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カテゴリ:(小説)『天空の黒 大地の白』
旅装を解きながら留守中の出来事の報告を受けたレティシアは、その足で宰相の居室を訪れたが、部屋は無人であった。 東棟の窮屈な階段を上り、彼女は王宮の屋上へ出る。 そこには鍵付きの巣箱が幾つも据えられ、鳩たちが餌をついばんでいる。 女王は小さく息を吐いた。 グストーが渡りを終えたばかりの一羽を手に取り、脚にくくられた通信筒を外している。 間もなく盛夏を迎える南部ドイツの爽やかな風が、男の髪をさわさわと吹く。 「・・・よい知らせかしら。」 「そうだな。ひとまず、マインツ方面は順調のようだ。」 鳩の背をひと撫でして、グストーは巣箱に戻す。 「皆が、貴方の体を心配しているわ。」 「問題ない。もう十分休んだ。」 レティシアは言葉を探して、鳩たちが身を震わせ羽をつくろう様子を見つめる。 「――貴方に、話したいことがあります。」 二人の視線が交わる。 「謝りたいの。貴方を非難したことも、私の頑(かたく)なな態度も。」 事情を知る人々は、噂してきた。 フィアノーヴァの落城以来、女王と宰相との関係に決定的な亀裂が走ったと。 もはやレティシアは、満足に言葉を交わそうともしない。 才気を誇るグストーが、むざむざと黒獅子を死なせたことに、女王の悲憤はあまりに深いのだと―― 「貴方は、能(あた)う限りのことをしてくれた。なのに私は・・・貴方にすべての責めを負わせ・・・っ」 レティシアの体に緊張が走り、口をつぐむ。 グストーの指が彼女の頬をなぞり、上を向かせた。 「お前はまだ、許せずにいる。俺のことも、お前自身のことも。罪を感じるのだろう?こうして向き合っていることにさえ。」 レティシアは唇を引き結ぶ。 どこかに、アルブレヒトを失わずに済む道があったのではないかと――それが彼女の、偽らざる心。 黒獅子も大した呪縛を残してくれたものだ。 「――それでも構わない。俺はお前に与えられた権限で、自分の仕事を果たす。」 「・・・だから、私にザンクトブルクへ行けと言ったの?」 あの時、レティシアには分かった。 グストーは自分の手を離したのだ。 これまで彼女を叱咤し、挑発し、惑溺させ、そうして高みへ押し上げてきたグストーが、自分から手を引こうとしている。 「でもグストー・・・私は貴方を選んだ。」 苦い苛立ちに、男は頬を歪める。 彼を慕うレティシアの感情は、彼が植えつけたもの。 まがい物の情念と、黒獅子への悔悟の狭間で、彼女の魂は軋(きし)みをあげ続けている―― 彼女の精神の均衡を保たせ、制御下におくことこそ肝要なのだ。 他の誰かにレティシアを委ねようとも。 女王として統治に耐えられぬほど、彼女の心がすり減っては使い物にならない。 だが―― 彼を苛(さいな)む疑念が、再び首をもたげる。 レティシアは手段に過ぎない・・・彼が己を捧げる、理想実現のための上質な手駒。 なのに何故・・・彼女の存在が、グストーの退路を断ってしまった。 この国で生きる決意を、彼にさせた。 「レティシア、お前は――」 騎士たちの追討の手が彼に迫り、ひそかに王宮を脱出した時、グストーは国外へ逃げろという幽鬼の言葉をはねつけた。 あの時、勝機を確信していたのではない・・・ただ、フライハルトを棄てるという選択肢が、彼の中に存在しなかったのだ。 そのことが彼を苛立たせ、恐れさせる。 レティシアを支配しながらグストーは、互いの存在が分かちがたく切り結んでいくのを自覚せざるを得なかった。 欺瞞に満ちたつながりに、一抹の真実を求めようとする愚かしさ。 取り込まれたのは、己の方なのか―― グストーは女王を放し、鉄製の手すりにもたれかかると外界を見下ろす。 彼が造り上げてきた、フライハルトの遠景。 「そんな風に私を遠ざけようとしても、無理というものよ。私はもう、貴方の傀儡ではない。だって、それが互いの望みだから。」 女王はグストーの背に語りかける。 「その全てを見通す目で、自分を見ればいい。グストー、貴方は私への支配など、とうに解いてしまった。もう幾年も昔に・・・貴方が私にギィたちを引き合わせ、本心を明かしたときから・・・私が貴方と共に生きようと決意したときから。少しずつ、でも確かに、私は自分を取り戻してきた。」 背を向けたままの男の表情は、うかがうことができない。 レティシアの眼下に広がる庭園は、刈り込まれた緑が夏の陽光に青々と映えて、白亜の門の先に延びる街道が城下の町々へと続く。 「――数日後、この王宮の庭は廷臣や近衛の兵士達、王都の群集で埋め尽くされる。私はバイエルンの公子とバルコニーに立ち、婚約を宣言して人々の祝福に応える。そのとき私は誓うの。」 上ずりそうな声をこらえ、レティシアは言葉をつなぐ。 「この国は多くの犠牲を払った。戦場に斃れた将兵たち・・・家族や輩(ともがら)を失った者たち。私の思い至らぬところで、苦しみを負う人々も。あまりに多くの犠牲を・・・新たな時代を迎えるために。私は、それに報いよう。」 吹き付ける風にレティシアの金色の髪がたなびく。 「失われたすべての命に、その意味を約束しよう。」 彼女はその瞳を、静かに閉じる。 「グストー・イグレシアス。私が欲しいのは、ただ有能なだけの宰相ではないの。フライハルトに根を張り、この国の父祖となり、礎(いしずえ)になる――」 グストーの背に額を押し当て、彼女はグストーを抱きしめた。 「この国が流す血を贖(あがな)うために。この国に生きる者の喜びも、苦悩も悲嘆もすべて、共に背負ってほしい。貴方にしかできないこと・・・貴方は、人間の尊さを知るひと。」 崇高な理想ゆえに、孤独な魂の持ち主・・・遠大な目的を見据えながら、目の前の一つの命の値打ちを知る―― 想いの限りを込め、レティシアはグストーを抱いた。 「グストー。私を信じて。きっと貴方の信頼に応えてみせる。二人で・・・この世界で、生きよう。」 彼の体に回された女王の腕を、グストーは言葉もなく見つめていた。 レティシアの白い指先はかすかに震え、背に当てられた頬の熱さ。 もろく純粋で、傷つきやすく・・・ 決して屈さぬ気高さで、愚かなほど深く彼を愛した。 フライハルトの女王。 彼女が何者か、共に過ごした月日が証明してきたのだ。 これが―――― グストーは再び視線を上げ、フライハルトの大地を見はるかす。 いまだ土地も人も未成熟な、だが彼とレティシアが創り替えてきた、この国で。 さらに10年・・・20年・・・さらに、その先へ。 グストーの目には鮮やかに、その栄華と繁栄が見えた。 彼を満たす熱い奔流・・・ この見果てぬ戦いに、自分は一人で挑まずともよいのか。 ――その答えは、いまだ見つからない。 見つからぬから、自分は・・・信じたいと願うのか・・・ そうして彼は思考を手放し、瞼を閉じる。 レティシアの手に己の手を重ね――グストーは、ただその時をゆっくりと噛みしめた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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さすがですね、レティ様。
自ら成長なさっただけでなく、あの計算高いグストーをついに、根本から自国に取りこんでしまわれました。 black様の執筆のきっかけが「女帝エカテリーナ」と伺って、なるほど、イメージこそ違え、レティ様の女王像というのが、あらためて分かった気がします! (2017/05/19 09:01:48 PM)
hannaさん
ついにグストーのハガネの心も・・・二人が出会って9年、hannaさんがおっしゃる通り、包み込んだと。 この辺のシーンを書く前に、エカテリーナを読み返したんです。 エカテリーナ様もレティシアも、自分が必要とする男性たちを呑み込みながら(うわばみ?)成長する。 私の中では、エカテリーナ様が拡大への決意だとすれば、レティシアは(国への)献身と受容というイメージです。(^ ^) (2017/05/21 01:01:05 PM) |