「七月の風」2
「どうです? 魚は獲れましたか?」 誰かが低い声で言いました。 声のする方を振り返ると、さきほどの麦わら帽子のおじさんが、ニコニコしながらタカシのすぐそばに立っていました。 「ほう…。ずいぶん大きいのが獲れましたね。」 男は、バケツを覗き込みながら言いました。タカシは得意げな顔で「うん。」と答えると、男が空を見ながらしていた仕草が急に気になってきましたので、「おじさん、さっきは、空を見ながら何をしていたのですか?」と、唐突に聞き返しました。 男は、ふいに聞かれて、ちょっと驚いたような顔で「ああっ バス停の前で会った時のことかい?」と言いました。 「そう。何か手帳に書き込んでいたでしょう?」 「ああ あれかね……。あの時は、空のコウドを計っていたんだよ。」 「えっ 空のコウド?。空の高さのことですか?」 「いや、コウドと言ってもね、高さの高度ではなく、硬さの硬度の方さ。空にも…正確に言えば…空の色にも硬さがあるんだよ」 「空に硬さなんてあるの?」 「もちろん…」男は、右のポケットからくしゃくしゃになった、タバコの箱を取り出し,くの字に曲がった一本に火を付け、勢いよくフーッと空に青い煙を吹きかけると、そちらの方へ目を遣りながら、「こうしてね、いいかい、タバコの煙を空に溶かして、その色との対比で空の彩度を計るんだ。次にね、煙の立ち昇る速さで空の密度を求めてね、ええーと、いいかい、彩度と密度の値を掛け合わせ、その積を太陽光不透過率で割れば、目的である空の硬度が求められるわけです。つまり、彩度を A と置き、密度を B と置き、不透過率を C とすれば、硬度 X は、X=A×B÷C という簡単な等式で表せるんだね」 男はタカシのとまどったような顔を見ながら、「あなたも、誰かに聞いたことがあるでしょう?」と、ニッコリしながらいいました。 タカシは「ああ…ええ…」と、あやふやな返事をしました。 「まあ、今日の彩度は8.5、密度は1.6、不透過率.は1.6ですから……硬度は8.5になりますか……七月にしてはかなり硬いほうですね」男はうまそうに一息煙を吹きながら言いました。 「でも、空の硬さなんか計ってどうするんですか?」 「そうですね。空の硬さなど、あなたがたの世界の人達にはほとんど関わりないことでしょうね。けれども風や雲や虹たちにとっては、とても大切なことなのです」 「ふうん、よく分からない…」 「あなたがたには見えないでしょうが、この大空の中には、透明な生物たちがさまざまに棲んでいるのです。そして、彼らにとっての空の硬度は、あなたがたの世界で言えば気温や気圧のようなものに相当するのです」 タカシは、賢治君のお父さんの言葉が頭の隅に有ったので、「その生物って、もしかして太陽のエネルギーが形をかえたものじゃないですか?」と、少し口篭もりながら言いました。 「ほう、よく知っていますね。……そのとおりです。風だって、雲だって、カミナリだって、太陽のエネルギーが形を変えたものと言う意味では、あなたがた人間……いや、動物植物全てを含めた生物一般と同格のものですからね」 タカシは自分が想像していた“透明な生物”と,男があげた“透明な生物”のイメージが多少違っていたので、「おじさん,そう言うのじゃなくて、本当の生物はいないの?」と、 ちょっとがっかりしたような顔をしながら聞きました。 「本当の生物?……。あなたが言う本当の生物って、たとえばどう言うもの?」 タカシは急に聞かれまごついた様子で、「それは…ええと…。犬とかライオンとかカラスとか……。」と、答えました。 「ほう、犬とかライオンね。でも,本当の生物って一体何だろう……。あなたはどう思います?」男はタカシの顔を覗き込むようにしながら聞きました。 「本当の生物って……。自分で動いて、呼吸したり、食べたり、眠ったり………」タカシは改めて聞かれて、言葉に詰まってしまいました。 「それじゃ、草や木は生物ではありませんか?」 「ああ,そうだ。花を咲かせたり、実がなったりするのも生物です」 「では、石や水や空気はどうですか?」 「それは生物じゃありません。」 「どうして?」男は穏やかな声で聞きました。 「どうしてって、自分では動かないし、ええと……。」 「そうですね、確かに学問的に言ったら、石や水や空気は生物とはいえませんね。生活現象をまったく見せませんから。そしたら、目的を持った動きをするもの…つまり“意思の有るもの”ですね、さあ、これはどうでしょう?」 「それは生物だとおもいます。」タカシは、今度はよどみなく答えました。 男は、タバコに火を付け空を見上げながら話しました。 「難しい話になりますけど……。この宇宙は、百五十億年以上も昔には、針の先よりももっともっと小さい点だったそうなのです。それが今日では、一秒間に三十万キロメートルも進む光の速さで走っても、はしからはしまで百五十億年以上かかる気の遠くなるほど巨大な宇宙空間になって、私達もこうしてここに生存しているわけなのですが……どうです、誰が私達生物をこの百五十億年の間に発生させたのでしょう? 私達は果たして自分達の意思で発生したのでしょうか? もちろん、最初から人間と言う形で突然発生したのでなく、より原始的な生命体から進化してきたのですが、その原始的な生命でさえ自分の意思で発生した訳ではないでしょう?」 男は、タバコを一息大きく吸い込むと、青い空に白い煙の輪を ポッ と一つ作りました。タカシが何気なく男の足元を見ると、昨夜の雨でできた小さな水溜りの中で、一匹の甲虫が六本の脚をバタバタさせて溺れかけていました。男もそれに気付いたらしく、緑黒色に光るその甲虫を、そっと摘んで手のひらに載せ、「それなら誰がバクテリアやこんな昆虫を造ったのでしょう?」と言いながら甲虫を、そっと草はらの上に放してやりました。 虫は、二・三度羽をばたつかせたかとおもうと、Sの字を描いて真っ青な空に飛び立ちました。 「どうですか?」男は虫を目で追いながら聞きました。タカシは、そんな事は考えたこともなかったので、即座に答える事はできませんでした。すると、男は相変わらず虫の行方を追いながら「それを造ったのは宇宙だと思います。宇宙自身が自分の意思で造り上げてきたのだと思います。その証拠に石も水もこの空気も私たちの体と全く同じ原子や分子やからできているんですよ。なんのまやかしもありません」と付け加えました。 「さきほど、あなたは意志あるものは生物だと言いましたね。そう言った意味ではこの宇宙は立派な生物と言えるのですね。……どうですか?」男は“どうですか”を口癖のようにくりかえしました。 「たぶん……そうじゃないかと思います……」タカシは、分かったような分からないような中途半端な気持ちで、あやふやな返事をしました。 賢治君のお父さんのような変わった人が他にもいるんだな。と思いながら、「それじゃ、さっき言っていた空の硬度を測るのが、おじさんの仕事なの?」と思い直したように言いました。 「いや。仕事と言うことでもないけれど、自分と言う者に気付い時から、こうしてずっと今までタバコの煙を空に吹き続けているんです。」 「いつから?」 「とにかく、気付いた時から……」 「それなら、いつまで?」 「いつまで?……ああ、それは私自身にも分かりません……」タカシは、おじさんがきっとふざけて自分をからかっているに違いない、と思いましたので、「毎日、空ばかり見ていて飽きないの?」とぶっきらぼうに聞きました。 男はニコニコしながら「そんなことは無いよ。皆が何もいないと思っているこの空間に棲んでいる生物たちと毎日話をしたり、彼らの歌声を聞いたりすることは、とても素敵なことですよ。ほら、今あそこの雲の峰を越えていった鳥の後ろからなびいているレースのような航跡が、キラキラと輝いてみえるでしょう?」 タカシはいくら目を凝らしても、鳥以外何も見えませんでしたので、「なぜ僕には見えないの?」と聞きましたが、男はタカシの方を向くことも無く話を続けました。 「いいですか。目だけで物を見てはいけません。この広い世界には、目をふさいだほうがよく見える物もあるのです」 タカシは何のことか分からず、ぼんやりと小川の方を見ました。水面は大空や雲や太陽をそのままに映し出しています。一匹の鮒が、ぽしゃんと跳ね上がり、川面に沢山の波紋を残しました。波紋は綺麗な同心円を描いて、太陽系のように静かに静かにひろがりました。 「御覧なさい。南の空に太陽が輝いていますね。星座はみえますか? 今は七月ですから太陽が光っているのは、獅子座辺りのはずです。レグルスやデネボラの光も確かに届いているはずなのに、太陽の強すぎる光のためにかき消されていて私達の肉眼では見えないでしょう。けれども、こうして目を閉じて心を静かにしていると、まぶたの裏に立派な獅子や蟹や乙女が浮かび上がってくるでしょう? これはけっして幻想ではありません。見えない実在を心のフィルターを通して確かに見ているんですから」 男はいつのまにか草の上に腰を下ろし、静かに目を閉じていました。横の田んぼの畔にはピンクと白のコスモスが、昼寝をしているかのようにこっくりこっくりしています。 男は相当のタバコ好きらしく、ズボンのポッケトから緑色したタバコの箱を取り出し、またスパスパやりはじめました。煙は緩やかな螺旋を描いて空に溶けて行きました。 タカシは男の話にやや飽きてきたらしく、稲の葉のような形のとがった草の葉で、バケツの中の鮒の横腹をつついたりしています。男はそのバケツを覗きながら話し続けました。 「あなたが今遊んでいるその鮒から見たとしたら、バケツや水やその草やもみんな自分と同じ、“生物”として感じているかもしれませんね。……いや、物を生物とか無生物とか分けて見るのは、ひよっとして人間だけなのかもしれませんね。……しかし、その聡明なはずな“人間”と、いうものほど他の生物の生命に無頓着なものも無いようですね。」 男は言い終えると、フーッと深い息を一つしました。 「それじゃ、私はこれから行く所がありますので。……さようなら……。」麦わら帽子の爽やかな匂いを残して、いつのまにか男は消えてしまいました。