秋に咲くヒマワリ・・なのかもね。

2021/05/13(木)20:43

5/11NHK プロジェクトX:「国産コンピューター ゼロからの大逆転」と、田原総一朗 人間発掘スペシャル「アメリカに勝った男! 日本コンピューター界の隠れた巨人 激動の生涯」

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保険会社に入社して1年目に大型コンピュータの研修がありましたが、さっぱりわからず、せっかく書いたプログラムにコンピュータがうんともすんとも反応してくれず、苦労したものでした。そういえば当時はプログラムはタイプライターみたいなので、カードに打ち込んでいました。 富士通の池田敏雄氏のIBM互換機の開発の物語です。それほど期待してませんでしたが、すごくワクワクして面白かったです。一流と言われる人物の生涯をたどるのは楽しいです。お生まれが私と同じ両国と知りびくり。 こういう上司が、30,40年前の昔は、会社にごろごろいましたが、今はなかなか周りに見かけません。 YouTubeで、田原総一朗 人間発掘スペシャル「アメリカに勝った男! 日本コンピューター界の隠れた巨人 激動の生涯」というのを見つけました。プロジェクトXがダイジェストとしたら、こちらが本編と思えるくらい、よくできています。こちらもお勧めの作品です。 なお、山本 卓眞富士通元名誉会長も作品に登場されていて、興味を持ちました。プロジェクトXが復活したらぜひ取り上げてほしいです。 ■参考リンク 5/11NHK プロジェクトX:「国産コンピューター ゼロからの大逆転」 昭和49年、一台のコンピューターが世界中を驚愕させた。富士通が開発した国産コンピューター「M190」。世界最速の演算速度を実現し、あのIBMの性能を凌駕(りょうが)した。リーダー池田敏雄は、後にミスターコンピューターと呼ばれた男。「挑戦者に無理という言葉はない」がモットー。会社には行かずあらゆる場所で開発に打ち込んだ。トンカツ屋、駅のホーム、若手たちと議論を戦わせた。そして完成間近、思わぬ事態に… 【アナウンサー】国井雅比古,膳場貴子,【語り】田口トモロヲ FACOM M-190(1974年):富士通 【富士通】 FACOM M-190 - コンピュータ博物館 - 情報処理学会 【富士通】 FACOM M-190 富士通の汎用機FACOM Mシリーズの最初の機種.大型FACOM M-100シリーズの最上位を占める超大型機で,通産省の補助金を受けて開発され,1974年11月に発表された.翌年の1975年11月の日本電子計算機ショウで,各社が補助金を得て開発した成果が披露された際,本機はLSIコンピュータとしてその性能の高さとコンパクトさが注目された.その後も性能の高さが世界で評価され,FACOM Mシリーズ成功の基礎を築いた.なお,大型FACOM M-100シリーズの機能詳細は「大型FACOM M-100シリーズ」の項を参照されたい. FACOM M-190は,同時に開発された姉妹機であるAmdahl 470/V6と共に,世界初の全面LSI採用の超大型コンピュータである.Amdahl 470/V6は,アムダール社(注1)の超大型コンピュータとして富士通が製造を担当し,1975年にその1号機がアメリカ航空宇宙局(NASA)に納入された.このことは日米で大きな話題になった. (注1) 当時,富士通は米国のアムダール社に資本参加し,両社はLSI採用の超大型コンピュータの共同開発を行っていた. Wikipedia:池田敏雄 池田 敏雄(いけだ としお、1923年8月7日 - 1974年11月14日)は、日本のエンジニアで、日本のコンピュータ開発のパイオニア。1970年から富士通役員を務め、死後に専務を贈られた[1]。正五位勲三等。 日本の汎用機黄金期を築いた業績から、没後に“富士通の池田敏雄・NECの水野幸男”と双璧として譬えられることも多い。日本のコンピュータ産業の父である。 アムダールとの提携 1969年に尾見の人脈によって池田はIBMのコンピュータ設計者であるジーン・アムダールとアメリカで会談した[29]。アムダールは次期開発で前例の無いMSIを搭載する方針についてIBM上層部と対立が生じており、最終的にアムダールは独立してアムダール社を立ち上げた[29]。池田は1970年に47歳で富士通の役員になり[1]、それまでの独自規格のコンピュータからIBM互換機へ転換を行った。社内でも賛否が分かれたが、日本のコンピュータ貿易が自由化される見通しとなりIBMへの対抗策として決定された[30]。さらに通産省の平松守彦の指導の下で、いわゆる三大コンピューターグループの編成が行われ、富士通は日立と業務提携しIBM互換機「Mシリーズ」の開発を行った[31](この辺の経緯は、田原総一朗 人間発掘スペシャル「アメリカに勝った男! 日本コンピューター界の隠れた巨人 激動の生涯」で詳しく紹介されている[32](平松自身の証言も収録されている))。 1972年、富士通はアムダール社に出資を行い資本に参加した[33][34]。当初は経営には関与せずに資金と技術ライセンスで協力する予定だったが、開発が遅れて資金不足になると富士通は計画の見直しを要求した。アムダール社は経営介入に反発したが1974年4月には池田がアムダール社の役員となり、日米を往復して問題の対処を行った。7月には経営コンサルタントのユージン・ホワイトがアムダール社の社長になり、製造は富士通に委託され、10月頃には完成の見込みがついた[35]。11月10日、池田はカナダの提携先の社長を羽田空港で出迎えている際にくも膜下出血で倒れ、その後は意識不明のまま14日に51歳で亡くなった[36]。富士通のIBM互換機FACOM M-190は1週間後に発表され、5年間で500台以上を売り上げた[37]。姉妹機の位置づけになる[38]アムダールのAmdahl 470/V6 も1981年までに累計で600台を出荷した[37][39]。 Wikipedia:山本卓眞 山本 卓眞(やまもと たくま、1925年9月11日 - 2012年1月17日)は日本の陸軍軍人、コンピュータ技術者、経営者。勲等は勲一等瑞宝章、藍綬褒章、大英帝国勲章。 人物 池田敏雄のチームでソフトウエア開発担当としてFACOMの開発に係わるなどの功績を挙げ科学技術庁長官賞(科学技術功労者表彰)を受賞[1]、後に富士通の社長(9代目)・会長・名誉会長を歴任した。米IBMとの著作権紛争をはじめ、半導体やスーパーコンピュータをめぐる日米貿易摩擦でも一歩も引かない気骨を見せたことから、「闘う経営者」と呼ばれた[2]。 実兄の卓美が八紘第八隊(勤皇隊)隊長としてフィリピンで戦死しており、戦争遺族の活動にも積極的に参加した。日本会議の副会長や「佐藤正久を支える会」会長なども務めた。

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