秋に咲くヒマワリ・・なのかもね。

2024/09/22(日)13:32

ズームイン!!朝!(日本テレビ:1979.3.5-2001.9.28)

TVラジオ番組 television & radio programs(409)

それまで観ていたTBSのおはよう700から切り替えて観ました。テンポの良い朝から元気の出る番組でしたが、バラエティで有名な井原高忠さんがかかわった作品と知り納得。 ウィッキーさんの英会話も懐かしいです。 ■参考リンク Wikipedia:ズームイン!!朝! 『ズームイン!!朝!』(ズームイン あさ)は、日本テレビ系列で1979年(昭和54年)3月5日から2001年(平成13年)9月28日まで毎週の月曜日から金曜日に生放送されていた朝の情報番組。 略称は「ズーム」または「ズームイン!!」であり、これは後身『ズームイン!!SUPER』にも引き継がれた。当番組だけを指す場合は「ズム朝」ともいう。 概要 東京都千代田区二番町(麹町)の日本テレビ本社(当時)内に設けられたオープンスタジオ「マイスタジオ(通称:マイスタ)」を拠点に、国内外からの中継を基に構成。最新のニュースと気象、スポーツ情報から、番組の目玉である日本列島各所の中継、特集を放送した[1]。その一方、芸能情報は番組開始時から番組末期まで歌手やタレントがゲスト出演しない限りほとんど扱うことがなかった。 番組の開始を機に、当時新築された日テレ本社南本館1階に「マイスタジオ」を新設した。マイスタジオは本番組以外にも『ルンルンあさ6生情報』(1983年5月放送開始)や『タウン5[注 1]』、『日本テレビハイライト』などで使用されたほか、スタジオ特性[注 2]を生かし、外部からの中継番組を処理する「受けサブ(リモートサブ)」としても使用された。 日本テレビでの放送時間は7:00 - 8:30(JST)で開始以来不変だった。ただし、一部ネット局では放送時間が異なっていた事例もあった。 番組マスコットは「ズームくん」という人工衛星を擬人化したキャラクターで、テロップや番組ノベルティグッズ等に使用され、開始当初から1985年頃までのオープニングアニメーションや「プロ野球いれコミ情報」のオープニングCG、1995年から1998年までのオープニングCGにもその姿を確認することができる。しかし番組終了と共に姿を消し、『ズームイン!!SUPER』ではしばらくの間マスコットは使用されなかった。 2001年10月1日、本番組をリニューアルする形で『ズームイン!!SUPER』がスタートした。 番組の歴史 前史 この番組がスタートする直前の頃は、日本テレビの平日朝7 - 8時台の時間帯の視聴率は苦戦を強いられており、キー局では最下位の視聴率であった[2][注 3]。制作局長になっていた井原高忠が、平日朝の新番組の企画のために「お前だったらどうする?」とプロデューサーの仁科俊介の元を訪れ、そこで「活動的な朝の空気に合ったものを作りたい」と考えてこの番組が出来上がることになる。仁科としては、朝はどこの家庭も忙しいので「ながら視聴」が出来るようになれば視聴者に支持される番組になると考え、5分以内のコーナーが細かく積み重なっていくという番組構成のイメージが出来上がっていったという[2]。仁科は「『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』からイメージが出来ていった[注 4]ので、ズームインの元となったのは実はゲバゲバ90分」とも話している[2]。 仁科の他に齋藤太朗、澤田隆治もこの番組の最初から参画していた[2]。斎藤によれば、1978年7月頃から数回社内で朝番組の企画公募があったもののいずれも採用に至らず、9月頃に突然井原から仁科・斎藤の2名にお呼びがかかり「朝番組をやれ」と言われたため、澤田を含めた3名で企画を考えたという[3]。当初は実際の制作は他のスタッフがやると思っていたが、企画が採用になった直後に井原から「お前たちが考えた企画の意味は、お前たちにしかわからないんだから、とりあえず3年我慢しろ」と言われ、しぶしぶ制作もやることになった。また企画段階では1時間番組のつもりだったが「どうせやるならまだ誰もやったことのないものを」ということで、いつのまにか90分番組になっていたという[4]。斎藤は番組が90分になることが確定した段階で、番組を30分ごとに3つのゾーンに分け、最初の30分は出勤前のサラリーマン向けにとにかくテンポを早く、次の30分は中学生・高校生向けに少しテンポを落とし、ラスト30分は主婦向けに大きくテンポを落とすというスタイルにすることを決めた。また前述の「短いコーナーを細かく積み重ねる」スタイルについては、澤田が持ってきたNHKの『国民生活時間調査』の影響も大きかったとしている[5]。 番組の企画段階での仮タイトルは『今日、あなたは』。その後視聴者に公募をかけ『ズームイン!!全国的に朝!』と変更された[注 5]。このことを当時日本テレビ社長の小林與三次に伺いを立てたところ「人の真似は良くない」とされた決裁により「全国的に」の部分だけが取れて『ズームイン!!朝!』(後身『ズームイン!!SUPER』も含め、一部の記事を除き以下『ズームイン!!』と記す)に落ち着いた[6][注 6][7]。 1977年にスタートした45分のニュース番組『NNNおはよう!ニュースワイド』はそれまでの『NNN朝のニュース』で伝えられた全国ニュースに加え、特集や地方の話題などを加えて放送するという、当番組の原型となるような内容で放送されていた。その後、『おはよう!こどもショー』との枠統合、ならびにネット局との調整を経て当番組がスタートする。 後述通り、当番組には報道部が関与しないため、報道部制作のニュース枠として『NNN朝のニュース』を放送再開した。 徳光時代 1979年3月5日放送開始。初代総合司会は徳光和夫。番組冒頭、徳光は南本館の玄関前に立って、「皆さんおはようございます。徳光和夫、37歳、顔も背丈も標準よりちょっと下回っているようでございますが、そんな私が司会を致します『ズームイン!!朝!』が今からスタートいたします。」と視聴者に挨拶。さらに決め台詞として「1億1865万人の健康に···ズームイン!!」。その後はマイスタジオに入ってスタジオの紹介をした。初日最初のニュースは前日に起きた日本中央競馬会騎手福永洋一の落馬事故であった[注 7]。3月初頭という改編期前の中途半端な時期に放送を開始したのは「4月開始だと改編期で広報が多忙なので、PRに力を入れてくれない。3月開始なら広報も暇だから、全体がPRに協力してくれる」というディレクター(初代総合演出)の齋藤太朗の思惑がある[8]。なお、同年4月、日本テレビは平日午前から午後まで生放送情報番組強化による改編を行っているが、同じ日に大阪の読売テレビのワイドショー『2時のワイドショー』が立ち上がり、同局もネットを開始している。 ちなみにこの年11月29日の朝の生放送中、福岡放送担当レポーターの安田栗之助が移動たこ焼き屋のマイクロバスのドアノブを触った瞬間、(漏電していた事により)感電して失神するハプニングが発生するも、直後に置き上がりレポートを続行する一幕があった。 開始当初からの企画としては、全国ニュースでは取り上げにくいローカル色の強いニュースを各局のアナウンサーが直接伝える「NSヘッドライン」、各局が地元球団を応援しながら伝える「プロ野球イレコミ情報」、街角からの中継で通りかかった一般の人と英会話を行う「ウィッキーさんのワンポイント英会話」、「朝の詩(ポエム)」などがあり、これらは長寿企画となった。 『ズームイン』開始前の徳光はバラエティやスポーツ中継を通じて中堅アナウンサーとして視聴者から一定の支持を得ていたものの、奔放かつ特殊な勤務態度と報道に不向き[注 8]なのが災いし社内の評価は芳しいものではなかった。徳光の起用を決めた齋藤太朗によると、「プロレスやバラエティで活躍している奴を真ん中に置いて朝の(情報)番組で使って、何を考えているんだ」と上層部から猛反対されたという。しかし斎藤は徳光の才能を高く買っており、「『ズームイン』の総合司会には渡された原稿を読むだけでなく、自分の言葉、自分の感性で喋ってもらいたい。そう考えたら(当時の日本テレビアナウンス部の中で適任なのは)徳光しかいないじゃないか」と押し切った[9]。徳光は「もしこの番組が一年以内にコケたら、自分のアナウンサー生命自体が終わる」として相当悩んだものの、当時日テレでもエース格とされた仁科・齋藤の2人に口説かれ、最終的に司会の話を承諾[10]。結果徳光は番組の成功と共に朝の顔としてお茶の間に定着。アナウンサーとしても徐々に再評価され、『ズームイン』以外の番組にも多数起用されるなど、活躍の場を広げていくことになる。 前番組である『おはよう!-』からジャーナリストの秋元秀雄がコメンテーターとして続投。ニュースコーナーでは秋元が中心になって仕切っていた。 1980年に第17回ギャラクシー賞・選奨を受賞[11]。 1980年10月21日、長嶋茂雄が巨人軍監督を「解任」される。巨人ファンであり、長嶋ファンでもある徳光は、この解任劇に激怒し翌日の10月22日、関係者への怒りを露わにしながら番組を開始した。巨人球団や川上哲治を容赦なく批判し、読売新聞・報知新聞(スポーツ報知)の購読をやめると表明し、怒りの番組進行の締めには「ジャイアンツは、不滅から破滅への道を辿る」と発言した。この一連の抗議は放送開始から26分に亘って行われた。この放送を見ていた長嶋は、「この人は命をかけて喋っている。何かがあったら僕が面倒を見る」と語り、徳光と長嶋の交友が始まったという。 1980年12月31日、日本テレビが制作担当であったこの年の『ゆく年くる年』は、本番組のスタッフが実働部隊となり、本番組のシステムで『ゆく年くる年』を制作・放送した。これには本番組並びにキャスターとしての徳光を全国的に売り出す狙いがあったとされ[12]、そのために渡辺謙太郎(当時TBSアナウンサー)、露木茂(当時フジテレビアナウンサー)、溝口泰男(当時テレビ朝日専属キャスター)、金子勝彦(当時東京12チャンネルアナウンサー)といった各局の看板キャスターを集め、中心に徳光を置くといった演出も行われた。この年は当番組と同様にマイスタからの生放送となり、各地からの中継リポートも当番組の各局キャスターが担当。中継を呼び出すときの音も当番組の効果音が使われた。 Wikipedia:アントン・ウィッキー アントン・ウィッキー・アンパラヴァナル(Anton Wicky Ampalavanar、1936年9月26日[1] - )は、スリランカ・コロンボ生まれ[1]で日本在住の国際比較学者、外国人タレント。国立セイロン大学卒。血液型B型。 人物 セイロン大学卒業後、水産庁に入庁するが、それからすぐの頃に留学へ[2]。カリフォルニア大学留学中に東京大学農学部教授の檜山義夫と知り合ったのがきっかけで[1]、日本の留学の試験を受けて合格。同時にカナダへの留学の試験も受けていてこちらも合格したが、合格通知が先に届いた日本に行くことにし[2]、1961年に文部省の国費留学生として来日した[1]。当初日本語はまったく話せず、日本語学校での勉強に加え、毎晩渋谷のバーで、日本人にその日に学習した文章で話しかける「突撃スタイル」で日本語を習得した[3]。3ヶ月後に日本語試験に合格し[3]、東京大学大学院生物系研究科(1965年に大学院農学系研究科に改組。現在の大学院農学生命科学研究科)で海洋生物学を学び始め、1969年に博士号を取得。博士論文のテーマは「魚の行動に対する波長の効果」[1]。奨学金が少なかったことから、大学院生時代から英会話講師のアルバイトをずっとやっていた[1]。その生徒の中に「ズームイン!!朝!」の最初から参画していた澤田隆治の後の夫人となる女性がいたことから、後に澤田を通じる形で[1]1979年より、日本テレビ「ズームイン!!朝!」のコーナー「ウィッキーさんのワンポイント英会話」(後述)に起用されて担当し、全国的な知名度を得た[3] 。 奥羽大学教授ほか、日本大学農獣医学部(現:生物資源科学部)など他の大学などでも教鞭をとった。近年は、大学教員の仕事を優先させているため、大学の夏休み・冬休み等の休講中などでない限りテレビには出演していない。本人曰く「大学の講義を犠牲にしてまでレギュラー番組に出演するつもりはない」との事。(『週刊文春』掲載「あの人は今」のインタビューより[いつ?]) 実家は非常に裕福である。「ウィッキーさんのワンポイント英会話」出演時、よく「日本に来て、雪を見てどう思いましたか?」と質問されたが、実際には11歳の頃から度々家族でスイスへ遊びに行っており、雪は知っていた。また、スキーも日本に来る前にある程度滑ることができた。[要出典] 著書は英会話本を中心に十数冊に及ぶ。夫人は英会話学校講師時代の教え子であり、夫人との間にガネシュと言う名の一人息子をもうけている。また、親戚にプロ棋士の門倉啓太がいる。 「百万人の英語」でも「ウィッキーとキッコのHello People」という番組でパーソナリティ風講師を務めたことがある。この番組でも上述のワンポイント英会話のような街頭インタビューを取り入れていた。 長い間「1940年生まれ」としていたが、週刊誌でのインタビュー[4]において、実際は「1936年生まれ」であると告白した(理由については「機会がなかったため、訂正してこなかった」とのこと)。 2024年の時点でも、東京も中心とした首都圏の英会話各教室で講師を務めている[5][2]。

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