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モラルに体当たり記

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考えごと

March 12, 2008
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カテゴリ:考えごと
友人にOさんという編集者がいる。

彼は、ある出版社に長らくいたが、
「自分の面白いと思える仕事をしたい!そういう本を作りたい!」と、
昨年だろうか、フリーになった。

そしてその後、ここならやりたい仕事、面白いと思える仕事ができる!
と思えたと言って、ある設立間もない出版社Mに入った。

そのOさんが編集に携わった本が出版されるという。
かなりワクワクして、その本の案内を待っていた私。

しかし、その本は、いわゆるビジネス書、
「成功本(成功した会社の本)」であった。。。。

「なんら問題でも?」とこれを読んでる人は思うかもしれないけれど、
私的には、ビジネス書って、聞いただけでなんか買う気をなくす。

ビジネス的には当たり前のことだとは思うけれど、
「当たり前を疑う」という学問に従事している身としては、

「成功本」「自伝本」(及び経営系の本の多く)は、
ビジネスの拡大と金銭的な成功を、
全く疑うことなく「成功」の定義として自明視していることへの疑問と、
さらに「俺ってすげ~だろ~」的な自己顕示を感じてしまうため、
私があまり手を出さない分野。

「成功本」は、毎年毎年たくさん出ているけれど、
会社が変わるだけで内容ほとんど同じじゃん。
はっきり言って、知的刺激がないので読んだとしてもポイ捨て。

(でもこれって皆そうなんだと思う。明らかに「成功本」は
ブックオフでの平積み率と100円率が高いもん)

そんなわけで、いくら友人Oさんが編集したといってもな~、
買ってあげたいけど、成功本に何千円か出すなら、
ほかに買いたい本いくらでもあるし・・・、

という思いと、

でも、Oさんが夢を持って入った会社とはいえ、
そこは設立間もない弱小出版社M。
「ま、やっぱり経営的にはそういう本にも手を出さないと
やっていけないんだろうな~」という推測もあり、
だったらやっぱり買ってあげないと!

という気持ちもあり。

買おうかな、どうしようかな~~、と思っていた。

で、ここからが、やっと本題なのだが!!!!

先日、彼が、日記に「その本を読んだ本屋さんから来た感想文」(*)を
アップしており、
それを読んで、私は「ああ、この本、やっぱり買おう!」と思った。

そう思ったのは、その感想が「この本の内容はとてもいい」
というものだったからではない。

本の内容如何ではなくて、感想に
「この会社の本を、出版社M(ひいてはOさん)が出すという
理由がわかった!」
と書いてあったからだ。

ああ、この会社(出版社M)は、今、
着実にブランドを築いていっているのだなあ、と感じた。

商品に込められた「思い」は、商品が直接語りかけるものではない。
しかし、そこにあるものは、やっぱり「伝わる」のだ。

そして、いくつもの商品を貫いている「思い」や「こだわり」も、
やっぱり何を言わなくても、伝わっていくのだと思う。

ブランドを作ることは、最初はビジネス的には厳しいかもしれない。
けれど、私としては、ブランドを築いていってほしいと思う。

M社から出ている本であれば、絶対面白いから買おう!
と、私がパブロフの犬的に思うようになるまで。

応援してます!

てことで、皆様、『謎の会社、世界を変える』ミシマ社
買ってね。
(感想文は内容も褒めてたよ!!!いわゆるビジネス書と毛色を異にするらしいっす)






Last updated  March 13, 2008 09:22:25 PM
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March 10, 2008
カテゴリ:考えごと
大学院に行って良かったことのうちのひとつは、
「複雑なものを複雑なまま理解する」ことの大切さを学んだことだ。

世の中では、「AかBか」「黒か白か」という二者択一を迫られ、
そのどちらかを潔く選ぶことが、はっきりしていてぶれずにカッコいい!
と思われるふしがあるように思うが
(実際自分も過去そうおもってきたし、そう振舞ってきたこともあったが)

現実の世の中っていうのは、ほとんどの場合、
二者択一でぶった切れるようなもんじゃなくて、
すごく複雑な相互作用の中にあるのだと思う。

たとえば、
不倫している友達に、「それは悪いことだよ」というのは正論だし簡単だが、
でも、そこには、相手が「別れることを前提に」という話をしているとか、
「自分でもやめたいけれど好きな気持ちはやめられない。
むしろやめられる方法を教えてほしい」とか、
一言では言い切れない様々な事情が働いている。

何事においても、その分野で初心者のうちは、
「正解」を覚えていくことが、その分野での一定の知識を身につけていくうえで必要である。

でも、その分野に詳しくなっていくにつれ、人はだんだんと、
「正解のない世界」に入っていくのだと思う。
すなわち、「自分なりの正解」を出していく過程へと入っていくのだ。

そのときに重要なリテラシーとなるのが
「複雑な物事を複雑なまま理解する」という能力でないかと思うのだ。

それは「正しい/間違っている」の二者択一的な議論とは相容れない。
様々な人の、様々な利害と様々な考えは、それぞれの人の立場から見て正しいからだ。
そして相手の立場は、それぞれの立場から見て「間違っている」。

つまり、通常、ある物事は、Aという側面から見たら正しいが、
Bという側面から見たら間違っている、
そしてまたCという面から見たら・・・・というように、
多面性を持っている。

ほとんどの場合、すべての物事は、複数の人の利害を含むし、
その利害が一致することはまずない。

そのなかで、二者択一的な論理を持ち出すのはとても危険である。

議論が建設的な方向にいかない時というのは、
このように利害の対立が起きてしまったときに、
誰が「最も」正しいかという議論に走ってしまうためである。
(残念ことに、日本の政治はこのレベルだと思うけど)

「誰が最も正しいか」を話しても無駄である。
だって、それぞれの人の立場から、それは「最も」正しいことなんだから。

だから、利害や意見が対立したとき、重要なのは、
二者択一的に答えを見出すことではなくて、
まずは、複雑な状況を複雑な状況のまま理解する、ということであろう。

これは答えを出すなということではない。

ただ、少なくとも、状況を二者択一的な理解をするよりも、
複雑な状況をきちんとつかんでそれを理解するほうが、
よっぽど現実に即して、多くの人を救えることが多いはずだ。

もちろん、ずっと労力がかかり大変ではあるけれど、
その部分の知的負荷を怠けることはしてはならないのだと思う。

でもまた、その「複雑な状況を、いかに人にわかりやすく伝えるか」というのは、
また別の作業で、それはそれで大変だったりするんだけれどね。







Last updated  March 13, 2008 09:20:01 PM
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March 9, 2008
カテゴリ:考えごと
結婚式~2次会で、私の友人に何人も会うことになった彼がしみじみと言った。

「よく類友とか、友を見ればその人がわかる、とかいうけど、ほんとだよね~。」

ちなみに、私と私の友人の共通点は「いいかげん」。
(←友達の皆様、勝手ないいかげん認定、すみません・・・)

彼は、常日頃「飛鳥ってなんていいかげんな奴なんだろう!」
と思っていたが、
まさか、友人までがいいかげんだとは思わなかったらしい。
そして、友人までもが、みんな、
かなりいいかげんでテキトーなことに驚いたらしい。
(とはいえ、私は中でも群を抜いていいかげんだけどね)

まー、よくよく考えてみれば、
「自分自身もある程度いいかげんだから、
とっーてもいいかげんな飛鳥を許せる」
ということで、友情がつながっている気がする。

(ちなみに、いいかげんでない方々は、私に怒りを感じ、呆れ果て、
付き合いきれないと、去っていく。)

同様に、うちの彼も頑固だが、彼の友人もやっぱり「頑固」。
うむ、面白い。

よって、自分のことを知りたかったら、占いとかするのでなくて、
友人をぐるりと眺め回してみると良い。

そうすれば、自分がいかなる人間かわかるであろう。


・・・・にしても、キチキチした人間も、少しは友達に増えないものだろうか。
・・・・無理か。






Last updated  March 13, 2008 09:23:24 PM
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March 18, 2007
カテゴリ:考えごと
以前も書いたことだが、美人は美醜にして決まるに非(あら)ず。
美人かどうかを決めるのは美人ポジショニングを取っているかどうかである。

世の中には、
「どこからどう見ても決して美人とはいえない(というよりブに近い)のに、美人ポジショニングを獲得している人」
がいる一方で、
「美人なのに、なぜか扱われ方がブにカテゴライズされている人」
がいる。

美人に生まれたからといって、自動的に美人カテゴライズされるわけではなく、
美人ポジショニングを取れなければ、その人は「美人カテゴリー」から「美人なのに(涙)カテゴリー」へと転落する。

逆に言えば、たとえブに生まれようとも、美人ポジショニングを獲得することによって、
「美人カテゴリー」への昇格が可能になるのである。

繰り返すが、美人になれるかなれないかは、生まれた顔には関係ないのである。
世の女性にとって、これは朗報ではないだろうか。

さて、それでは、美人ポジショニングを決める力とは何だろうか。

それは、「本人の(強力な)思いこみ」と、そこから生まれる「周りに反論を許さない威圧感」である。

美醜を決めるのは、私はイケてる!という「思いこみ力」である。
それが、現実の美に裏打ちされているかどうかなんて、全く関係ない。

そして、それ以上に重要なのは、現実の美醜に関して(少なくとも本人の目の前では)口を挟ませない威圧感である。

美醜にかかわらず、美人ポジショニングを取っている人を見てみよう。

次の日からどんな目に遭わせられるかわからない。そんな予感を与える威圧感がある。
冗談でも「よく見ると、変な顔ですよね」なんて軽口を叩けそうもない。
そんな言葉、口にしたとたんに、目で瞬殺されるであろう。

実際、考えてみると、「あいつ、自分のこと美人だと勘違いしてない?」と陰口をたたかれながらも、
本人の目の前では誰もそんなこと絶対言えない、という雰囲気を醸し出している人が、
あなたのまわりにもひとりくらいいるのではないだろうか。

そんなの裸の王様ではないか、という人がいるかもしれない。
けれど、裸の王様でいいのである。

裸の王様の問題点は、「王様は裸だ!」と叫ばれたとき、裸な自分を恥じ、すごすごと逃げ帰ってきたことにある。

ここで、王様が「王様は裸」といった瞬間に子どもを捉え、
「この布が見えないなんてバカな国民は我が国にはいらぬ。追放じゃ!打ち首じゃ!」
と叫び、恐怖政治をとったならば、
裸の王様は公衆の面前でバカ扱いされるなんて事にならなかったはずである。

恐怖政治下では、王様が「白いものでも黒」だと主張すれば
それが黒になるように、
「私が私のことを美人だと言えば美人」だと主張すれば、
実際、現実のほうが変わっていく。

周りへの有無を言わさぬ威圧感から美人ポジショニングを獲得した人は、
そのポジショニング故、当然、美人扱いを受けることになる。

美人扱い。これこそが、重要なのである。

そもそもなぜ、多くの女性(ときに男性も)が「美」を求めるのかというと、
われわれの生きているこの社会には、「美」を価値と考える価値観が浸透しているが故に、
「美」には付随して社会的資本が与えられるからである。

美人扱いを受けるということは、美人に与えられる社会的資本を使用できるということであり、
(人が美を求めるのは、美から引き出される社会的資本を享受したいからだと考えるならば)
美人扱いさえ受けられれば、美人になる目的は達成したのであり、
本人が美人かどうかの現実はどうでもいい。

(なお、「美人であること」が社会的資本としてどのような価値を持つかということは、
既に様々な研究で明らかにされている(*)ので、ここでは省略する。)

ちなみに、「思いこみ」と「威圧感」から、美が社会的に構築されていく現実のプロセスに関しては、
研究としては非常に面白いトピックだと思うのだけれど、
そんなのこれを読んでいる一般の方々にはあんまり面白くはないだろうから、
今日のところは、「思いこみ」と「威圧感」から
美が社会的に構築されていくということのみを覚えて、
明日から実践してみてはいかがだろうか。

ただ、威圧感があるということは、裏を返せば「怖い」ってことだから、
その結果、「あの人怖い」という評価を得て、社会から孤立することになったとしても、
責任取れないからね。ごめんね。


(*)たとえば、以下を参照。
井上章一 1991『美人論』 リブロポート
蔵琢也 1998 『なぜ、ヒトは美人を愛するのか』 三笠書房
キム・K.P. ジョンソン他 2004 『外見とパワー』 北大路書房






Last updated  March 19, 2007 07:23:41 PM
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November 26, 2006
カテゴリ:考えごと
(ここでいう負け犬とは、
酒井順子「負け犬の遠吠え」における負け犬、
すなわち、30代・未婚・子なしを指します。)

一応、この判定は、20代後半~30代前半のいわゆる適齢期男女を大正としています。

ですので、あんまり若い方・あんまり年上の方あてはまらない部分もあるでしょうが、まあやってみて。

さて、それでは、あなたの負け犬度を判定します。
以下の質問に○か×かでお答えください。

1)今まで結婚式・披露宴に出席した回数は5件以下である。
  (会社関係やサークル仲間など、みんなでは会うけど、
   個人的には遊ばない友達の結婚式は除きます)

2)今の彼氏・彼女と別れても、次がいるさと思う。
 (いない人は「一生結婚できないかも・・・」と不安にならない。)
  
3)雅子さまと紀子さまならば、雅子さまのほうにシンパシーを感じる。


さて、上記の質問にいくつ○がついたでしょうか。

○3つの人:Welcome to 負け犬 world!
      あなたもわたしも負け犬です。
      アスカハウス(*)のお部屋を空けてお待ちしております。
(*)アスカハウス:将来私が建てる予定のコラボレーティブ・ハウス。
漫画喫茶とジム・エステ、ついでに美形スタッフがついてきます。

○2つの人:負け犬度はかなり高め。危険信号点滅中。
      方向性を変えるならば今だ!

○1つの人:負け犬度は低め。
      あとはあなたの努力しだいです。

○ゼロの人:今のまま普通に生きていれば、
      そのうち結婚できるでしょう。


ちなみに各質問の意味ですが、

(1)普段から遊ぶ仲の良い友達の友人の結婚式・披露宴に
  5件以上よばれたことがある。

この質問では、結婚した友人が回りに何人いるかを判定している。

なぜなら、この世は類友。
自然に【結婚するグループ】と【結婚しないグループ】が
いつの間にかできていて、その間には、ふか~くてくら~い川がある。

たとえば、大学の同期などで集まっても、
結婚した人は「今月、結婚式が3件もあってご祝儀貧乏なの~」とか言ってる。

おいおい、私は今までで出た総結婚式数が3件だぞ!
一ヶ月で追い抜かれてるじゃねえか!

このように、結婚する人の周りには、結婚する人が集まっているのだ。
(そして、結婚しない人の周りには、結婚しない人が集まっている・・・)

なので、あなたが【結婚するグループ】に入っているのならば、まずは心配ない。
あなたはいずれ結婚できるであろう。

あなたが【結婚しないグループ】に入っていたとしたら?
まあ、それも心配ない。
負け犬の共はみんな負け犬。
将来、一緒にいてくれる友達には困ることはないからだ。

(2)今の彼氏・彼女と別れても、次がいるさと思う。
  (いない人は「一生結婚できないかも・・・」と
  不安にならない。)

この質問では、あなたの結婚でも切迫度を判定している。

なんかね、29くらいになると、
「この彼・彼女と別れたら、一生結婚できないかも・・・」
と不安になるらしい。
そして、その不安・切迫感が、結婚の決め手となるのである。

これが、そこそこ美人だったり、小金持ちだったりする、
微妙にモテる人のほうが、負け犬になるという落とし穴。

「これが駄目でも、まあ次・次!」とか思ってるからいけないのである。
「これを逃したら次はない!」と思わねば!


(3)雅子さまと紀子さまならば、雅子さまのほうにシンパシーを感じる。

この質問は、女子のみ限定かもしれないけれど、
その人の資質を現す上で、ひっじょーーに重要。

これは、「目標への底力」「執念力」を表す指標である。

負け犬が負け犬になるのは、結局は
「結婚はしたいけど、見苦しくはなりたくない」
という中途半端な気持ちがあるから。

雅子さまにはその迷いがあるけど、紀子さまにその迷いはない。
「目標をセットしたら、その目標に向けて着々と邁進」なのである。

だから、あなたが紀子さまタイプであれば、
「結婚したい!」と思い出したら、
何歳になっていても、きっとできるであろう。安心してよい。

え、雅子さまにシンパシーならどうしろって?
だーかーらー、アスカハウスがあるってば。
きっと老後も楽しいから、大船に乗った気持ちで待っていておくれ。

以上、あなたの結果はどうでしたか?






Last updated  November 28, 2006 03:12:47 PM
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November 14, 2006
カテゴリ:考えごと
かつてラカンは弟子たちにこう言ったという。

「君たちラカン派にとって、世の中がラカン的な象徴に満ちているように見えるのは、君たちがラカン派であるからにすぎない、君たちがユング派だったりクライン派だったりしたら、世の中はユング的あるいはクライン的に見えるだろう」

自らの業績を相対化してみせた皮肉たっぷりのこのラカンの言葉は、ある種、学びの本質を端的に言い表している。

学ぶということは、単に知識を得ることではない。
学ぶとは、その得た知識によって、世界を見る枠組みがかわることを指す。

逆に言えば、たとえどんなに知識を得ても、その人の世界の捉え方が変わらなければ、その知識の獲得は「学び」とはいえない。

ある知識を得ることで、今まで何でもなかったかのように見えていた風景が、別のリアリティをもってうかびあがってくる。
それが、学びである。

たとえば。

ルビコン川は、カエサルの話を知らない人にとっては、小さな何の変哲もないイタリアの田舎の川である。その知識がなければ、そこをわざわざ訪れても、何の感慨も生まれないことは間違いない。

しかし、カエサルの話を知っている人にとっては、ルビコン川は、わざわざ訪れるに値する壮大なロマンを感じる場所である。

ある知識を獲得することで、何の変哲もなかった川が、偉大なカエサルの足跡の第一歩に変わる。
その川の風景は、その知識を獲得した人の前には、全く違うものとして立ち現れる。
世界の認識が変わるのである。

同様に、
マルクスを知れば、世界は階級的に構成されているように見えてくるだろうし、
ニーチェを知れば、世界は愚民であふれている(w)ように見えるのだろう。

その意味で、学ぶ楽しさのひとつとは、どんどん変わっていく自分自身を発見することだ。

だから私が、会うたびに違うことを口走っていたとしても、それは私が一生懸命学んでいることの証。

ちょっとくらいの一貫性のなさは、見逃してほしいものである。







Last updated  November 14, 2006 08:11:17 PM
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November 13, 2006
カテゴリ:考えごと
ここのところ、うまく言葉にできずに、
ずっと引っかかっていることがいくつもある。

どうしてアカデミアの世界と現実の世界は、
こんなに乖離しているのだろう。

どうして恵まれた立場に生まれた人が、
その恵みをあまりにも当然のものとして、
恵まれなかった人々を軽蔑し排斥できるのだろう。

言葉の届かない相手を前に、
私はどのような態度をとったらいいのだろう。

すごく大きい問題であり、手垢のついた問題であるけれど、
すごく大事なことだ。

こういう問題に直面するたび、
いつも自分の手に負えないことが悲しくて、
陰鬱な気分になるのだけれど、
大事なことは、諦めないことだ。たぶん。

どうしたってわからない、わかるはずもない、
わかったつもりになるのはかえって失礼、といった
色んな考えもあるだろうけど、

だからといって、
考えるのをやめ、行動するのをやめ、関わるのをやめて、
私のわかる世界にだけ居ようとするのは、
やっぱり違うのだと思う。

急がなくていいので、
ゆっくり、でも、きちんと考えていこうと思う。






Last updated  November 14, 2006 08:11:53 PM
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October 19, 2006
カテゴリ:考えごと
けっこうみんなが書いていることだけど、
朝からやっているみのもんたの番組。

私が朝の準備をする時間にいつもやっているので、
つい見てしまうことがあるのだが、
ほんっと、朝からやな気分になる番組だ。

様々な事件や問題を取り上げて、言うことといったら、ただ

「こんな悪いことが起きているなんて信じられない」
「どうしてこんな悪い人を放っておくのかわからない」

って、悪い点をあげつらうだけ。

「わからない」「信じられない」って言ったって、
その「わからない」「信じられない」ことが、現実に起きてるのだ。
あんたが「わかる」「信じられる」世界こそバーチャルで、
そっちのひどい現実がこの世界のリアリティーなのだ。

みのは、そのリアリティーを切り捨てる。
そのコメントは、「世界を理解しよう」「人を理解しよう」という気持ちを、まるまる放棄している。

キーワードは「常識」。
常識は常に正しい。常識で理解できないことは全て悪。

だからみののコメントは、「私は常識だから正しい。常識を持っているはずの私と違うあんたは悪。信じられない」で、終わり。

「わからない」「信じられない」で終わるのではなくて、むしろそれを現実として受け止めて、
「どうしてこんなことになったの?」
「どうしたら変わるの?」
ってことを、分析して、考えて、それを伝えていくのが、メディアの使命じゃないの?

たまに何人かいるコメンテーターが、それが起きた深い理由を推察したり、別の側面から見た解釈を言ったとする。

しかし、みのは「別の解釈」を禁じて、それを打ち消す方向に話を持って行く。
もちろん、その先は「常識は正義で、私が理解できない人は悪人」。

アカデミアの世界では、常識を疑わない人間は、バカと呼ばれる。

コペルニクスやガリレオや例を持ち出すまでもなく、
正しいと思われている常識は、常に大量の間違いを含んでいる。

だから、心から言おう。
ばーか、ばあーーーーーーか。

ただ、みのもんた的精神は、分析に値する興味深い現象であることは確かだ。

長くなるので、みのもんた的精神の分析は次回。






Last updated  October 28, 2006 02:21:01 AM
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October 17, 2006
カテゴリ:考えごと
最近、自分の中で、大きな心境の変化があった。

何かが事件があって変化した、というわけではなくて、
「あれ・・・?あれれ?
これ、もしや前と変わってるんじゃ・・・?」
というかんじで、気づいたら、変わっていた。

そんな淡々とした変化だったけど、この変化は、
ちょっと前の私には、本当に考えられなかった位の変化なので、
ちょっと自分でもびっくりしてしまった。

その変化したある側面から見れば、
ちょっと前の私と、今の私は、まるで別人になっている。

たとえば、
好きで好きでたまらなかった人が、ある日気づいたら、
「なんであの人のことあんなに好きだったんだろう?」
と、自分でも、小首をかしげることがあるように。

自分の心すら、これほどまでに当てにならないものなのである。
ましてや、人の心をや。

私たちは、そういう変化の流れに飲まれることをよしとせず、
何とか流れの中に楔を打ち、立ち留まろうとし、
『絶対』とか『永遠』という約束をするけれど、

そんな私たちのちっぽけな努力は、
変化の流れの力には逆らえないのではなかろうか。

その流れはとてもとても強いから、私たちは、
どうしたって流れに巻き込まれていくのである。

もちろんその流れは、一気に楔を押し流すこともあれば、
少しずつ削っていくことも、
いつの間にか楔を差した地面ごと動かしていくこともあるだろう。
流されていることを、楔を指した人に気づかせないままに。

このように、変化の流れというものに、人はなかなか抗えるものではない。

変化していくのが当たり前だからこそ、大事なのは、
絶対とか永遠とかいった『ことがらが変わらないでいること』、ではない。

大事なのは、そのとき、そこで、絶対とか永遠とか
『打ちたてようと思った』という事実そのものである。

そのときに、
「この変化という流れに逆らってみよう、
深く深く楔を打ち込んで」
と思えたほどの、強い強い『思い』。

そのあと、どんなに自分が変わってしまっても、
他の人のほうが変わってしまっても、
その時『変わらないでいよう、変化に抗おう』とした気持ちは、
キラキラした思い出になる。

だから、『絶対』が果たされなかったといって、悲観的になる必要はない。

それは『流れに逆らうためのトレーニング』となり、
次の機会にもっと強く楔を打ち込むための力を与えてくれたのだから。

そして何より、私たちは、実際、
『絶対が実現すること』より、
『絶対に変わらないと思っていたことだって変わる』ということの方に、
救いや恩恵を受けているのであるから。






Last updated  October 28, 2006 02:19:15 AM
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September 30, 2006
カテゴリ:考えごと
今、私は、大学時代の恩師の秘書をしている。

授業を受けるわけでもないし、
専門が違うから指導を受けるわけでもない。

けれど、日々、先生とお昼ご飯を一緒に食べたり、
先生の原稿をタイプしたり、
先生が取材に答えている会話を耳にしたりする。

日々「ただ側にいるだけで」 私は、先生の思想や知識を、
「体にしみこむような形で」 確実に学んでいっている。
(専門違うけどw)

ああ、世の中には、こういう学び方もあるんだなあ。

というか、授業などの何かを「教える」というような形で
「学び」が行われるようになったのは、近代以後の最近のことで、

むしろ、人間社会では長い間、「学び」というのは、
「教える」のではなく、「ただ側にいる」という形で、
行われていたのだと思われる。

古代ギリシャでは、弟子は師の元に付き従って、
師が誰かと話すのを見ること、師と話すことが学びの術であったし、
古代中国でもそうであった。
現代でも職人たちは口々に「技術は教わるのではなく盗む」という。

企業家を志す人が、企業家のかばん持ちをし、
政治家を志す人が、政治家の秘書となったり、
役者を志す人が、役者の付き人になるといった慣習って、
なんかわかるなあ。

何を習うってわけでなく、でも、学ぶ何かがたくさんあるから。
最初聞いたときには全然わからなかったことでも、
繰り返し聞くうちに「すとん」とわかる時が来るのだ。
不思議なことに。

だから、何かを学ぶなら、ただもうひたすら、
師匠のそばにいるという方法もあるのではないかと思う。

(ちなみに、この「体にしみこむ形での学び」の不平等性を
指摘したのがフランスの社会学者、ブルデュー。

実は、このような「学び」が、家庭内でも行われている。
だから、どんな家に生まれたかで、
その人の知識や考え方のレベルに差がでてきてしまう。

教育機会は平等だといっているけれど、上流階級に生まれた子弟は、
それだけで、ゲタをはいている状況になっているのだ。)

でも、「体にしみこむような形で」学んでいるから、
気をつけないと、先生の考えに相当染まっちゃうのよね(w。

だから、師匠選びは大事だ。

「習うわけではない学び」とは、すなわち
「私を入れる箱」「私を入れる枠組み」を作ることだ。

私という存在の枠を、どのような大きさのどのような形のものにするか、
それを決めることだといってよい。

この「習うわけではない学び」という「箱作り」は、無意識のうちに行われる。
そして、どうせ作るならば、箱は出来るだけ大きく、
できるだけ柔軟にしておくほうがいい。

「私を入れる箱作り」とは、私たちの無意識・私たちの可能性を
耕すことと言い換えられるかもしれない。
そして、「師匠から体にしみこむ形で伝えられた学び」の本質は、
私という畑を、できるだけ広くできるだけどんな作物にも対応できるよう、
じっくりじっくり耕しているということなのだ。

だから私は、師匠は、できれば、専門における専門性だけではなく、
幅広い教養を持っている人がよいのだろうと思う。

その人のそばにいることで、無意識のうちに、
「今までの自分の枠」外のものを自分の中に存在させ、
自分の可能性を広げることにつながるからだ。

いい師匠を持ちました。






Last updated  October 16, 2006 12:15:37 PM
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