black obelisk

2017/03/28(火)19:59

天空の黒 大地の白(5-83)贖罪(1)

(小説)『天空の黒 大地の白』(269)

物見塔から続く回廊を、整然とした軍靴の列が進む。 先頭をゆくアルブレヒトの周囲に、フォルクマールを含め女王の騎士たち。 最後尾のティアナは、愁いを含んだ薄灰色の瞳を意識して前方に向けた。 かつてはユベール率いるザンクトブルク竜騎兵隊の、濃紺の制服に身を包んでいた彼女も、騎士の一従者に戻った。 おもむろに、回廊の分岐点で敵兵と遭遇する。 宰相軍の歩兵隊――だが十名足らずの小隊では、足止めにもならない。 片を付けたアルブレヒトがサーベルについた血を払い、騎士たちに命じると、各々が散っていく。 ティアナが小さく息を吐いたときであった。 「っ!」 背後から口元をふさがれ、柱の陰へと引きずり込まれる。 身をひるがえし拘束を解こうとした彼女は、今度は驚きで声を失った。 「静かに・・・頼むよ。」 そう言って彼女を解放したのは、赤毛のテオドールだ。 「テオドール様っ。貴方と陛下が姿を消したと大騒ぎで。今だって皆、陛下の捜索に。」 テオドールは険しげな表情で、アルブレヒトを見つめる。 黒獅子の隣には将校らの姿があり、側を離れる様子はない。 テオドールは、ティアナの肩を引き寄せた。 「お前、陛下のために尽くせるか。」 「え・・・」 「陛下とアルブレヒト様を救うために。皆のために。お前に託してもいいか。俺が行けば騒ぎになって、陛下の御心が無為になってしまう。だから俺の代わりに伝えてくれ。」 他の誰にも気づかれぬように。 「アルブレヒト様おひとりで来てほしい。陛下のもとへ。」 * * * フィアノーヴァ城の北東に造られた、ささやかな庭園。 元はよく手入れされていたのだろう。 遊歩道の敷石は黄味がかった温かな風合いを残してはいるが、繁茂する緑にのまれかかっている。 往時のように咲き誇るのは、紫色のヤグルマギクの花弁。 だが今は花々を踏みしだき、歩哨たちが警戒の色を強めていた。 最奥にある東屋から地下へと延びる階段の先は、アーチ状の伽藍をもつ小ホールであった。 壁に備え付けられた古めかしい照明たちに照らされ、レティシアはさらさらと流れる水音に意識をひたしていた。 中央通路の両側には、幾何学模様に組まれた水路。 穏やかな流れが、幾多の泡沫をくり返し生み出す。 宰相の軍に水利施設を破壊され、城内の水は枯渇しかけていたが、この水路は空間内部で循環しているのだった。 迷いが胸をよぎる。 テオドールと共に、宰相軍のもとへ身を投じる道もあっただろう。 だが、それでは―― やがて、折り目正しい靴音が響く。よく耳なじんだ音だ。 仄暗い闇から、アルブレヒトが姿を現した。 周囲から、あらゆる熱が消え去ったような錯覚。 彼の黒衣は、穢れを隠してしまう。 だが銀色の髪や彫像のような白い肌には、いまだ乾かぬ返り血が鮮烈な痕(あと)を残している。 しばし主君と視線を交わした彼は、静かに跪(ひざまず)いた。 「アルブレヒト――」 遠くから、爆音が立て続けに響いた。 「戦いの、大勢は決したのでしょう。」 女王の言葉にも、アルブレヒトは沈黙を貫く。 「テオドールから聞きました。落城となれば彼らが敵陣に斬りこみ、私と貴方だけは脱出させると。でも城外を幾重にも包囲されて、まして私を連れて、貴方であっても突破など出来るはずがない。」 視線を床に落とした黒獅子の騎士の姿は、恭順にも拒絶にも見えた。 女王は、つとめて感情を抑制する。 「私と、フライハルトの未来のために、貴方は尽くしてくれた――でも、アルブレヒト。貴方の戦いは、終わった。」 しじまに耐えながら、女王は返答を待った。 アルブレヒトの決断がない限り、騎士たちが戦いを放棄することはない。 「抜かれた剣を、貴方ならば鞘に納めることもできる。貴方に従った皆を、死なせないで。テオドールやティアナ・・・いいえ、この城にいる兵士すべて。私と貴方が、共に守るべき者たちなのだから!」 * * * 一方、ユベールと竜騎兵たちはヴァレリーの残した言葉に従い、北へと歩を進めていた。 城の背後にいかめしくそびえる、峻厳な峰々。じきに、日が陰る―― しかし彼らの行く手を遮ったのは、敵方のバリケードだった。 路地が荷車やら樽やらで封鎖され、数名の守備兵も配置されている。 レオが低くうなった。 「建物の通路を抜けて、向こう側へ出ることも可能ではありますけど。」 「レオ、あんなバリケードを、さっきも見たような・・・」 「確かに、城の西側にも何か所か。」 「――分隊長、急ぎ伝令を!バリケードの制圧を優先せよと!」 狭い城内の通路を塞がれ、火でも放たれれば・・・兵士たちは逃げ場を失ってしまう。 その時、巨大な爆音が上がった。 振り返ったレオの目に映ったのは、窓という窓から炎を吹き出して燃える、主塔の姿。 「くっ・・・」 あの中に、敵味方どれだけの者たちがいるのか。 だが、感傷にひたる余裕はない。 おもむろに銃声が連続して響く――もっともそれは、彼らを狙ったものではなかった。 数フィート先の建物の陰から、一人の男が追い立てられるようにして姿を現した。 続く一発に足元を撃ち抜かれたか、膝から崩れ落ちそうになるのを耐えて、ようやく路地に身を隠す。 「テオドール!」 ユベールが引き留める間もなく、レオンハルトが男に向かって飛び出していた。 かつての友人、騎士テオドールに駆け寄ろうとしたレオの、肩先を銃弾がかすめる。 彼らを遠巻きに囲むように、敵兵の一軍が展開する。 指揮するのは、真白い軍装に金色の長い髪を束ねた騎士、フォルクマールであった。 なぜフォルクマールが、同じく女王の騎士であるテオドールを狙うのか。 事情を理解できたわけではない。 ただ反射的に旧友――グストーに使えて以来ずっと反目しあってきた、失った友情の名残が、レオの背を押してしまったのだ。 「これは、天の配材とでもいうのでしょうか。レオンハルト・・・それに、ローレンツ大尉。」 フォルクマールは、常と変らぬ涼しげな眼差しを崩さない。 「陛下は・・・」 苦心して息を整えたテオドールが呟く。 「誰もこの先に、行かせるわけには・・・陛下には時間が必要なんだ。あと少し・・・」 ユベールは周囲に視線を走らせ、状況を読み取ろうとする。 敵は軽装の小隊規模。軍衣からして近衛の歩兵隊であろう。 決して厄介な相手ではないが―― ユベールの知る限り、フォルクマールは怜悧な策謀家であり、同時に王国の体制護持を最も強硬に主張する男だ。 この期に及んでも、彼の脳裏に降伏の文字はあるまい。 一方のフォルクマールも視線をユベールに移し、何事かを探っている。 ユベールが静かに、剣を握り直した。 その姿に、フォルクマールもサーベルを抜き放つ。 「アルブレヒトも、酷なことをする――その左腕は、もう動かないのでしょう。自由のきかぬ体で、敵地に乗り込むのも大概だが。」 言い終わらぬうちに、フォルクマールの鋭い切っ先がユベールの喉元を捕えようと迫る。 間に入ったレオンハルトが、その剣を受け止めた。 フォルクマールは、優美な口元に侮蔑をにじませる。 「おやめなさい、レオンハルト。実戦経験もない君が、宰相の「騎士」など務めてこられたのは、ブランシュ伯爵家とアルブレヒトの威名ゆえだと分かりませんか。」 流れるように繰り出される剣に、かろうじて合わせていたレオも、徐々に息が上がり歯を食いしばる。 力任せに弾き返し、わずかな距離を取って構えを整える。 「・・・もう勝ち目はないのに、騎士の名誉やら面目やらって、皆を死なせるのか。」 「国のありさまを、正道にただす――アルブレヒトの使命に殉じるのが、我らの役割だ。」 「あんたは・・・!」 レオンハルトの一太刀を、フォルクマールは高い位置で受けた。 言い尽くせぬ憤りに、レオの頬が歪む。 この男の心には、レティシアの望みも苦しみも響かない。 「そんなもんが、女王の騎士かよ!」 * * * ――あれはレティシアの戴冠式の日。 まだ15の少女がフライハルトの女王となり、彼女に仕える8名の騎士を叙任した。 ブランシュ伯爵家にとっては、アルブレヒトが至上の栄誉である「黒獅子の騎士」の名を戴いた晴れがましい日。 長いこと地方に送られていたレオも、この日ばかりは王都に呼び戻され、ブランシュ家の一員として宮廷に入ることを許された。 「レオ・・・?レオンハルトなの?」 「姫様!い、いえ、レティシア陛下っ」 晩餐の席で思いもよらずレティシアから声をかけられ、レオは動転しながら胸に手を当てお辞儀をする。 遠い昔に別れたきりの、幼なじみ。 「よかった。もうずっと手紙のやり取りばかりで――会いたかった。」 高雅に、まばゆいほど美しく成長したレティシアの姿に、臆してしまいそうだった。 「俺も・・・あの時の誓いは、忘れていませんよ。」 さすがに騎士にはなれなかったけれど、と彼は気恥ずかしさから付け加えてしまった。 その時のレティシアの複雑な、どこか悲哀を含んだ表情に、レオはずいぶん後悔したものだ。 余計なひと言で、せっかくの再会に気まずい思いをさせてしまったと。 だが今思えば、既にレティシアは王家の騎士という存在に、齟齬を感じ始めていたのかも知れない。 「陛下、次のご予定が迫っておりますので。」 アルブレヒトが二人の対話を遮ると、彼女は唇だけで「また会いましょう」と言って寄こした。 着替えのために支度部屋へ向かう途中、アルブレヒトは感情の乏しい声で言う。 「これからは一層、ご交友の相手も吟味せねばなりません。」 彼の襟元は、新たな徽章で飾られている。 黒獅子の騎士――まだ幼かった頃は、いつか自分と無上の信頼で結ばれる相手だと、純粋に誇らしかった。 「アル・・・教えてほしい事があるの。」 「私にお答えできることであれば。」 「父上の黒獅子は、どうしているのかしら。」 レティシアの父、亡き先王に長く仕えた黒獅子の騎士。 彼女もよく知る男は、今日の戴冠にも叙任式にも姿を見せなかった。 「あの御方は私に訓育を授け、務めを果たし終えられました。」 「・・・それは、答えになっていないと思う。」 騎士の叙任と違い、黒獅子の継承は王家も立ち入れない秘儀だという。 アルブレヒトは歩みを止め、前方を見すえたまま言う。 「フライハルトの黒獅子は一旦その座を受け継げば、生涯を主君にのみ捧げる。そして、この国に黒獅子は二人と存在しない。そういうことです。」 * * * 「――貴女はご自分の言葉の意味を、ご承知なのか。」 重い口を開いたアルブレヒトの言葉に、抑えきれぬ憤りがにじんだ。 「我らは、この戦いを降りることはできぬのです。陛下の考える変革が成功してしまえば、この国の秩序が崩れる・・・民が力を持ちすぎる。いずれ彼らは、フランスのように共和化を求めるやもしれない。グストーの目論見は、陛下の主権をそぐことに他なりません。」 レティシアは彼に向かって差し伸べかけた手を、胸の前で結んで静かに下した。 「アル・・・貴方のいう通りなのかも知れない。私の治世か、その先に、フライハルトが王の統治を必要としない――そのような時代が来るのかもしれない。でもそれが国を救うことになるなら、受け入れようと決めたの。」 「陛下!」 「これが私の本心。誰かに欺かれてのことではありません。」 長い沈黙の中で、人工的なせせらぎの音だけが響く。 薄明りのゆらぐ空間で、影がうねる。 ようやく口を開いたのはアルブレヒトであった。 「私にも背負うものがある。黒獅子の使命は、王権に仇なす者を排除すること・・・お分かりになりませんか!だから、だからこそ、貴女が“正気”だと認めることはできぬのです。王家の解体を容認するような――それが本心だというなら、私は・・・」 アルブレヒトの手が腰に佩(は)いたサーベルへと伸び、柄がくい込むほどきつく握る。 彼の中で、何かが音を立て軋(きし)みはじめていた。 「陛下・・・私たちは、互いに深く踏み込みすぎたようです。」 そうなのかも知れない。 歴代の君主と騎士たちのように、ただ誓約に忠実でさえあれば。 これほどの辛苦を与え合わずに済んだだろう。 「アルブレヒト――」 自分が男であれば、これほど長い時を共にしていなければ・・・ 彼がアルブレヒトでなければ、感じずに済んだのかもしれない。 己が愛する者の、自我と誇りを砕いてゆく音を―― 「・・・っ」 アルブレヒトはサーベルを抜き放ち、逆手で振り上げると石畳の床に突き立てた。 破砕した切っ先が、光を反射しながら散る。 女王に背を向けたアルブレヒトの、かすれた低い声が告げる。 「参りましょう。戦いを終わらせることが、ご命令ならば。」 レティシアは言葉が見つからず、ただうなずく事しか出来なかった。 彼女は地下道の扉を見上げる。 あの扉を抜ければ、アルブレヒトは・・・騎士であることを手放し、咎を負うのだ。 先に立って進んでいたアルブレヒトが立ち止まり、振り返る。 「一つだけ、陛下にお聞き届けいただきたい事がございます。」 しばらくのためらいの後、男は言葉をつなぐ。 「陛下はフォルクマールに疑念を持たれておいでなのでしょう。確かに王室裁判の一件で、あの男は宰相を陥れようと企んだやも知れません。しかしそれは、私をかばうためでもあった。」 「貴方を、かばう・・・」 「エグモント殿下の銃が暴発するよう細工をほどこし、狩猟中に葬り去ると・・・」 灯火に照らされたアルブレヒトの白銀の髪には、緋色の飛沫が無数に散る。 その光景は、忘却を許さぬ忌まわしい記憶を呼び起こす。 「企てを認め遂行を命じたのは、私なのです。」 むせ返るような、強い血の匂い―― あの8年前の日、失望と怨嗟にエグモントは正気を失いかけていた。 妻を繰り返し打ちすえるエグモント・・・引きとめたアルブレヒトの首元に、ナイフが突き立てられようとする。 「アル!!」 無我夢中で夫の猟銃を抱え込んだレティシアが、銃口をエグモントに向け、震える指を引き金にかける。 「陛下、なりません!」 痛いほど強く、アルブレヒトの手が猟銃を跳ね飛ばした。 壁に当たって跳ね返った銃をエグモントが拾い上げ、狙いをレティシアの額に定める。 黒獅子の 騎士が全身で主君を覆うように、強く抱きしめる。 刹那、飛び散った赤い飛沫が、アルブレヒトの銀色の髪を雨のように濡らした―― アルブレヒトは、罪の告白に沈黙するレティシアの顔を見つめていた。 彼女の深い蒼色の瞳には、動揺も驚愕も見て取れない。ただ静かな哀しみが宿るだけ。 「陛下・・・貴女は・・・」 レティシアがかすかにうつむくと、金色のゆるやかな髪がひとすじ頬にかかる。 彼女には長いこと、確信があったのだ。 なぜアルブレヒトは自分から猟銃を奪わず、エグモントの手に渡らせたのか。 引き金を引こうとするエグモントを止めもせず、彼女の防壁となることに徹したのか。 「貴女は、ご存じだったのか。私が・・・なら、貴女は・・・」 エグモントの死後に暗殺の嫌疑をかけられ、執拗に糾弾されたグストーはフライハルトを去った。 レティシアがグストーを引き留めたければ、真の咎人(とがびと)がいることを明かせばよかったのだ。 「真実を明かされれば、あれほどの悲嘆に苦しまず済んだ。」 だが女王は、アルブレヒトを守る道を選んだのだ。 「私も、真実を隠し通そうと決めたの。アルひとりの罪じゃない。」 差し伸べられた女王の手をアルブレヒトは拒み、後ずさるように距離をとる。 噛みしめた口元から、うめくような吐息がもれる。 「レティシア、もはや・・・」 その先の言葉を、アルブレヒトは打ち切った。 黒衣の裾をひるがえすと、彼は外界へ通じる階段を上り始めた。

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