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秋に咲くヒマワリ・・なのかもね。

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2024.12.31
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カテゴリ:絵画・書
2024年12月、東京国立近代美術館に行った際惹かれた絵です。雑踏を描いた絵がどこか見たら1935年の新宿駅でびっくり。当時はこんな感じだったのかと思い、Wikipediaで何口か調べましたがわかりませんでした。新宿駅は関東大震災をきっかけにして、地盤の弱い下町から人が移り住み、発展したそうです。

こういった何気ない人々の日常を描いた作品も90年経つと輝くものだと思いました。作者の木村荘八さんの牛肉店帳場という絵も、当時の日常がさりげなく描かれ、楽しいです。

絵は描けませんが、自分もたまに自分の住む下町の写真を撮りますが、何十年かすれば宝物になっているかもしれません。


木村荘八:新宿駅


木村荘八:牛肉店帳場
木村の生家を基に描かれた。奥の帳場に座っているのは木村自身である



■参考リンク
Wikipedia:木村 荘八
木村 荘八(きむら しょうはち、1893年〈明治26年〉8月21日[1] - 1958年〈昭和33年〉11月18日)は、日本の洋画家、随筆家、版画家。
生涯
牛鍋チェーン店のいろは牛肉店を創立経営した木村荘平の妾腹の八男として、東京市日本橋区吉川町両国広小路(現在の東京都中央区東日本橋)のいろは第8支店に生まれる[2]。父の死後、浅草のいろは第10支店と京橋のいろは第3支店に移り、帳場を担当しながら兄・荘太の影響により文学や洋書に興味を持ち、小説の執筆などをして過ごす[2]。著書『東京の風俗』所収の自伝的文章「私のこと」によると、旧制京華中学校4年生の頃から学校へはほとんど行かず、芝居見物と放蕩に熱中したという。1910年に同校を卒業した[1]。
旧制中学卒業後の翌1911年、長兄の許可を得て白馬会葵橋洋画研究所に入学し画家を目差すこととなる[2]。翌1912年、岸田劉生と知り合い親交を深め、斎藤與里の呼びかけで岸田らとともにヒュウザン会の結成に参加した[2]。1913年にいろは牛肉店から独立し、美術に関する著作・翻訳を行う傍ら洋画を描き注目された[2]。1915年、劉生たちと共に草土社を結成[1][2]、1922年まで毎回出品する。二科展や院展洋画部にも出品を重ね、1918年に院展出品作『二本潅木』で高山樗牛賞を受賞した[2]。
1922年、春陽会創設に客員として参加し 1924年に同正会員となりそこで作品の発表を続けた[2]。1928年に油絵「パンの会」を発表する。1936年からは春陽会の事務所を引き継ぎ、会の運営に携わった[2]。
1924年以降は挿絵の仕事が増し、1937年には永井荷風の代表作『濹東綺譚』(朝日新聞連載)に挿絵を担当し、大衆から人気を博した[2]。他に描いた挿絵は大佛次郎の時代小説で、幕末・明治初期の横浜新開地を舞台にした『霧笛』『幻灯』『花火の街』『その人』に加え、『激流 渋沢栄一の若き日』『鞍馬天狗敗れず』[注釈 1]や、式場隆三郎『二笑亭綺譚』がある。
新派の喜多村緑郎を囲み、里見弴、大佛次郎、久保田万太郎等と集まりを持っていた。また1945年頃、加藤版画研究所(加藤潤二が1934年に創立、現・加藤版画)から新版画といわれる木版画「猫の銭湯」などを発表している。
晩年となった戦後は、文明開化期からの東京の風俗考証に関する著作(『東京の風俗』『現代風俗帖』など)を多数出版、数度再刊された。多忙のため病気(脳腫瘍)の発見が遅れ、短期で悪化し1958年11月18日に東大病院において病没した[1]。墓所は杉並区長延寺。歿後刊行の『東京繁昌記』で、日本芸術院恩賜賞 (1959年)を受賞した[2]。

■参考リンク
Wikipedia:新宿駅
概要
もともと駅開業時の1885年(明治18年)には、当駅は東京の街外れに位置していたため、駅利用者数は1日50人程度の小さな駅であった[3]。1923年に発生した関東大震災をきっかけに駅利用者数が急増するようになり、その後の高度成長期を経て新路線の開業に伴う駅施設の拡張や駅周辺の再開発などにより、日本を代表する巨大ターミナル駅へと発展した[3]。現在は「新宿グランドターミナル」といった再開発計画が進行中で、2040年代の完成を目指して駅施設の改良及び駅周辺の建物のスクラップアンドビルドが計画されている[4]。
歴史
東京の副都心・新宿に位置するターミナル駅である。1885年に日本鉄道により当時の南豊島郡角筈村に現在の山手線が開業したのが当駅の始まりである。4年後の1889年には南豊島郡淀橋町となる。この当初は東京市(現在の東京23区)には含まれておらず、東京市の郊外として周辺は田畑が広がっていた。開業時から新宿を副都心にする計画が発表されるまでは当駅周辺はまだ街の外れで閑散としており利用客は少ないものだった。1923年の関東大震災をきっかけに、浅草や銀座、日本橋といった地盤が弱い下町の繁華街が壊滅的な被害を受け、表層地盤が比較的強い武蔵野台地上の新宿や東京西部の郊外に人口がシフトしていった。次第に東京の市街地が西側(山の手)に拡大するにつれ、東京市西部のターミナル駅として多くの私鉄が乗り入れるようになる。ターミナルとなって周辺が発展するにつれて利用客は増え続け、1931年には私鉄や日本国有鉄道(国鉄)などを合わせた利用者数で日本一になった[新聞 2]。また、鉄道の一大拠点として成長するにつれ、戦前から東口は東京有数の繁華街として発展していった。そして、1966年の乗車人数では、国鉄池袋駅の41万67人を抜いて、当駅が41万69人と日本一である[7]。さらに1960年代から当駅西側一帯(西新宿)で進められた新宿副都心計画によって、70年代には多くの超高層オフィスビルが建設され利用者の増加に拍車がかかった。
戦前
新宿駅の駅名は、江戸時代に甲州道中(甲州街道)の日本橋と高井戸の間に新しく作られた宿場「内藤新宿」が由来する。
1885年(明治18年)3月1日、日本初の私鉄(実質上の半官半民会社)である日本鉄道が赤羽 - 品川間(のちの山手線の一部および赤羽線にあたる)で支線を開業。その中間駅として「新宿駅」を開業した[8][9]。これが現在の新宿駅の起こりである[8]。初代駅舎は現在の新宿駅東口駅ビル「ルミネエスト新宿」(旧:マイシティ)の位置にあった[8]。初代駅舎は木造で改札口は1箇所[8]、列車は2両編成であった[8]。当時は町外れに駅が設けられたため駅前には茶屋があるのみで[8]、乗降客は1日50人程度[8][10]、雨の日はほとんど利用がないこともあったという[10]。
次いで1889年(明治22年)4月11日、甲武鉄道により新宿 - 立川間が開業し、同年8月11日には八王子まで延伸された。
1906年(明治39年)3月、新宿駅構内の改良工事が竣工[8]。2代目駅舎が現在の東口付近から「甲州口」(現:南口付近、甲州街道沿い)へ移転した[8]。駅舎移転に伴い、甲武鉄道は駅南端の「甲州口」のほか、北端の「青梅口」(現:西口付近、大久保駅寄りの青梅街道沿い)の2箇所にプラットホームを設置した[8]。青梅口付近の淀橋には淀橋浄水場があり、また東京地方専売局淀橋工場が銀座三丁目(銀座松屋裏)から移転するなど、付近で働く労働者が増えたため通勤需要に応えたものである[8]。同年3月31日には鉄道国有法を公布、これにより同年10月1日に甲武鉄道が国有化され中央本線の一部となった[8]。
1923年(大正12年)に関東大震災が発生し、東京市中心部は壊滅的な被害を受けた。震災で被災した人々は浅草や両国などの下町から、地盤の安定した東京西部の武蔵野台地へ移り住み、人の流れが大きく変わることとなった[8]。これにより新宿駅の利用者も急増した[8]。翌1924年(大正13年)には震災復興のための拡張工事が行われ、甲武鉄道によって作られた中央線の2箇所のプラットホームを一本化[8]。1925年(大正14年)には鉄筋コンクリート造2階建ての3代目駅舎が完成した[8]。そして震災4年後の1927年(昭和2年)には、早くも一日あたりの乗降客数が日本一に達した[8]。





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Last updated  2025.01.02 18:03:22



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