天空の黒 大地の白(4-21.3) 間章.褐色の公子(2)
翌朝。ティアナは運び込まれた天幕のベッドで、目を覚ました。目覚めの心地よさも一瞬のこと、小さく呻いたのは足の痛みのせいばかりではない。「あぁ・・・情けないな、私・・・。」昨晩エルヴィン達はフランス軍の陣を占拠し、指揮官は取り逃がしたものの、ともかくその目論見を阻止した。捕虜からの情報では、彼らはフランスの先遣隊であり、この地に拠点を作り舟を集め、後続の部隊を招き入れてマイン川南岸への奇襲を企てていたという。それが成功していれば、連合軍は敵に背後をとられる形になり、戦況や士気に少なからず影響が出ていただろう。エルヴィンの統率や判断も見事ながら、今回の作戦行動はユベールの発案だったという。「なのに私ったら、貢献するどころか・・・完全に妨害して。」その上ユベールが怪我を負ったと聞き、いたたまれない心地になっていた。どこからか一筋の風がふわりと吹き付け、ティアナの頬をなでる。顔を上げると、天幕に当のユベールが入ってくるところであった。「ティアナ。足の調子はどうだい。」「ローレンツ様・・・!あの、お怪我の具合は・・・?!」ユベールは普段と違わぬ、穏やかな微笑を返す。「少し背中が痛むけれど、だいぶ良くなったよ。」実はこの時、かすり傷とはいえユベールが撃たれたことは、一般兵にも彼女にも隠されていた。本当のことが知れれば、真っすぐな気性のティアナがどれほど責任を感じ苦しむか、ユベールが気遣って口止めをしたのである。「軽い捻挫だって?」「はい、半月ほどで治るそうです。」「エルヴィンが気にかけていたよ。」そう言いながらティアナの側に腰掛ける所作が、微かにぎこちなく、右半身をかばっているように見える。ユベールの怪我は、聞くよりずっと重いのではないか?「・・・申し訳ありません。私が至らないせいで、危険を招いてしまいました。どんな罰でも・・・」思い詰めたようなティアナの謝罪を、ユベールは制した。「戦場では、予期しないことが幾らでも起こる。窮地で部下を見捨てるような指揮官は、兵からの信頼も名誉も失うと君も知っているだろう。私は自分のために、当然のことをしたまでだ。」「ローレンツ様・・・。」「それより今後のことだけれど、この一件は本隊からの調査隊が引き継ぐことになった。数日中に第六小隊は、ライン河周辺での戦闘に戻ることになる。でも君は、しばらく後方で治療を続けないとね。」ティアナはハッとして、自分の置かれた状態に初めて気づいた。馬にも満足に乗れない以上、ユベールと行動を共にすることは出来ないのだ。仕えるべき相手の側に居られない・・・アルブレヒトと女王の関係を理想に置き、それ以外の仕え方など知らないティアナにとって、自分の非で離脱するなど「不適格」の烙印を押されたような衝撃であった。「私・・・できます。一緒に行軍させて下さい!怪我は本当に軽いんです!」「だめだ、ティアナ。足の怪我を甘く見ては、剣士としての生命に関わる。」「でも・・・!」このようなやり取りを、ユベールは予測していたのだろうか。見捨てられた子供のような顔ですがるティアナに、彼は懐から一冊の本を取り出し、手渡した。繰り返し熟読された跡のある表紙には、”ヴォルテール”の文字が印刷されている。「私は君をオーストリアに連れて来て、ずっと戦いの方法ばかり叩き込ませてしまった。でも本当に必要なのは、何のために戦うのかを知ることだよ。半月の休養は、丁度よい期間だ。この本を読んで学びなさい。そして君の世話をしてくれる人や市井の人々と交わり、君が守るべき者達が何を思い何を願っているのか知るんだ。」「私が守るべき人達を・・・知る・・・。」ユベールは頷き、ティアナの肩に手を添えた。「いいね。これは君が第六小隊の一員として戦っていくために、必要なことだ。よく学んで、怪我を完治させたら後を追って来なさい。」ティアナは書物を両手でしっかりと握ると、ユベールの顔を見上げた。彼の彫像のように端正な面差しは、しかし温かな色をたたえティアナを見守っている。彼女の中に、形容のしがたい熱さが生まれた。ユベールはアルブレヒトのような、完成された人間ではない。人々の畏敬を集め誰をも従わせる統括力や、他を圧倒する怜悧さを持ち合わせているわけでもない。だがユベールの内にある、ぬくもりを孕んだ真心は・・・この人に応(こた)えたいと、周囲の人間に思わせるのではないだろうか。ティアナは、それを明確に理解していたのではない。ただそのような事を心で、肌で感じていたのである。ユベールに仕えることは、いつかアルブレヒトのために働くまでの過程だと、ティアナは思ってきた。だが彼女は今ようやく、ユベールその人を真っすぐに見つめ始めたのだった。