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テーマ:絵画(590)
カテゴリ:絵画・書
藤田嗣治先生のソロモン海域に於ける米兵の末路という絵画です。
写真ではわかりづらいですが、 舟の舳先のほうにはシーツにくるまって米兵が寝ています。むかしどこかで観たような気がするなと思ってしらべたら、ドラクロワのガリラヤの海のキリストで、舟の後ろで寝ているキリストでした。 藤田先生はWikipediaを読むと軍人を多く持つ家柄に生まれ、戦中はこのような戦争画を描き、戦後フランスに帰化されています。いろいろ興味深い絵があるようなので、一度特集があれば観たいです。 ![]() ![]() ソロモン海域に於ける米兵の末路(1943)) 藤田嗣治 東京国立近代美術館 ![]() 【名品8】「ダンテの舟または地獄のダンテとウェルギリウス」ウジェーヌ・ドラクロワ:名画を読み解く2022.10.18 21:00 ![]() Wikipedia:メデューズ号の筏 ![]() イエスの奇蹟「そうしてあげよう、きよくなれ」2023-06-30:アートバイブル ■参考リンク Wikipedia;藤田嗣治 藤田 嗣治(ふじた つぐはる、1886年11月27日 - 1968年1月29日)は、日本生まれのフランスの画家・彫刻家。フランスに帰化後の洗礼名はレオナール・ツグハル・フジタ(Léonard Tsugouharu Foujita、レオナール・フジタとも)。 第一次世界大戦前よりフランスのパリで活動、猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びた。エコール・ド・パリの代表的な画家である。 戦争画 南方戦線に従軍画家として派遣された藤田、宮本三郎、小磯良平。(1942年)藤田は黒いタンクトップを着ているように見えるが、よく見ると後の修正で、実際は上半身裸だったと考えられる。 日中戦争勃発後に日本に戻っていた藤田には、陸軍報道部から戦争記録画(戦争画)を描くように要請があった。国民を鼓舞するために大きなキャンバスに写実的な絵を、と求められて描き上げた絵は100号200号の大作で、戦場の残酷さ、凄惨、混乱を細部まで濃密に描き出しており、一般に求められた戦争画の枠には当てはまらないものだった。同時に自身は、クリスチャンとしての思想を戦争画に取り入れ表現している。 1945年8月の終戦で戦争画を描くことはなくなったが、終戦後の連合国軍の占領下で、日本美術会の書記長で同時期に日本共産党に入党した内田巌などにより、半ばスケープゴートに近い形で「戦争協力者」と非難された。藤田は、連合国軍占領下の1949年に渡仏の許可が得られると「絵描きは絵だけ描いて下さい。仲間喧嘩をしないで下さい。日本画壇は早く国際水準に到達して下さい」との言葉を残してフランスへ移住し、生涯日本には戻らなかった。渡仏後、藤田は「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」とよく語った。 その後も、「国のために戦う一兵卒と同じ心境で描いたのになぜ非難されなければならないか」と手記の中でも嘆いている。とりわけ藤田は陸軍関連者の多い家柄にあるため軍関係者には知己が多く、また戦後日本を占領する連合国軍において美術担当に当たったアメリカ人担当者とも友人であったがゆえに、戦後に「戦争協力者」のリストを作る際の窓口となるといった点などで槍玉にあげられる要素があった。 パリでの成功後も、第二次大戦後も、存命中に日本では然るべき評価は得られなかった。また君代夫人も夫の没後は「日本近代洋画シリーズ」や「近代日本画家作品集」などの、他の画家達と並ぶ形での画集収録[23]は断ってきた。没後には日本でも徐々に藤田の評価が高まり、多くの展覧会が開かれている。 「複雑な人」藤田嗣治と戦争画:美術手帳2015.11.30 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2025.01.31 02:09:27
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