね、分析された結果に対して『そうではない』と
否定する行為そのものが、 その結果が正しいということを証明している、
なんてこと言われちゃうと、もうどうにも逃げ道がなく、
信じないわけにはいかなくなるじゃないですか。
きゃーーーーーん!!!

ちなみに出た分析結果に関してですが、
内心があまりに美しくないことが判明したので、
ここには詳しくは書きません。ていうか、書けません(涙)。

『ああ、(やっぱり)美しくない心の持ち主なんだな』と、
(再)認識していただく程度でよろしいかと。

なお、「あまり」美しくないではなく、
「あまりに」美しくないと一応認識している点に注意。

だって、フロイト先生によると、書き間違い・言い間違いは
本人が否定したがっているが内心強く望んでいる心理を表すんですよ。

私は意識して「あまりに」と使ったのですが、
ここで私が間違えて「あまりに」という言葉を使ったのだとしても、
内心ではやっぱり「あまりに美しくない」と強く思っているいうわけで、
とにかく意識してようとしてまいと、どうしたって俺の心は、
「あまり美しくない」ではなく、「あまりに美しくない」になるんです。

ああまたしてもフロイト・トラップにはまってしまった。
恐るべし、フロイト・トラップ!!

フロイト先生の本は、精神分析分野で使うよりも、
相手に絶対ひとつの答えしか与えないネゴ法とか、
そんな授業で教科書として使ったほうがいいのではないでしょうか・・・。






Last updated  March 25, 2006 01:04:00 AM
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March 14, 2006
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人間というのは、本当に身勝手で独善的な生き物だ。

他人がどれほど身勝手で独善的でも、「まあ、そういう人もいるよね」というので片付けられるけど、自分の中の身勝手さや独善さに気づいたときというのは、本当に愕然とする。

そういうのを気づくきっかけって、たとえば、「この人は私にプライオリティをおいてくれてるに違いない」と思っている人が、あんまり構ってくれなかったりするとか、すごく些細なことだったりするのだけれど、この例で言えば、「この人は私を大事にしてくれる」という勝手な思い込みをしている自分の見通しの甘さと、そういう些細なことに我慢がならない自分の器の小ささに、ほんとにびっくりする。

いきなり自分語りになるけど、私は、他人の悪意には耐えられるし対抗もできるけど、自分の悪意には耐えられないという精神構造をしている。
悪意、ということばでいうとあれだけど、つまりはダークサイド。

とはいえ、私も普通の人間だから、色々な悪意や独善や嫉妬は自分の中に抱えているし、時にはそれが噴出することもあるし、ダークサイド全開で人を利用したらもっと人生うまくいくかもなーと思ったりはするのだけど、やっぱりそのダークサイドをコントロールできるだけの理性を持ち合わせていたいと思う。(って、俺はジェダイか?!)

なぜなら、私は、人とは、自分にとって利用価値があるかどうかという判断や、嫉妬とかの感情を超えて、信頼とか愛情とかで結ばれていたいから。
(うおおう、俺ってばいまだに青春真っ只中だな。はずかしいな。)

でも、こういうことを思えるのは、私が、そういう「自分の中の悪意を理性で乗り越えている友人」をまわりに持っているからだとおもう。
いや、君たちが悪意orientedな人、といってるわけじゃないよ(笑。>友よ。

でも、自分の中の悪意を全く感じなくて正論しか言えないような人であれば、そんな人はつまらない。(と、君たちも思っているはずだw)
だけれども、悪意と欲望に身を任せているような人にはなりたくないし、いたとしても(実際よくいるけど)もちろん怖すぎなのでお近づきになりたくない。

でも、たとえ今、こんなことを思っていても、ダークサイドグループに自分がいたらきっと「損してる」って思って苦しくて、「朱に交われば赤くなる」という通り、ふつうにダークサイドに堕ちていくんじゃないかなあ。

しかしながら、私がダークサイドに落ちても、間違いなくパルパティーンや、アナキンレベルのシスになることはなくて、せいぜいドゥークー伯爵レベルなわけです。使い捨てされて終わるわけです。

だったら私はジェダイでいたいしジェダイとしてまっとうに死にたい。
でも、私みたいなココロの弱い人がジェダイでいるためには、ジェダイ・スピリットなサークルにいて、ジェダイな人たちと交わることはとっても重要。

確かに実生活ではポリティックスも重要だし、うまくやってすごくはやく「あがり」を勝ち取る人はいるけれども、まっとうに努力して、地道に成果を出していれば、それを見ている人は必ずいる(・・・と私の人生の先生が何人もそう言うからそうなんじゃないかな。そう信じたいな)。

・ ・・ってゆうようなことを、一年に一回は書いてる気がする。
まあ、俺も修行がまだまだなアプレンティスってことです。
あー、はやく一人前のジェダイ・ナイト、ジェダイ・マスターになって、こころ穏やかに生きていきたい。






Last updated  March 14, 2006 07:07:57 PM
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