天空の黒 大地の白(3-26.3)間章.ジュール・バリエ<3>
明け方近くになって、馬車はようやくドイツ地方との国境に到達した。警備隊長と話をつけ無事に関所を通り抜けた一行は、ドイツ側の町に停泊する。真白い壁に緑の扉をした素朴な民家が建ち並び、国境を挟んでわずかの合間に異文化の領域に踏み入れた事を実感させた。ターレル金貨の詰まった革袋が、ボージェに手渡される。「オーストリアにでも行って、静かに暮らす事です。くれぐれも司教の座に返り咲こうなどと思わぬように。」「そんな不条理があるか。革命派の連中は、私の地位を不当に奪ったのだ。私が一体、何をしたというのだ!」その声を耳にした御者が、軽蔑しきったように顔をしかめた。「・・・そのような考えが次は命取りになる。」ジュールが贈った最後の忠告も、どれほど効果があるのだろうか。ボージェは結局、自分がなぜ追われるのか理解していない。目を開けていながら、現実を見る力のない男。「何もしなかったという事が、あなたの思う以上に罪なのだ。」司教を残し、馬車は再びフランスを目指して駆け去っていく。ボージェがもう少しジュールの言葉を真剣に受け取っていたなら、続く不幸を免れたのかもしれない。だが彼は、奪われた荷物の中にある一通の手紙のことで気もそぞろであった。あれに目をつけられては、彼は正真正銘すべてを失うことになるだろう。ボージェ司教には国境を越え命を拾った幸運よりも、過去の栄華を繋ぎ止める事の方が重大に思えていた。フランス領内に戻ったジュールの馬車は、駆け続けた馬たちを休ませるため小川で足を止めた。日が昇り、徐々にぬるんでいく水で顔を洗うジュールの隣で、御者の男が水面に口をつけて喉を潤している。「・・・はぁ。あんな男、助ける価値があるんですかい。お許しがあれば、蹄(ひづめ)にひっかけてやりたかったね。」そう言って口をぬぐったのは、黒髪のゴーチェである。「あれでも、協会組織の中では名の通った男だ。あまり無惨な死に方をさせては保守勢力の抵抗が激化するだろう。そうなればローマも黙っているまい。」「・・・よく分からねぇけど、得だね、"名の通った"奴ってぇのは。」「悪いな、お前には酷な仕事だった。」生まれ育った村を焼かれ家族を失って以来、ゴーチェは上流階級、特に司教という人種が憎くて仕方ないのだ。「俺ァ別に、ジュール様のご命令には喜んで従いますぜ。旦那のなさる事はいつだって正しいって、ちゃんと分かってるんだ。だがその・・・ローマってのが何か関係あるんで?まさか噂の通り、外国の兵隊どもが攻めてくるとか・・・。」ゴーチェは平然を装いながら、内心その事が気になって仕方ない。顔中に散らばった無精ひげをゴシゴシとこすりながら、ゴーチェはジュールの表情をうかがっている。「さぁな・・・俺にも正確なところは分からん。国王と王妃は、戦争になって革命が頓挫するのを望んでいるのだろうがな。だがもし、ローマが革命を公然と批判すれば・・・あるいは国が二つに割れるかもしれん。」フランス西部は信仰のあつい土地である。西部の民衆は、革命政府が制定した「聖職者基本法」によって教会の不可侵性が崩れ、彼らの信仰体系が覆される事態を決して歓迎していないと聞く。「へぇっ。教会の肩を持つ連中がいるなんて。そいつらみんな、騙されてるのに気づかねぇんだな。」首をひねるゴーチェの横で、今はのどかに広がる薄緑色の下草にジュールは腰掛け、しばらくの休息をとろうと立木にもたれかかった。革命が収束へ向かうのか、新たな局面を迎えるのか、フランスが初めて経験する異常事態に、彼も未来を読み当てる事はできなかった。 * * *彼がフライハルトを出国し、パリへ入った昨年の8月。パリの民衆は歓喜の声で「人権宣言」採択を祝い、街を包み込む熱狂の渦にジュールも身を浸していた。活動家たちの発行する新聞が人から人の手に渡り、路上やカフェで男たちは熱弁を振るいフランスの未来を語りあった。物事はジュールの予測を超える勢いと大胆さで動いていた。革命の第一報がフライハルトに届いたのは、7月18日。初めは暴動の間違いではと疑う声もあったが、国王側の譲歩と王弟アルトワ伯の亡命が伝えられ、フライハルトの宮廷人たちは少なからず衝撃を受けた。喪(も)の黒に身を包んだレティシアのもとへ、次々ともたらされる早馬の報告。憔悴した面差しの玉座の女王を支えるように、黒獅子の騎士が控えていた。わずか数日前、フライハルト中に悲しみの知らせが伝えられたばかりなのだ。エグモント殿下、ご逝去・・・国中の教会で追悼の鐘が鳴り、華々しい挙式からわずか3年での不幸に加え、フランスでの不穏な動きに人々の不安は増した。「寝室で猟銃の暴発だと?誰が信じる。早まった事をしてくれたな。」「違うの・・・本当に・・・あれは事故で・・・・・」問いつめるグストーに、レティシアは満足な説明もできず青ざめ震えている。一体どこから情報が流れ出したのか、狩り場でという公式発表とは異なり、エグモントが女王の寝室で息絶えた事実は、既に公然の秘密として宮廷に広まっていた。「事故と聞いて納得する者はいない。"殺し"の下手人が明らかにならない限り、疑いの目を向けられるのは俺だ。」「そんな・・・グストー・・・」貴族たちの間では、様々な憶測が飛び交っていた。女王の愛人であるグストーが、殿下と権勢を争って手を下したという者。殿下と不仲のレティシアが、グストーに命じたのだという者。レティシアの人望を落とすための、ジークムント公の陰謀だという者。この混乱にジークムント公派の廷臣は勢いづき、グストーと女王の共謀を示す証拠をいくらでも捏造(ねつぞう)する構えであり、女王の騎士たちはレティシアをかばいつつ、グストーにかかる嫌疑を積極的に晴らそうとはしない。肝心のレティシアは動揺が激しく、彼女に事態を収拾する力がないのは、誰の目にも明らかであった。<4>につづくこの作品がお気に召しましたら、ぜひ投票をお願い致します。とても励みになります(月1回程度) ネット小説ランキング>恋愛シリアス部門>「天空の黒 大地の白」に投票