5/31NHKプロジェクトX:プロジェクトX「世界を驚かせた一台の車」~名社長と闘った若手社員たち ―執念の逆転劇
米国の自動車の排気ガスの有害物質を1/10に減らすという実現不可能と思われたマスキー法を1972年に世界で初めてクリアしたホンダのCVCCエンジン開発の物語です。その後有害物質は1/100にまで削減され、マスキー法やCVCCエンジンは環境問題に大きく貢献しました。プロジェクトX初期の作品らしく力強く熱気にあふれ、一流の人物が登場し、昭和40年代のホンダがわかり、おすすめの感動的な作品です。CVCCエンジンがすごいことはわかっていましたが、具体的にどうすごいかはわかりませんでしたが、この作品を観てちょっとわかった気がします。このエンジンは、物資不足に悩むソ連のエンジンをヒントに作られたそうです。米国での環境規制試験でのアクシデントへの対応は神がかっていると思いました。またこのエンジン開発を機に本田社長が引退された理由もわかり、ホンダの社風をあらためて理解し、すごい会社だと思いました。カリスマ経営者が引退すれば一気に崩れる会社もある中で、さすがです。ホンダなので関連動画は豊富にありました。自分でもまだ全部観てませんが、掲載しておきます。■参考リンクプロジェクトX4Kリストア版 選「世界を驚かせた一台の車」昭和40年代、世界が驚く低公害エンジンを開発したホンダの技術者たちの熱きドラマ。若手と社長・本田宗一郎が激しく衝突。F1レースで培った技術が決め手の一つになる。昭和45年、アメリカで大気汚染防止の法律が改正。一酸化炭素などの排出量を10分の1以下にすることが盛り込まれた。ビックスリーもさじを投げるほどの厳しい基準。初めてクリアしたのはホンダが開発したCVCCエンジンだった。人気車種に欠陥が見つかり、会社存亡の危機にあったホンダは「低公害エンジンプロジェクト」に社運をかけていた。若手技術者たちが社長の本田宗一郎と衝突しながら画期的なエンジンをつくり上げる。【出演】中嶋悟,毬谷友子,【司会】国井雅比古,久保純子,【語り】田口トモロヲWikipedia:CVCCCVCC(シーブイシーシー、Compound Vortex Controlled Combustion)とは、1972年に発表した本田技研工業の低公害エンジンである。複合渦流調整燃焼方式の略称。概要CVCCは、リーンバーン(希薄燃焼)させることで排出ガス中の有害物質を少なくする技術である。混合気をリーン(希薄)にしていくと、排出ガス中の有害物質を低減できるが、逆に失火しやすくなり、生ガスによる有害物質が増えてしまう。そこで、副燃焼室専用の吸気バルブ、専用のインテークマニホールド、専用のキャブレターを持ち、副燃焼室に通常よりリッチ(濃い)な混合気を導入し、点火プラグで確実に着火させ、トーチ孔からの燃焼火炎で主燃焼室のリーン混合気を燃焼させる。これにより排出ガス中の有害物質が低減される[1]。この副室式燃焼室は、燃料供給や着火方法こそ異なるが、予燃焼室式や渦流室式といった熟成されたディーゼルエンジン技術の応用である。CVCCについては、旧ソ連の副室式エンジンに関する技術論文に基づいている。排出ガス対策の種類としては、エンジン本体の改良で有害成分を少なくする技術を「前処理」、排出ガスを触媒などで低減する技術を「後処理」と呼んでいる。これは当時、酸化触媒ではエアポンプやリードバルブによる酸素の供給が必要だったり、経年変化により処理能力が落ちるため、内部のペレットを定期的に交換する必要があるなど、課題が多かった。そのため、ホンダでは前処理方式を選択した。当初は触媒を使用しなかったので、有鉛ガソリンの使用も可能だった。開発過程元々の研究開始は、1966年に本田技術研究所内に「大気汚染対策研究室」、通称「AP研」(APはAir Pollutionの略)が設置されたことに遡る[2]。同年に行われた日本自動車工業会によるアメリカ視察旅行に参加したホンダの技術者が、当時の米国での排出ガス研究の状況を目の当たりにし、かねてから大気汚染研究の必要性を訴えていたメンバーと共に、当時の所長だった杉浦英男に研究室の設置を要望し認められたのがきっかけとなった[2]。元々本田宗一郎は、研究開始当初から「既存のレシプロエンジンの改造レベルで対応できる技術」の開発を求めていたこと、また有害物質である一酸化炭素(CO)・炭化水素(HC)・窒素酸化物(NOx)の3つを同時に低減するには希薄燃焼しかないという考えから、東京大学教授の浅沼強の指導の元さまざまな研究を行っていた[3]。そのアイデアの一つとして副燃焼室式の採用が持ち上がり、既にホンダでは汎用エンジンとして副室式ディーゼルエンジンを製品化していたことから、まずはそれをガソリンエンジンに改造しての基礎データ取りから始まり、後にN600用エンジンを単気筒化した改造エンジンでの実験へと移った。また当時ホンダには実験用に使える自社製の水冷エンジンがなかったため、日産など他メーカーのエンジンを使っての研究も行われた[4]。1971年2月に開発成功が公表されるが、実はこの段階では燃料供給方式がまだ決まっていなかった[5]。また特許申請も途中だったため、「CVCC」の略称も「名前から構造の一部でも分かるようなことがあってはならない」との理由から決められた[5]。その後シビックへ搭載した上でマスキー法をクリアするためには2リッターのエンジンが必要になることが判明したため、そのための実用エンジン開発を急ピッチで進め、1972年10月の正式発表に至った。CVCCに対する評価当時世界一厳しく、パスすることは不可能とまで言われた米国のマスキー法という排出ガス規制法(1970年12月発効)の規制値を、最初にクリアしたエンジンである。その功績により「CIVIC CVCC」はSAE(米国自動車技術者協会)の月刊機関誌(『AUTOMOTIVE ENGINEERING』)上で20世紀優秀技術車(Best Engineered Car)の1970年代優秀技術車に選ばれた[6]。当時社長であった本田宗一郎はCVCC開発の報を聞き大幅な売上が見込めると大喜びしたが「排気ガス問題を減らし、少しでも空気が綺麗になるように願って開発したものであって、社の売上に貢献するためではない」と開発陣からの主張を聞き、本田は反省した[7]。社団法人自動車技術会 (JSAE)の「日本の自動車技術180選」の「ガソリンエンジン」部門で、「マスキー法を後処理(エアポンプや触媒等)なしでクリアできる最初のエンジンとしてアメリカ合衆国環境保護庁 (EPA) より認められた複合渦流調速燃焼方式」として選出されている。2007年に、日本機械学会が創立110年を記念し制定した機械遺産(6号)に、「日本の排出ガス低減技術を世界のトップに引上げた歴史的な機械」として認定されている。その後、触媒技術やエンジン本体の燃焼解析技術の進歩により、CVCC以外のエンジンでも排気ガス浄化が可能になり、ホンダからCVCCの技術を導入し、研究や試験的発売もしていたメーカーは採用を止め[8][9]、世界的な流れには成りえなかった。長く採用していたホンダ自体も、排気ガス規制が強化されるにつれCVCCに触媒を追加し、さらにその後にはCVCCの採用を止めている。歴史1973年12月12日に、CVCCをシビックに搭載し発売。1980年4月25日に、CVCC-IIをアコードおよびプレリュードに搭載し発表。副燃焼室の位置を中央よりに変更、トーチ孔を多孔化したセンタートーチ燃焼室と、希薄混合気とEGR(排気ガス再循環)の比率を走行条件に合わせたラピッドレスポンスコントロールシステムを採用、燃費効率向上を実現。1981年10月29日に、新ファンネル型燃焼室を採用し、超ロングストロークで高い燃焼効率を実現したCOMBAX(COMpact Blazing combustion AXiom:高密度速炎燃焼原理)エンジンを、シティに採用。1982年11月25日に、コンパクトなルーフ型主燃焼室とB・Cトーチ(Branched・Conduitトーチ:分岐トーチ)により高圧縮比9.4を達成したエンジンを、プレリュードに搭載し発売。※CVCCおよびその派生型エンジンは、1970年代・1980年代のホンダ製の自動車のほとんどに搭載された。Wikipedia:エドマンド・マスキーエドマンド・シクストゥス・"エド"・マスキー(英語: Edmund Sixtus "Ed" Muskie, 1914年3月28日 - 1996年3月26日)は、アメリカ合衆国の政治家。メイン州選出上院議員、第64代メイン州知事、ジミー・カーター政権で第58代アメリカ合衆国国務長官を務めた。上院における最初の環境保護論者として有名である。1968年アメリカ合衆国大統領選挙での民主党の副大統領候補であった。人物上院議員時代には大気汚染防止法を提出し、同法案はマスキー法として知られた。1970年にカリフォルニア州大気資源局によって制定されようとしたが、1974年に廃案となった。自動車の排気ガス量を10分の1に削減するという法案で、この法案の提出・制定の動きは日本の自動車業界にも大きな影響を与え、その後自動車開発における環境保護の重要性が認識されるようになった。マスキーは1968年アメリカ合衆国大統領選挙において民主党のアメリカ合衆国副大統領候補であった。1972年アメリカ合衆国大統領選挙では民主党のアメリカ合衆国大統領候補として考えられていた。しかしベトナム反戦を正面に掲げたサウスダコタ州選出のジョージ・マクガヴァン上院議員候補に勢いを奪われ、アイオワ州の党員集会とニューハンプシャー州での予備選挙では小差で勝利したものの、その後の各州での予備選挙では振るわず、結局民主党の指名はマクガバンに敗れた。保守的な新聞が夫人のジェーンの喫煙などを批判し、マスキーが涙を流したことが敗北の原因と考えられているが、マスキーは後に屋外でのコメントだったため解けた雪が涙のように見えたのだと主張した(これ以降「大統領を目指す者は公の場で決して涙を見せてはならない」というのが選挙戦の不文律となった)。マスキーが大統領候補に指名されていたならばリチャード・ニクソンを破ることができたのではないかと考える者もいる。2023.11.21リンク切れにより差替え。