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秋に咲くヒマワリ・・なのかもね。

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2022.07.07
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カテゴリ:旅行 Travel
京都旅行の2日目、比叡山に午前中行って、飛行機まで時間があったので、昨日行けなかった祇園方面に行ってみました。

本当は前日に祇園に行って、どっかのスナックに入ってはんなりした京都弁の女性と会話して帰ってこようと思っていました。しかし結構歩いて疲れた上に、バス停の女性や、バス案内所・西本願寺の売店・京都文化博物館の女性と用件だけですが会話したり、電車に乗れば大人も子供もみんな京都弁話ししてるのを聞いて、にわか京都弁フェチとしては胸がキュンとなり大満足で、スナック行きはもういいやとなりました。ただ、祇園で舞妓さんや芸妓さんをみてみたいと思い、行ってみました。祇園まではたどり着けませんでしたが楽しい町です。


地下鉄を上がりちょっと歩くと、先斗町です。これがお座敷小唄に出てきた先斗町かと、狭い路地を歩くと様々なお店があり楽しいです。
これまでずっと先斗町は「ぼんとちょう」と思い込んでましたが、「ぽんとちょう」が正しいと今回知りびっくり。
注ぐと凍るみぞれ酒というのが気になりました。一度飲んでみたいです。
納涼床でいつか食事したいです。


南座のようです。上演が終ると役者さんたちは祇園に繰り出すのでしょうか。


いつかこの立派な東華菜館で中国料理を食べたいです。

東華菜館


鴨川に二羽の水鳥がいました。


松尾和子&和田弘とマヒナスターズのお座敷小唄は、小学生のころ歌った記憶があります。今、改めて聴くとデュエットとしても完成されたいい歌だと思います。



■参考リンク
Wikipedia:祇園
概要
現在の八坂神社は明治以前は祇園社(ぎおんしゃ)と称し、鴨川一帯までの広大な境内地を保有していたため、この界隈のことを祇園と称する(「祇園」の語源については祇園精舎を参照)。その鳥居前町は元々は四条通に面していたが、明治以降に鴨川付近から東大路通・八坂神社までの四条通の南北に発展した。[2]舞妓がいることでも有名な京都有数の花街であり、地区内には南座(歌舞伎劇場)、祇園甲部歌舞練場、祇園会館などがある。現在は茶屋、料亭のほかにバーも多く、昔のおもかげは薄らいだが、格子戸の続く家並みには往時の風雅と格調がしのばれる。北部の新橋通から白川沿いの地区は国の重要伝統的建造物群保存地区として選定、南部の花見小路を挟む一帯は京都市の歴史的景観保全修景地区に指定され、伝統ある町並みの保護と活用が進んでいる。また、鴨川を西に挟んだ対岸には三条通から四条通にかけて花街のである先斗町があり、夏期頃には先斗町のお茶屋、料亭、各レストラン、バーが鴨川納涼床を設置し風流な光景が広がる。

Wikipedia:お座敷小唄
お座敷小唄(おざしきこうた)は、1964年、和田弘とマヒナスターズと松尾和子が発売したシングル。
本項では1965年に発売されたシングル「続お座敷小唄」についても記載する。
概要
1964年2月か[1]、3月末[2]、和田弘とマヒナスターズが広島に巡業したとき[2][3]、御大の和田弘が、広島市の歓楽街・流川の「花」というスタンド(スナック)で[1][2]、ホステスと地元のお客が一緒に歌っていたこの曲を無断で採取[2][3][4]。宿で寝ていた松平直樹を電話で呼び寄せて検討させたと書かれた文献もあるが[5]、和田は「東京に持ち帰り、私と松平君と(編曲の)寺岡真三さんとで明るいドドンパ調にアレンジした」と話している[4]。広島の店の女たちは「赤線の歌だ」と言っていたといい[2]、歌詞はもう少し際どかったという[4]。和田らはドドンパのリズムに乗せてモダン化し、松尾和子を加えてレコーディング。「作詞不詳、作曲 陸奥明、編曲 寺岡真三」[1]「和田弘採譜 寺岡真三編曲」クレジットで[2]、日本ビクター(現:JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)より発売されると東京オリンピックをはさんで大ヒット、レコード売り上げは1964年中に150万枚を越え[1][2]、ロングヒットとなり1965年までで、累計250万枚を記録し[5][6]、当時のレコード売上げの新記録を作った[1]。発売元の日本ビクターは「レコード業界空前の大ヒット」と豪語した[2]。当時発売されたシングルレコード(日本ビクター SV-77)のジャケットでは、歌手名が「和田弘とマヒナ・スターズ、松平直樹、松尾和子」と記載されている。
製作
第一番の歌詞は、
富士の高嶺に降る雪も京都先斗町に降る雪も雪に変わりはないじゃなし 溶けて流れりゃみな同じ
であるが、和田が広島で最初に聞いた歌詞は「雪に変わりが有るじゃなし」だった[3]。しかしメロディに乗せやすいという理由で「ないじゃなし」に改訂した[3]。ファンの間から「意味不明」「誤用だ(「ないじゃなし」では「ある」という意味になる)」などと投書が殺到したが[3][4]、元歌をドドンパ調に編曲したことと並んで、歌詞の論理よりムードに徹しようとした彼らの意図が、重要なカギとなった[3]。
論調
日本ビクターの幹部は「当世風にドドンパに編曲したのが成功の因。三味線でやってたらウケなかったと思う。ムード歌謡仕立てでパチンコ店よし、バーよし、キャバレーよし、クラブのハモンドオルガンにだって立派に乗る。メロディになんともいえない親しみがある。もう一つは歌詞。バカな話だけど"妻と言う字にゃ勝てやせぬ"とか"唄の文句じゃないけれどお金も着物もいらないわ"といった風に七五調で歌いやすい。即席でも替え歌は自由にやれる。結果的には曲も歌詞も今の時代にピッタリで、古いものに新しい飾りを付けたことがヒットの原因と思う」と述べた[2]。日本コロムビアの幹部は「歌詞なんか明らかに時代逆行ですから、ブームは正直いって意外でした。マヒナの魅力もあるが、何といってもテレビを通じて家庭に入り込んだことが大きい。お座敷とはいいながら、お座敷族よりも、むしろバー族の若いサラリーマンに受入れられているようです。不景気には詠嘆調でセンチな歌がはやるということでしょう」などと述べた[4]、評論家・加太こうじは「一日中、マージャンをやってるんだが、マージャン屋の隣がバーで、夏ごろから午後6時から12時までの営業時間中、たっぷり3時間は『お座敷小唄』をかけ続けるから覚えちゃったよね。リズムがドドンパで、調子が投げやりでしょう、不景気ムードにはマッチした歌ですよ。浮世離れした情緒の歌詞から突如現実感のあるヤケッパチな文句に転化する歌詞が実にうまく出来ている。ウヌボレ歌というか、現実のウサを晴らす、ふだん肩身の狭い思いをしている人たちには何ともいえない。安酒場にはもってこいのエスケープ(逃避)の歌です」などと評した[4]。音楽評論家・安倍寧は「『お富さん』と同じ毛色で手をたたいて陽気に歌えるのがいいよね。日本人にはこれがピッタリなんだ。しかも歌詞が"ぼくがしばらく来ないとて"とか、マヒナの近代的な味、松尾の魅惑的な要素も絡まって、およそお座敷なんか縁遠い庶民も適度に遊んだ気分になる。それがウケたんじゃないか」などと論じた[2][4]。一橋大学教授・南博は「戦後、若い人はドライになったというが、日本人の心情には、この歌の持つセンチメントを受け入れる部分が、昔と変わりなくあるわけだ。『お座敷小唄』が当たったのは、こうした心情に根ざし、しかも替歌が作りやすく、仕事をしながらハナ歌でうたえる"ながら歌"であるからだろう。それにしても世の識者、教育関係者たちが『お富さん』のときのように目くじら立てて騒がないのは、マスコミ文化に対し感覚的に馴れてしまったためだろうか」などと論じている[4]。ニッポン放送制作部の池田憲一は「株は低調だし、北海道は冷害だし物価は日増しに上がる一方だし、どっちを見てもいいことはない。こういう不安な世相なときはナンセンス歌謡がはやるんです。庶民はやり場のないウップンを『お座敷小唄』に託していると思う」などと評した[2]。有線放送の東京ミュージックは「とにかく飲む雰囲気にはピッタリの曲ですね」と評した[4]。銀座山野楽器は「たいていのヒット曲はパッと出てパッとしぼむのですが「お座敷小唄」は息が長いです。歌詞にはずいぶん際どいところもありますが、曲のアレンジと歌い方がいいので、清潔に聞こえるんです。家庭にも入り込めるし、広い層に訴える力があるんです」と話した[4]。『週刊朝日』は「酒場の女性が"好きでお金も着物もいらないわ 貴方ひとりが欲しいのよ"の部分を"お金も着物もいらないわ 貴方ひとりがじゃまなのよ"などと替え歌で歌えば座が弾み、酒場にとっても不況対策にはもってこいの歌だった。またしばらくこれといった浮かれ節がなかったため、あっという間に燃え広がったのでは」と論じている[4]。こうした現象は「一億総お座敷化」などと評された[4]。
小唄ものの流行でいえば、 神楽坂はん子が「ゲイシャ・ワルツ」「こんな私じゃなかったに」を歌った1952年以来の新しい現象で[3]、売上げ的には1954年の「お富さん」以来のバカ当りとなった[4]。
『現代の眼』は「元歌が広島の日陰の女たちによって歌い継がれていたということは、偶然といえない意味を持つ。"雪に変わりが有るじゃなし"という歌詞には、全ての努力に背を向ける諦念と並んで、全ての現世的価値を否定する全面的な抵抗の起点がある。原水禁運動を始め、多くの文化人たちがヒロシマを未来への始点とみなすとき、広島は日本の思想伝統の陰部を讃え続ける場所として、この歌によりいかにもその地にふさわしく受動的に自己を表明したのだ」などと論じている[3]。
流行
東京オリンピックがあった年とはいえ、当時は不景気[2]。しかしレコードの売上げは凄まじく、1964年9月頃から有線でのリクエストが殺到し[4]、10月に入って急激にレコード売上げが伸び[4]、1964年11月に100万枚を突破した[4]。年末年始の宴会シーズンには、1日3万5,000枚プレスしても追いつかないほど[2]。思いがけない金脈を掘り当てた日本ビクターの幹部は、1964年11月に「200万枚の線を間違いない」と予想したがそれも上回った[2]。当時のシングルレコードは一枚300円[2]。250万枚なら7億5,000万円の売上げ[2]。レコード会社の利益はその二割とされた[2]。また一枚売れると90円の儲けだったレコード店も飛ぶように売れ、お座敷さまさまと大喜びだった[2]。日本全国どこの酒席でも「お座敷小唄」が大流行した[2]。流しもお客から一晩で100回「お座敷小唄」を歌わされたが、一番だけ歌ったら後はお客が調子つけて歌うから楽でよかった[2]。子どもたちも「好きで好きで大好きで 死ぬ程好きなお方でも」と口ずさみ、大人は頭を抱えた[2][4]。また「お座敷小唄」の歌詞は六番までだが、数多くの替歌が生まれた[6]。





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Last updated  2022.07.13 09:46:04



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