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日々是好日

デイリー

「デイリー」1・2・3




1
  二十才の誕生日の夜に母は言った。
「お誕生日おめでとう。明日お父さんと離婚しますね」
「うん」

 15年前から父はいない。
 父は、私が5歳になったときに母に別れを切りだした。
 父にはもうひとつ家庭があった。父はそちらを選んだ。
 母は却下した。そして離婚を承知しなかった。
 私と兄を父親の無い子にしたくないと言い、子供が成人するまで離婚はしないと言った。
 父が買ったこの家はそのまま私達が住んだ。父はこの家を出て行った。

 この場合、どちらが愛人宅になるんだろう?誰にもこんなこと聞けやしなかった。母にさえも。

 母は父を許せなかった。父が家を去ってしばらくして、包丁を持って父の会社まで行ったこともあったらしい。
 母は父を呼び出して会社のロビーで父を刺そうと決心していた。電車を降りて会社に向かった母は、父の裏切りに怒りと恨みでいっぱいだった。
 お堀の傍の道を歩いていたとき、ふわりと風が吹いた。その途端ざあっと小さな花びらが雨のようにこぼれ落ちてくる。どこからか沈丁花の匂いがした。あまずっぱい春の香りのかすかな風に、花びらがあとからあとから降ってきた。
 父の勤めている会社の前に立った母は、建物に一歩も足を踏み入れずに来た道を戻った。

「お母さんありがとう」
 私は言った。


2
 魔女は言った。
「小学生くらいのとき、胸が大きくて、いわゆる発育のいい子っていたでしょう。
早い子は四年生くらいで生理が始まったりするのよねー。」
 そう言ってマリは真っ黒に塗った長い爪でキーボードを軽やかにたたいた。
「そういう子って、たいてい、背が伸びないの」
 薄笑いを浮かべた魔女は切って捨てた。女って残酷だ。デスクトップパソコンの前に脚を組んで座る姿は長身でスレンダーだった。
「フーン」
 オレはソファに寝そべり、雑誌をめくりながら言った。
 魔女は続けて言った。
「生理の始まった時期が遅いと身長が高くなる場合が多いんですって」
 うぇ。生々しい話題は苦手だ。
 知ってるか?男って繊細な生き物なんだぜ。
「アタシは中学二年か三年だったかなー。やっときたかって感じだったわ」
 唄うように魔女は言った。
 そういう話ってさ、まるで初体験の話をするようなもので、恥じらいとかないの?
 目は画面からそらさずに、10本の指をよどみなく動かし続けている。乾き気味のクチビルからは話が途切れなかった。
「どっちが好み?」
「は?」
「グラマーでかわいいタイプとスレンダー美人」
 なんだそりゃ。いつのまにそういう話になってんだ。
 なぜ女はこうもいっぺんにいろいろなことができるのだろう。そしていつも唐突だ。
 スシを食っている時に平気でカレーの話をしたりする。
 パソコンデスクの下に隠れている脚は、こ難しいステップを踏んでいるんじゃなかろうか。
「グラビアアイドルやタレントのタイプ?それともモデルタイプ?」
「・・・女は好きだねそういうの。『どっちが好き?』ってやつ」
 しかもえらくつまんない質問じゃないか。血液型や星座でないだけまだましか。
 マリはよく人に頼まれて文章を書いていた。かっこよく言うとフリーライターってやつ?になるのかもしれないが、本業はOLで、いつか物書きだけで食えるようになりたいと言っていた。
「決め付けるほうがラクなのよ。でもその答えは分かれ道なの。どちらかを選んだら引き返せない場所に行ってしまうのよ」
 マリはかなり変わっている。人としても女としても。
 それが文面に出るようになれば、かなりいけるんじゃないかとオレは思っている。でも教えてなんかやるもんか。オレは恵まれている人間を喜ばせてやる気なんかない。世の中そんなに甘くはないんだ。
「マリは男のどれをとる?」
「は?」
 オレはにっこりと笑って言った。
「顔?金?それとも頭?」
「そりゃ決まってるわよ」
 マリは画面からオレに顔を向けてはっきりと言った。
「手と指がきれいなオトコ」
「カラダですかい」
「そ。私の中での重要なファクター。それと匂いと触感ね」
「動物的だよね」
「そうよ。いいじゃないシンプルで。なんだっていちばん純粋なことが重要なのよ」
 マリは軽くのびをした。長い腕は天井に向けてしなり、反らした胴体は驚くほど細いが胸はたっぷりとあった。
「人間の持つ五感では私は嗅覚と触覚重視かな、いちばんはもちろん味覚だけどね」
 マリはキス魔だった。セックスはしなくてもキスが上手い相手とならそれだけでイケルと豪語していた。
 今の会話で何かの糸口をつかんだみたいにマリは猛然と指をたたきつけていた。速い速い。その様子を見ているだけでオレも仕事をしているような気になってくる。
 一日の時間の使い方がマリのような人間とオレではかなり違う。
 オレは携帯のメールさえも使いこなせない。世の女性が男に望む条件というやつをほとんど満たしていないと思う。将来的に考えると絶望だ。

 それにしてもオンナってヤツは分類項目が多すぎる。そしてなぜだかいちばんというやつをいつもきっちり決めているのだ。その対象がなんであっても、たとえ駄菓子屋のうまい棒でも、スーパーのマーボー豆腐の素でも、自分の中でランキングをつけてきっちり整理整頓しているんだ。
 マリの部屋はいつもごちゃごちゃで、掃除なんてまるでしていないけれど、そんなこと問題じゃないと思った。
 部屋がきちんと片付いて、いつもぴかぴかに磨き上げていても心の中はぐちゃぐちゃというのよりよっぽどいい。
 自分の中でいちばんのものを決めて、夢中になれていれば、周りなんてどうだっていいんだ。

 ソファから離れ、カウンターキッチンの奥の冷蔵庫から牛乳パックを取り出した。
 小さい鍋に水を少しだけ入れて火にかける。紅茶缶から茶葉を適当に鍋に入れて濃く煮出す。茶葉が開いたところに牛乳を注ぎ、砂糖と蜂蜜を入れた。仕上げにバニラビーンズを折って放り込むとすぐに甘い香りが漂い始める。沸騰して鍋の端に小さい泡が立ったところで火を止めた。茶漉しを使ってカップに注ぎいれると、片方だけにシナモンシュガーをふった。
 マリはスパイスが苦手だった。
「はいどうぞ」
「ありがとう。ちょうど飲みたかったんだ。嬉しいな」
 ひとから何かしてもらったらマリは必ずお礼を言う。
 ほんのちょっとしたことでもお礼を言うマリはおれの知っている女たちの中でも特別だ。「どういたしまして。召し上がれ」
 仕上がったミルクティーは満足のいく味だった。

3

 学生時代に俺を避けて悪口ばかりを言っていた人間が出馬した。
 どうやらお偉い政治家さんになるらしい。
 精神科のカウンセリングを受けている俺は今、どこにも属さずに、社会からはじき出されていた。そんな俺の同級生が国を動かす仕事をしているなんてやぶさかでない。
 最初その友人だった人間とは仲が良かった。相手のほうが気に入ってくれたらしく積極的に友人づきあいをしていた。が、しばらくすると俺から離れていき、俺を悪く言うようになった。俺の何かが鼻についたのだろう。教師やとりまきの友人たちにも俺を排除するような言動をとっていた。
 俺は友人と疎遠になってから成績が急に上った。教師たちと成績上位の生徒たちは態度を変えて接してきた。
 有力者の子供も大事だが成績が優秀な生徒も価値がある。たとえ俺が実は河童の子なんですと叫んでも、やわらかく聞かないふりをしてくれるようになっていただろう。
 その友人は不満な様子だった。気に入らない者は徹底的に踏みつけないと気がすまない激しい気性の持ち主で、どんな手を使ってでも負けるのは嫌だと公言していた。
 卒業する頃にはあからさまに避けられていた。見下された態度は変わらないままだった。
 その友人の爺さんが偉い政治家の後援会会長で、それで孫を政治家にしたかったというやつらしい。それは俺たちが生まれるずっと前から決まっていたことで、はじめから土俵は違っていたということだ。
 ああ誰か方舟を作ってくれないかな。
 まっさきに名乗りを上げて、この腐った国から新天地に逃げ出したいよ。









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