秋に咲くヒマワリ・・なのかもね。

2021/12/14(火)22:45

ベルトクイズQ&Q(TBS、1969.6-1980.2):増田貴光、押坂忍

TVラジオ番組 television & radio programs(386)

小学生のころ、増田貴光さんという若くてかっこいい方がいて、テレビタレント兼映画解説者として大活躍でした。 ところが私生活のトラブルや事件やらで忽然とテレビ界から去っていきました。久々に思い出して、Wikipediaを見ると、慶大法卒、南カリフォルニア大に留学し、在学中から映画評論の仕事をこなし、日航勤務、モルモット吉田氏によれば淀川長治氏、三島由紀夫氏とのかかわりとか、かっこいいだけでなく、優秀な方だったようです。 せっかく成功していたのに非常にもったいなかったと思います。 どんな映画評論をされていたのか読んでみたい気もします。 ベルトクイズQ&Qや土曜映画劇場など増田貴光さんの映像はYouTubeにはありませんでしたが、押坂忍さんのは、時間ですよの番組中の番組という設定で、昭和viewさんが発見されています。 押坂さんはもともと、NETのアナウンサーだと知り、ちょっとびっくり。 今更ですが、ベルトクイズの「ベルト」の意味が、Wikipediaを読んでわかりました。 dailymotion:ベルトクイズQ&Q オークション落札商品 中古:ヤフオク◆NHK販促用ハガキ 小林幸子・増田貴光『チャンスだピンチだ』◆ ■参考リンク 昭和view:ベルトクイズQ&Q(1969年6月〜) 2017.07.07 19:30映画について書く・語るという行為は新たな時代に突入しているーー『映画評論・入門!』モルモット吉田インタビュー:幻の映画評論家・増田貴光 Wikipedia:ベルトクイズQ&Q 『ベルトクイズQ&Q』(ベルトクイズ キューアンドキュー)は、1969年6月30日から1980年2月29日までTBS系列局で放送されていたクイズ番組である。 概要 月曜から金曜の週5日間、毎日正午から放送されていたクイズ番組。タイトルは、月曜から金曜に放送されるベルト番組(帯番組)であることに由来する。1970年3月まではTBSと朝日放送が曜日別という製作で、水曜放送分のみ朝日放送が、それ以外の曜日は全てTBSが担当するというスタイルだったが、同年4月以降は5つ全ての曜日でTBSが担当するようになった。 クイズは対戦勝ち抜き早押しクイズと、高額賞金をかけた「ミリオンステージ」(当初は「ラッキージャンプ」、のちに「ミリオンステージ」を経て「ボーナスチャンス」になる)の2本立てであった。番組開始時には公正取引委員会(公取委)による賞金制限が無かったため、最高賞金額を270万円(当時のラッキージャンプ全3問正解の場合)に設定していたが、公取委がいわゆる「100万円ルール」を制定したのを受けて100万円に改定した。 7月中旬から8月末までは「夏休み子供大会」、12月下旬から1月上旬までは「冬休み子供大会」が設定され、小中学生の出場があった。それぞれの大会で、休みの終わり(新学期の始まり)に伴い、子供大会は終了になったが、後にルールが変わり、次の回の子供大会にも引き続き出場可能と成った。この子供大会は、後継番組『スーパーダイスQ』でも引き続き行われていた(このときは「小学生親子大会」「中学生大会」「大学生大会」なるものもあった)。 出演者 司会は当初、映画解説やラジオの深夜放送の司会で頭角を現していた増田貴光が務めていたが、1971年7月末に番組の収録中に体調不良を訴えて突然降板した。そのため、その後しばらくはアシスタントの円木紀久美が単独で司会も兼任していた。そして同年9月からは椎名勝己が、1972年5月からは押阪忍が司会を務めていた。 出題は『クイズタイムショック』(NETテレビ → テレビ朝日)の出題者でもある矢島正明が一貫して担当。矢島は押阪時代末期に限ってオープニングの挨拶で顔出ししていた。矢島がレギュラー番組で顔出しするのは、1969年から1972年までNHK総合で放送されていた子供向けのクイズ番組『チャンスだピンチだ』(「ドン・ズバリ」名義)に次いでこれが2つ目であり、しかも初代司会者の増田貴光が同番組でも司会を務めていた。 Wikipedia:増田貴光 増田 貴光(ますだ たかみつ、1941年6月14日[1] - 2015年4月2日[2])は映画評論家、司会者、実業家。元モデルで、『MEN'S CLUB』に登場したこともある。本名:増田元臣。東京府東京市本郷区(現在の東京都文京区本郷)出身。 経歴・人物 東京本郷で3代続いた看護婦家政婦紹介所経営者の家庭に生まれる。幼時に父を亡くし、母と姉に育てられた。 慶應義塾大学法学部在学中から増田貴光の筆名で「映画の友」に映画批評を寄稿。「ヴィスコンティの美は禁色にあり」と題するコラムを目にとめた三島由紀夫から手紙を貰い、以後三島と親交を結んだ。1970年に三島が自決すると「ぼくは三島先生に殉死したい」[3][4]と語ったこともある。 大学卒業後、日本航空に入社するも1年で退社し渡米。南カリフォルニア大学ジャーナリスト科に留学し、アメリカ合衆国の映画情報を日本に送る仕事に携わる。アメリカ合衆国滞在時代にはハリウッド・ゴールデングローブ映画祭審査員を務めたこともあった[1]。 日本に帰国した後、映画評論家としてデビュー。1970年から『土曜映画劇場』(NET(現・テレビ朝日)) の映画解説者として人気を博し「第2の淀川長治」と呼ばれ、カメラ目線でテレビの前の視聴者に「来週もまた、あなたとお逢いしましょう!」の決めゼリフ(「あなたと」のところで、カメラに向かって指をさすポーズをとる)が話題となった。その後、和田誠から「あんな気持ち悪い奴に指差されたら腐乱しちゃう」と批判されてこのポーズをやめた経緯がある。 映画解説だけでなく『ベルトクイズQ&Q』(TBS)の初代司会者(この番組でも「明日もまた、あなたと…」の決めゼリフがあった)としてお茶の間に知られ、『スクリーン・クイズ』(ニッポン放送)[1]や『パックインミュージック』(TBSラジオ)の初代パーソナリティなどラジオDJとしても活躍。またクラウンレコード専属歌手として「夜の虫」「こころの傷」などのレコードを発売するなど人気を得たが、1974年6月に『土曜映画劇場』の解説者はじめ、レギュラー番組をすべて降板、ブラウン管から忽然と姿を消す。その理由について「週刊文春」は「睡眠薬(ハイミナール)中毒によるもの」と報じている[5]。

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