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カテゴリ:読書 Reading
先日長崎旅行したとき、浦上天主堂に行こうと思いましたが、時間がなくて行けませんでした。
東京に帰り、ザビエルに始まる日本へのキリスト教の布教の歴史を検索していたところ見つけたのが上記の新 晴正先生の記事です。晩年の豊臣秀吉はあまり評判が良くなかったと思いますが、この記事を読むと秀吉は日本の植民地化を防ぎ、国民が奴隷として海外に売られるのを防いだ大きな功績があったと思われます。「最初に宣教師を送り、続いて商人、最後に軍隊を送って国を乗っ取ってしまうという西欧列強お得意の植民地化計画が今まさに実行されようとしていたのだ。」という新先生の言葉が強く響きます。これまでキリスト教には信仰までは行きませんが共感を持っていましたが、この記事を読むと植民地化の片棒をかついで、人々を洗脳した宗教を信じるのに疑問を持ち、なんでいまだに日本で存在できるのか不思議に思います。 一方、岡 美穂子先生の「大航海時代の日本人奴隷 増補新版アジア・新大陸・ヨーロッパ」に関する記事を読むと、その秀吉も朝鮮出兵時に、日本へ連行してきた捕虜の多くを海外に奴隷として移送したようです。だから秀吉は朝鮮の人にいまだに恨まれるのがよくわかります。アマゾンのkindleがセールでポイント高かったので購入しました。 ■参考リンク 「日本人の奴隷化」を食い止めた豊臣秀吉の大英断海外連行された被害者はざっと5万人にのぼる新 晴正 : 作家2021/06/08 15:00東洋経済オンライン 当初は織田信長の政策を継承し、日本でのキリスト教布教を容認していた豊臣秀吉。だが、後に「バテレン追放令」によって布教を禁ずるようになる。秀吉がキリスト教の布教を防ごうとした背景には、ポルトガル人による「奴隷貿易」があった。5万人の日本人が国外に連行されたという、その実態とは? 作家の新晴正氏による『謎と疑問にズバリ答える! 日本史の新視点』より一部抜粋・再構成してお届けする。 日本にキリスト教が伝わったのは、戦国乱世まっただ中の天文18年(1549年)に薩摩、今の鹿児島・祇園之洲に上陸したイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルによってであった。 このザビエルからバトンを受け継ぐように永禄6年(1563年)、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが来日すると、ときの権力者の織田信長から布教活動を許されたこともあって、京都や西九州中心にキリシタンが急増した。信長が本能寺で斃れた天正10年(1582年)ごろには全国で約15万人の信者がいたと言われている。 この数字は当時の京都の全人口のほぼ半数に匹敵するものだった。その後、信長の後継者となった豊臣秀吉は最初こそ信長のキリシタン保護政策を踏襲したが、天正15年になり、突然手のひらを返すかのように「伴天連(ばてれん)追放令」を発する。伴天連とはポルトガル語で宣教師を意味するパードレが訛ったものだという。 秀吉にはこのとき、布教や商用のために日本にやってくる西欧人に対し、どうしても許せないことがあったのだという。それは一体何だったのだろうか。 最初は布教を許していたが… 秀吉は権力の座についた当初こそ、信長の政策を継承し、キリスト教の布教を容認していた。布教の裏にある西欧諸国との交易――いわゆる南蛮貿易にうまみを感じていたからである。 この交易では鉄砲や火薬、中国製の生糸などが輸入され、日本からは主に銀、金、刀剣類などが輸出された。そんな信長以来のキリシタンの保護政策に対し、秀吉に見直すきっかけを与えたのが、天正14年(1586年)7月に秀吉自身が始めた「九州平定」だと言われている。 九州平定といっても実質的には九州統一を目論んだ薩摩の島津氏と秀吉との争いだった。この合戦では島津軍は九州各地でよく善戦したが、いかんせん20万ともいわれる秀吉軍の前に次第に薩摩一国に追い詰められ、翌15年4月21日、ついに島津家当主義久は秀吉に和睦を申し入れている。 その後、秀吉は薩摩にしばらく滞在して戦後処理をすませると、帰国の途につき、途中、博多に立ち寄った。史上有名な「伴天連追放令」はこの地で発令されたものだ。 それは6月19日のことで、この日秀吉は、九州遠征に勝手に秀吉軍に同行していたポルトガル人でイエズス会の日本における布教の最高責任者であったガスパール・コエリョを引見すると、次のような四カ条からなる詰問を行っている。 →次ページ「西欧人の無遠慮」に怒った秀吉 以下略。 謎と疑問にズバリ答える! 日本史の新視点 Kindle版新 晴正 (著) 中公選書大航海時代の日本人奴隷 増補新版アジア・新大陸・ヨーロッパ著者名 ルシオ・デ・ソウザ、 岡 美穂子 本書は既刊の同著者による『大航海時代の日本人奴隷』(中央公論新社、2017年刊) に、新章を加えて「増補新版」として出版したものです。最近、韓国語版も出版されました (https://sanzinibook.tistory.com/4266)。 新章では、16世紀末、秀吉の朝鮮出兵時に、日本へ連行されてきた捕虜たちのその後が紹介されています。うち多くが、当時長崎に出入りしていたポルトガル人の船で海外へと移送されました。彼等のその後はほとんど分かっていませんが、マカオに住んでいたポルトガル人の遺言状などから、その存在が判明します。また長崎では、「奴隷」として売られた朝鮮人の中にも、身請けされたり、主人から解放されて、市井の人となった人々がいました。彼等が結婚して長崎に暮らした記録などは、日本の史料からも読み解くことができます。 「奴隷」の歴史は、今、世界で最も注目を集める歴史的テーマの一つですが、多くの研究では数量的考察が主体で、彼等が実際にどのような環境に置かれ、どれほど地球上を移動し、その後、人としてどのような暮らしを送ったかが、史料から描き出されることは滅多にありません。本書ではそのような数量的考察、グローバル・ヒストリーの大きな文脈からは少し離れ、一個人としてどのような生涯を送ったのかをクローズアップさせることで、よりリアルに彼等の存在を読者に感じてもらえるように工夫しました。 最も興味深いのは、天正少年遣欧使節と一緒に日本を出国し、ポルトガルまで到着した後、17世紀になってマカオまで戻って来て、日本から亡命したキリシタンたちの面倒を見たダミアンという人の人生でしょうか。彼はポルトガル人船長の奴隷であったにもかかわらず、最後には養子のような立場になり、船長の全財産を相続、自由民になってマカオまで戻ってきたのです。なぜ彼の人生が詳細に分かるかというと、その遺言状がのこされていたからでした。彼の遺言状からは、マカオにあった亡命日本人キリシタンのコミュニティのことが少し分かります。ダミアンはこれらの日本人の生活をサポートし、必要な生活費を貸し与えていたことがその遺言状には書かれています。自分の死亡に際し、それらの債務を帳消しにすることが明言されました。 「奴隷」という言葉には、暗く悲しいイメージが付き物ですが、一人一人の生涯に焦点を当てた時、彼等もまた人として、喜びや悲しみを経験しながら、人類の歴史の一部を担ってきたことが分かります。 (紹介文執筆者: 情報学環 / 史料編纂所兼任 准教授 岡 美穂子 / 2021) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2024.11.11 00:44:17
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