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秋に咲くヒマワリ・・なのかもね。

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全234件 (234件中 1-10件目)

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TVラジオ番組 television & radio programs

2022.05.17
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空襲で石垣だけになってしまった名古屋城を、金のしゃちほこも含めて、官民一体となって復元させたお話です。

再建費用が1億円足りなかったのを商店主たちのアイデアで寄付を集めたのは面白かったです。また、独特の積み方で崩れないようになっている石垣を一から積みなおしたのには感心しました。
金のしゃちほこを作り直して上から金を張り付ける技術はおどろくとともに、今の職人さんでできる人はいるんだろうかと思いました。プロジェクトXが終ってからもうすぐ20年ですが、引き継がれた技術の伝承の上でも、新・プロジェクトXの制作が必要ではと思いました。

私も金のしゃちほこをぺたぺた触ってみたかったです。名古屋という街はこれまで地味なイメージがしましたが、一度行ってみたくなりました。

間組の神部社長は、古き良き愛すべき土建屋の親父さんというイメージで好きです。

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■参考リンク
プロジェクトX 挑戦者たち 名古屋城再建 金のシャチホコに託す紀伊国屋書店
内容説明
戦争中の爆撃で石垣だけになっていた名古屋城。市民にとって城再建は悲願となった。立ち上がったのは地元商店主たち。街頭での募金活動、戦国武将のパレードなどで盛り上げた。昭和30年、ようやく再建決定に漕ぎつけるも、その後も問題が続出する。

ヤフー知恵袋:ian********さん2006/4/23 14:41「尾張名古屋は城でもつ」ってどういう意味なんでしょうか?城下町名古屋の繁栄ぶりを言ったプラスの意味な「尾張名古屋は城でもつ」ってどういう意味なんでしょうか?城下町名古屋の繁栄ぶりを言ったプラスの意味なのか、それとも名古屋城しか誇れるものがないっていうマイナスの意味なのか…、語源も含めわかりやすく教えてください。
ベストアンサー
uth********さん
2006/4/23 14:59(編集あり)
『伊勢音頭』の歌詞にある「伊勢は津で持つ 津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ」という一節が由来と思われます。
意味は「尾張の名古屋は新しい城が出来たために栄えるだろう」ということの様です。
http://www.geocities.jp/tomomi965/ko-jien01/a08.html

歴史探訪 PartⅡ- ㉙江戸川木材工業株式会社顧問 清 水 太 郎

Wikipedia:間組
株式会社間組(はざまぐみ、英称:Hazama Corporation)は、かつて存在した日本の大手建設会社(中堅ゼネコン)。通称「土木の名門」、「ダムハザマ」。建設業界では「青山」と呼ばれていた。一般には会社名を片仮名表記のハザマとしている。2013年4月1日付で、安藤建設と対等な精神に基づいた吸収合併の方式による合併で株式会社安藤・間を設立した。
概要
東京都港区虎ノ門に本社を置く中堅ゼネコン。売上高における土木と建築の比率は5:5。1889年(明治22年)に間猛馬 が門司で創業し、九州鉄道の工事を手掛けるなど、土木に定評あるゼネコンとして成長した[1]。
古くから土木工事全般(ダム、トンネル、橋梁)の名門として知られており、「土木の名門」、「ダムハザマ」[2]などと称されていた。
土木分野は業界大手を誇っていた。特にダムについては業界トップ級で、国内の施工数は戦前では業界1位、戦後も業界2位を誇り[3]、日本国内では黒部ダムや御母衣ダムなど数多くの実績を持つ。また、トンネル工事も業界大手級で関門トンネルや青函トンネルなど数多くの難工事を手掛けた。また「トンネル工事の名門」と評されていたゼネコンの中では珍しく佐藤工業を始めとする北陸系(飛島建設、熊谷組、前田建設工業)の企業ではなかった。
一方建築分野でも、1997年から2001年まで世界一の高さを誇ったマレーシアのペトロナスツインタワーなどを手がけた。また特殊建築としては、日本国内の江戸期城郭建築の復元工事に定評があり、鉄筋コンクリート構造の名古屋城、会津若松城や、伝統工法による木造復元の白石城、伊予大洲城などが知られている。
特徴
また、3代目社長である神部満之助は「皇居工事1万円落札事件」(東宮御所造営工事入札に建設省は5000万円を想定したが1万円で応じた)[4][5]を起こすなど皇室崇拝者で有名であり、外苑前に鎮座している明治神宮再建工事や、明治神宮野球場改修工事等も担当した。
歴代経営者
神部満之助 :1945年 - 1969年 - 1893年生1972年没。神奈川県南足柄市出身。岩倉鉄道学校建設科卒。1909年入社。敗戦時に社長就任、以後日本最大、世界最大であった記録的大工事を多数請け負い大企業に成長させ、1969年会長に退く。石川達三の『金環食』青山達之助のモデル[14][11]






Last updated  2022.05.19 00:11:49


2022.05.13
今回のお話は、実に32年もかけて、共食いや謎の衝突事故等、数々の困難を克服してクロマグロの完全養殖を成功させた近畿大学水産研究所のお話です。

国の音頭取りで始まったクロマグロ養殖研究事業ですが、途中資金が打ち切りになった後も、別の魚の養殖で資金を確保しながら、研究を続けた近畿大学の実学の精神は立派だと思いました。

銀座に近代マグロのお店があり食べログで3.5の高評価なようで、機会を見つけて行ってみたいです。

近畿大学といえば勢いのあるマンモス大学というイメージでしたが、今回調べたら、同じマンモス日大から経営分離したことを知りびっくり。

初代総長・理事長の世耕 弘一氏は、戦後、隠退蔵物資事を国会で追及されたことを3か月前に苫米地英人先生の「日本人の99%が知らない戦後洗脳史」で読みました。いろいろつながってるんだなと思いました。






■参考リンク
NHKプロジェクトX:挑戦者たち 海のダイヤ 世界初クロマグロ完全養殖
内容説明
日本人が最も消費する魚・マグロ。昭和40年代、その漁獲量が頭打ちとなり、安定供給の危機が迫った。そのとき、立ち上がったのは近畿大学水産研究所の男たち。戦後、ハマチやタイ、ヒラメなど、海魚の養殖技術一筋に生きてきた研究者。「海のダイヤ」の異名を持つマグロの王様・クロマグロの完全養殖に乗り出した。世界初の挑戦。魚は共食いや謎の衝突死で全滅するばかり。それでも、30年の苦闘の末、見事、初出荷に成功する。

近畿大学水産研究所 銀座店 - 日比谷(居酒屋) - 食べログ

Wiki:近大マグロ
近大マグロ(きんだいマグロ)とは、近畿大学水産研究所が1970年から研究を開始し、2002年6月に完全養殖に成功したクロマグロ[1]。近畿大学のベンチャー企業「株式会社アーマリン近大」の販売するクロマグロの登録商標である。
概要
稚魚を天然から捕獲して養殖した畜養マグロと異なり、養殖施設で人工孵化した完全養殖マグロであり、これによりマグロ資源の減少を防ぐことが可能とされる。マグロの稚魚は皮膚が弱く刺激に過敏であり、光などの僅かな刺激でも水槽の壁で衝突死したり、底部への沈降死をする上に共食いをするため、研究当初は人工孵化した稚魚が大量死してしまい研究は難航したものの、研究を積み重ね対策を講じた結果、2002年6月に完全養殖に成功するに至った[1]。
クロマグロは本マグロとも呼ばれる最も大型なマグロで、近大マグロの最大記録は、全長287cm、重量403kgにもなる。
現在、年間漁獲量は約2.5万トンでマグロ類全体に占める割合は1.4%。高価であるため「海のダイヤ」と称される。
2015年8月からは海の養殖場ではなく、水槽での完全養殖研究を開始[2]。富山県射水市の富山実験場で直径10メートル、深さ3メートルの水槽を使い研究が進められている[2]。
産業化
当初クロマグロは生き餌しか食べないとされていたが、研究の結果、2008年にはクロマグロ用の配合飼料も開発され、産業化が可能となった。
稚魚から幼魚にする「中間育成」も近畿大学と豊田通商の子会社「ツナドリーム五島」により、従来生存率2~3%だったものが、2011年に生存率35% まであげる事に成功し、量産が可能となった[3]。
2014年7月16日、近畿大学が豊田通商との提携関係を拡大し、完全養殖マグロの大量生産を始めると発表[4][5][6]。近大の技術を使い産卵や稚魚育成を行う種苗センターを豊田通商が長崎県五島市に建設し、2015年5月に稼働させ、2020年に日本国内の養殖需要の半分に相当する年間30万尾の「近大マグロ」の稚魚を生産する計画[4][5][6]。
2014年11月26日、近畿大学と豊田通商が完全養殖クロマグロの生産量を2020年に現在の年80トンから約3倍の240トン(約6000匹)に増やすと発表[7][8]。2017年度には、北米やアジアへの輸出も開始する予定[9]。
2015年7月23日、近畿大学と豊田通商がクロマグロの養殖施設「ツナドリーム五島」の隣接地にいけすに入れる前の稚魚を育てる「ツナドリーム五島種苗センター」を新設[10]。「ツナドリーム五島種苗センター」でクロマグロを卵からふ化させて、約30日かけて体長5センチメートル前後の稚魚になるまで育成し、その後、「ツナドリーム五島」で稚魚をいけすに受け入れ、養殖業者に出荷できる体長30センチメートル、重さ約1キログラムの幼魚「ヨコワ」に育てる[10]。
「ヨコワ」の多くは養殖業者に販売し、一部成魚まで育て「近大マグロ」として販売している[11]。
2017年10月5日、豊田通商と近畿大学は「近大マグロ」の海外輸出を本格的に始めると発表した[12]。2020年に約2000匹の輸出を目指すとしている[12]。
販売
近畿大学の関連会社である「アーマリン近大」を通じて、成魚が百貨店・飲食店等に販売されている。
2014年12月1日、近畿大学とエースコックは共同開発した「近大マグロ」を使ったカップ麺を限定150万食で発売したと発表[13][14]。近大が展開する専門料理店ででたマグロの中骨からエキスを炊き出してスープにしたもので、近大はこれまで中骨を廃棄処分していたが、近大からエースコックに再利用の検討要請をし、共同開発が決まった[13]。大手でマグロのカップ麺は初めてとなる[13]。
このほか、中骨エキス入りカレーパン(第一屋製パン)、美容液(UHA味覚糖)が発売された。兵庫県姫路市に本社を置くコードバンは、近大マグロの皮をなめした皮革で名刺入れや財布などを生産・販売している[15]。
近大卒の魚と紀州の恵み 近畿大学水産研究所
2013年4月26日、大阪駅北側の再開発地区・うめきた内:グランフロント大阪の北館「ナレッジキャピタル」6階に、近畿大学とアーマリン近大、およびサントリーグループと和歌山県との連携による養殖魚専門の料理店「近大卒の魚と紀州の恵み 近畿大学水産研究所」(大阪店)が開店した。同店では、水産研究所が育てた「近大マグロ」などの養殖魚を中心とした魚料理をはじめ、水産研究所が所在する和歌山県の協力を得て、和歌山県産の食材にこだわった料理を提供している。店舗開発、運営等については飲食ビジネスに精通したサントリーグループがパートナーとなった。大学が研究の成果として自ら生産したものを、産官学が連携して専門料理店にて消費者に直接提供するケースは、日本の大学では初の試みとのことである。2013年12月4日には第2号店として、東京都中央区銀座6丁目の銀座コリドー街に、銀座店が開業した[4]。

Wikipedia:近畿大学
近畿大学(きんきだいがく、英語: Kindai University)は、大阪府東大阪市小若江3-4-1に本部を置く日本の私立大学である。1943年に設置された。大学の略称は近大(きんだい)。文理合わせて15学部49学科を擁する総合大学である[1]。
概観
近畿大学は1925年に財団法人日本大学が設立した日本大学専門学校を淵源とし(初代校長・市村光恵)、1939年に日本大学大阪専門学校と改称し、翌年には日大から経営分離した。太平洋戦争下の1943年に大阪理工科大学を開学[2]。1943~44年に起きた「大専騒動」[3] の混乱を収束するために東京から派遣された世耕弘一(日本大学理事)が大阪専門学校の校長と大阪理工科大学の学長になり、戦後も引き続いて新制近畿大学総長及び理事長に就任したことから、世耕が事実上の創設者と看做されている[4]。
日本国内の私立大学において、有数の学部・学科数、並びに在学生・卒業生数を有する伝統や歴史のある大学として知られており、マンモス大学としても知られる。近畿大学によると、短期大学を含め約3万3400人の大学生が在籍し、西日本では最大級としている[1]。尚、朝日新聞出版発行「大学ランキング・2012年度版」の「大学別同窓会員数ランキング」で同学は、日本大学(約100万人)、早稲田大学(約60万人)、明治大学(約50万人)に次ぐ第4位(約45万人、西日本の大学では第1位)となっている。
2014年3月6日に近畿大学は、2014年(平成26年)度の一般入試志願者数が過去最高の10万5890人に、総志願者数も14万人を超えたと発表した[7]。これは早稲田大学、明治大学、法政大学、日本大学などを上回り、首都圏以外の大学では初めての「志願者数日本一」となるものであった[8]。

Wikiipedia:世耕弘一
世耕 弘一(せこう こういち、1893年3月30日 - 1965年4月27日)は日本の教育者・政治家。衆議院議員(8期)、経済企画庁長官(第2次岸内閣)、学校法人近畿大学理事長などを歴任した。
来歴・人物
和歌山県東牟婁郡敷屋村(熊野川町をへて現・新宮市)に中農・世耕佐七の五男として生まれる。一旦は材木店に丁稚奉公をするが、その後苦学して、日本大学法文学部に入学。日大の政治経済海外研究員としてベルリン大学に5年間留学。帰国後の1931年に日本大学教授。1944年に日大と関係の深い大阪専門学校の校長と大阪理工科大学長に就任。学制改革に伴い、大阪専門学校と大阪理工科大学が合併し近畿大学となると初代の総長及び理事長に就任した。
また、1932年に故郷の和歌山県から第18回衆議院議員総選挙に立候補し当選、その後幾度かの落選をしながらも通算で23年間にわたって衆議院議員を務めた。戦前は立憲政友会に所属し、戦後は自由党の結成に参加した。1947年3月の衆議院決算委員会で「日銀の地下倉庫に隠退蔵物資のダイヤモンドがあり、密かに売買されている」と発言。隠退蔵物資事件を暴露する。この軍需品払下問題にからむ大規模な詐欺横領事件は経済問題から保守政党の党費にからむ政治問題になった。
日銀の地下倉庫の隠退蔵物資が、その後も密かに運用され、俗にM資金と呼ばれるとの噂が絶えなかった。またこの噂を利用して多くの詐欺事件も発生した。
1948年、政治資金に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された[1]。
第2次岸内閣で経済企画庁長官を務めた。1965年4月27日死去。享年72。

日本人の99%が知らない戦後洗脳史 Kindle版 苫米地英人 (著)

年間売り上げ27億円! 養殖魚ムーブメントの立役者 - 集英社
抜粋
現在の売り上げは養殖用稚魚などの販売で年間約27億円。今もその中から研究費の一部が捻出されている。それほどまでして研究を続ける素地がどこにあったのか?






Last updated  2022.05.17 02:34:01
2022.05.11
TOTOがウォシュレット開発に至るまでの開発の苦労話です。これまで世の中に無かった機能の製品で、しかもあまり表には出しにくい分野の製品なので、男性はもとより女性の実験モニターを集めるのに苦労されたようです。

広告を打とうとしても、便器ということで、新聞、雑誌等には難色を示され、TVCMに賭けたそうです。コピーライターは仲畑貴志さんが起用され、戸川純さんが出演されてあのCMが登場しました。

仲畑貴志さんのCMはこのほか、サントリーの子犬のCM、ウォークマンのサルのCM、心も満タンに、コ・ス・モ・石・油、目の付け所がシャープでしょ!とか、多数あります。エーザイ・チョコラBBのCMコピー「世の中、バカが多くて疲れません?」で、世間から反発を買うと、それをユーモアのあるCMで返すところはさすがだと思いました。

ウォシュレットが、海外にイマイチ普及しない理由を調べました。水質の問題、衛生上の問題、コンセントの問題、治安上の問題とかいろいろあるそうです。外人に受け入れられないというよりも、やむをえず設置できないというのが真相と思えました。

■参考リンク
5/10NHKプロジェクトX:革命トイレ 市場を制す
作品内容
今や日本のトイレのほぼ2軒に1軒の割合で設置されている「温水洗浄便座」。心地よいお湯でお尻を洗い温風で乾かす。古来「ご不浄」と呼ばれ、不潔の代名詞だったトイレのイメージを、「快適」で「清潔」な空間へと変えた革命的な製品である。清潔志向の高まりから、不況の中でも売り上げを伸ばすヒット商品でもある。その開発の影には、ひたむきにトイレと向き合い続けた技術者たちの姿があった。 昭和36年、北九州の街に降り立った男がいた。本村久。早稲田大学理工学部を卒業、就職したのは東洋陶器(現TOTO)。戦前から続く国内最大手のトイレメーカーだった。

ウォシュレットが海外で普及しない理由:配管のすべてがわかる【配管百科】
日本に来た外国人観光客の驚くもののひとつがトイレのウォシュレット機能です。実は海外ではこのウォシュレットはほぼ普及していません。そこには日本とは違う海外ならではの事情がありました。
1980年の販売開始から一般家庭を中心に浸透し、近年は一般家庭以外にも急速な広がりを見せているウォシュレット。今では商業施設やホテル・旅館など、設置されている場所はたくさんあります。
しかし海外ではあまり普及していません
海外の人達はほとんどウォシュレットの存在自体を知りません。
日本では公共交通機関のトイレやショッピングモールのトイレですら結構目にしますが、海外では殆ど普及していません。
マドンナが2005年に来日した時「ウォシュレットに会いに来たわ」とコメントしたほどで、アメリカでも普及していないのが現状です。
ではなぜ海外ではウォシュレットの普及が進まないのか?
水質の問題
日本の水は「軟水」ですが、海外では「硬水」の地域が非常に多く、この水質の違いこそが海外でのウォシュレット普及の妨げになっていると考えられています。
ヨーロッパでは水道水が石灰分を含んだ、飲料にも適さない硬水であり、これをウォシュレットに使用すると、含まれている石灰分が内部で凝固し、ポンプが故障したりノズルが詰まることがあります。
そのため、トイレ便座洗浄器のような微妙な水の出方が問われるものには向いていないのです。
以下略

好きなCM:戸川純TOTO ウォシュレット おしりだって洗ってほしい、テレフォンショッキング、蘇州夜曲



2021.07.27選手村のウォシュレット「日本、すごい」と話題 海外選手も狂喜乱舞「オーマイガー!」著者:ENCOUNT編集部
東京五輪の男子競泳ニュージーランド代表ルイス・クレアバートが自身のTikTokを更新。女性選手たちと選手村自室の温水洗浄便座をチェックし、ウォシュレットに歓声を上げる様子を公開している。
以下略。

進化するトイレと海外展開の行方2017.06.24:SPEEDA

Wikipedia:仲畑貴志
仲畑 貴志(なかはた たかし、1947年8月20日[1] - )は、日本のコピーライター。事業構想大学院大学教授[2]。京都府京都市生まれ[3][4]、京都市立洛陽工業高等学校機械科卒業[5]。東京コピーライターズクラブ会長[6]。仲畑広告制作所・仲畑広告映像所主宰[4]。宣伝会議コピーライター養成講座校長[7]。株式会社ナカハタ社長[8][9]。
糸井重里や川崎徹などと共に広告業界から頭角をあらわし、コピーライターブームの立役者となった一人として知られる[要出典]。「コピーライターの神様」と称される[10]。
これまで手掛けたキャッチコピー
タコなのよ、タコ。タコが言うのよ。(サントリー・マイルドウォッカ樹氷)
樹氷にしてねと、あの娘は言った。(同上)
みんな悩んで大きくなった。(サントリー・サントリーゴールド900)
トリスの味は人間味。(サントリー・トリスウイスキー)※カンヌ国際広告映画祭金賞受賞
働いているお父さんより、遊んでるお父さんのほうが、好きですか。(サントリー・オールド)
ウイスキーも音楽もなかったら、心がグシャグシャになってしまうなぁ。(サントリー・ホワイト)
初めて会ったのに、親友だと思った。(同上)
いい曲は、企画書からは生まれない。(同上)
知性の差が顔に出るらしいよ……困ったね。(新潮社・新潮文庫)
知性って、すぐ眠りたがるから……若いうちよ。(同上)
おしりだって、洗ってほしい。(TOTO・ウォシュレット)
やっぱり、おしりは締まり屋さん。(同上)
好きな人のもにおうから。(同上)
カゼは社会の迷惑です。(武田薬品工業・ベンザエース)
ベンザエースを買ってください。(同上)
そこにカゼがある限り、ベンザエースは許しません。(同上)
キミがつらそうだと、あのヒトもつらい。(リクルート・Bing)
キミが幸せになっても、誰も困らない。(同上)
キミが幸せだと、よろこぶヒトは多い。(同上)
夢中になれば、みんな少年少女だね。(ニチイ・現イオンリテール)
大人の気持ちが、子供にわかって、たまるか。(ワールド ゴールド カウンシル)
私は、あなたの、おかげです。(岩田屋)
できれば、あなたと、くっつき虫。(同上)
にんげん、岩田のつもりです。(同上)
昨日は、何時間生きていましたか。(パルコ)
荒野に出ることだけが、冒険じゃない。(同上)
学校じゃ教えてくれなかったけど、知りたいこと、知りたかった。(同上)
目的があるから、弾丸は速く飛ぶ。(同上)
ケンカはやめた。だから、もう負けない。(同上)
死んだらどうなるのだろう。考えていたら涙が出ちゃった。(同上)
心を動かしても、汗を流せることを知った。(同上)
賛成1、反対9。どちらも、まちがいじゃない。(同上)
奇麗なものと奇妙なものは、どこか似ているね。(同上)
あなたも、わたしも、ちょっとずつ狂っています。(同上)
こんなに憎み合うのは、あんなに愛し合ってたからですか。(同上)
キミがいないと、みんなさみしがるよ。(同上)
顔は、ハダカ。(コーセー・アンテリージュ)
毎日の、毎日が、変わる。(毎日新聞社・毎日新聞)
なんだ、ぜんぶ人間のせいじゃないか。(同上)
歴史は、あっちこっちでつくられる。(朝日新聞社・朝日新聞)
勝つのは、負けるより大変だ。(講談社・CADET)※現在は廃刊。
好きだから、あげる。(丸井・1980年キャンペーンCM)
ソニー製ではない。ソニー生まれである。(SONY・AIBO)
「むずかしい」を「カンタン」に。(IBM)
反省だけなら猿でもできる。(大鵬薬品工業・チオビタドリンク)
無くしてわかるありがたさ。親と健康とセロテープ。(ニチバン・セロテープ)
目のつけどころが、シャープでしょ。(シャープ)
ではどこで選ぶか? お答えします。(同上)
今日、私は、街で泣いている人を見ました。(エーザイ・チョコラBB)
男が、大泣きしたって、いいじゃないか。(月桂冠)
明るいニュースだけの新聞は無いか?(同上)
人類はアブナイものをつくり過ぎた。(農協)
農業が壊れたら、日本人は全員会社員になるのだろうか?(同上)
痛いのはイヤだ。苦しいのはイヤだ。殺されるのもイヤだ。(アムネスティ・インターナショナル)
仲良くしていれば、ケンカにならない。(住友林業)
会社、コンクリート。帰ったら、木の家。妻、美人。(同上)
愛とか、勇気とか、見えないものも乗せている。(JR九州)
夢とか、希望とか、見えないものも乗せている。(同上)
顔を見ないと話せない。顔を見たら話さなくていい。好きなふたりは、行ったり来たり。(同上)
心配だから、列車でおいで。(同上)
一緒なら、きっと、うまく行くさ。(セゾンカード)
生きるが勝ちだよ、だいじょうぶ。(同上)
いわゆる、キミの味方になれそうだ。(同上)
あなたの人間は、大丈夫ですか。(同上)
技はいろいろ、カードはひとつ。(同上)
百年、貯めたっていい。(同上・永久不滅ポイント)
ココロも満タンに、コスモ石油。(コスモ石油)
アデランスは誰でしょう?(アデランス)
地球の上、野菜があってよかった。(ピエトロ・ドレッシング)
ココロも、カラダも、動かすマピオン (マピオン)
愛が、多すぎる。(南海電気鉄道)
他多数











Last updated  2022.05.11 18:02:56
2022.05.08
小学生のころ、記念切手を趣味で集めていた中に姫路城もありました。高価な切手でもなく多色刷りでもなかったので印象は薄かったけど覚えています。

今回プロジェクトXを見て、高さ48mがすべて木造建築だったのを解体して、また木造で組みなおすという作業にびっくりしました。また2本の25mの心柱のうち、1本が腐っていて、代わりを見つけるのに苦労されたお話が良かったと思います。

薬師寺の再建の話と合わせておすすめの作品です。白い美しいお城で、いつか桜の季節に訪ねてみたいお城です。


姫路城修理○発行日 1964.6.1:日本郵便趣味協会





■参考リンク
NHKプロジェクトX 挑戦者たち 新たなる伝説、世界へ 白鷺舞え - 空前の解体工事姫路城・定年前の大仕事
内容説明
世界でも有数の巨大木造建築、国宝・姫路城。
終戦後、倒壊寸前にまで荒廃していたこの城を救ったのは、昭和31年から8年間にわたって行われた解体修理である。高さ50メートルの天守閣をいったんバラバラに解体して、一から組み直す前代未聞の難工事となった。
リーダーに指名されたのは、まじめ一途な文部技官・加藤得二。奈良で寺院の修復を手がけていた加藤にとって、姫路城は経験したこともない巨大建築物だった。ふるさとの城を救えと、地元の大工など100人が参加し、「播州一の宮大工」と謳われた和田通 夫が、棟梁を務めた。
最大の問題は、城の要となる長さ25メートルの心柱(しんばしら)。大きく傾き、内部が腐っていた。代わりとなる、巨大なヒノキを求めて、加藤は日本中を歩き回る。巨木探しのさなかを襲った、思いがけない事故。プロジェクト最大の危機に、和田が発した起死回生の一言とは・・・
誇りと技をかけて、天下の名城をよみがえらせるために闘った男達の壮絶なドラマを描く。






Last updated  2022.05.08 00:00:05
2022.05.06
久々に水戸黄門第5部の安里姫(小林由枝さん)の動画を探していたら、鉄羅漢玄竜(天津敏さんの)動画で見つけることが出来ました。玄竜は水戸黄門の中でも割と強烈なキャラで、安里姫とセットで今でも覚えてます。
宮園純子さんは水戸黄門では、小林由枝さんの次に好きです。
Wikipediaをみると、あの頃の水戸黄門は製作総指揮松下幸之助さん、製作松下正治さんと、気合が入ってたんだなと思います。

安里姫(小林由枝さん)は0:46あたりから。

安里姫(小林由枝さん)?は0:08あたりから。

安里姫(小林由枝さん)は2:00あたりから。



■参考リンク
Wikipedia:水戸黄門 (第1-13部)
「水戸黄門 第5部」(みとこうもん だい5ぶ)は1974年4月1日から1974年9月30日までTBSで放送されたナショナル劇場のドラマ。製作はC.A.L。全26話(通算154回)。
ストーリー
光圀の行列に直訴した五島氏の姫から、城代家老・宍戸源左衛門(安部徹)の悪事により危機にさらされている肥前五島列島の福江藩の実情を知らされ、藩を救うため旅に出る。
メインレギュラー
水戸光圀:東野英治郎
佐々木助三郎:里見浩太朗
渥美格之進:横内正
うっかり八兵衛:高橋元太郎
霞のお新:宮園純子
風車の弥七:中谷一郎
安里姫:小林由枝
鉄羅漢玄竜:天津敏
解説
水戸黄門史上初めての片道道中。
第1話と第2話では玄竜の目をひくために偽黄門一行を仕立てて旅をする。偽黄門一行は第2話で玄竜の手の者に襲われてお新を除いて全員死亡する。
第24話に光圀の旧友・鍋島光茂役で森繁久彌が初の特別出演。森繁は第1部で初代黄門を演じる予定だったが、東宝のスターであった森繁が東映の撮影所である京都太秦で黄門役を演じることに東宝が難色を示し、結果的に東野が初代黄門に決まった。

小林由枝(現:小林かおり)さん:「水戸黄門第5部」安里姫役(1974)、「黄金の日日」お市の方役(1978)とCM:日本海味噌、ハトヤ






Last updated  2022.05.07 19:25:03
2022.05.03
日頃、当たり前のように利用している衛星中継や衛星放送(Bs,CS)ですが、BSとCSの違いはもとよりどんな仕組みかさっぱり知りませんでした。

今回のプロジェクトXは1964年の東京オリンピック開催を前にして、オリンピックの衛星中継を実現させるべく、巨大なアンテナを立てて、初の日米衛星中継を実現させたお話です。衛星の微弱な電波をキャッチするのは、米国で灯した電球の熱を日本で感じ取るものだとの例えにはびっくりしました。

YouTubeでたまたま見つけた、「衛星通信:東京シネマ(1964年製作)」も面白かったです。衛星中継の仕組みが良くわかりました。東京タワーの建設の映画といい、こういった技術の記録映画は、脚色が無く、素朴で楽しいです。

初の日米衛星中継の2回目でケネディ米大統領暗殺を実況された、毎日放送元アナウンサーの前田治郎特派員の話も興味深かったです。おすすめの作品です。

■参考リンク


「衝撃のケネディ暗殺 日米衛星中継」  ―復興の懸け橋 プロジェクトX~挑戦者たち~ Kindle版
昭和38年11月23日。日米初の衛星中継実験に挑んだ人々の物語。衛星からの電波はわずか10兆分の1ワット。アメリカで灯(とも)した電球の熱を日本で感じ取るような難易度。アメリカ側は、日本には技術力がないと参加を拒んだほどだった。しかし、日本の技術者たちは、3年の歳月をかけ、高性能アンテナを完成。実験にこぎつけた。そのとき、送られてきたのは、衝撃の「ケネディ暗殺」のニュースだった。

NHK放送史:初の日米宇宙中継 大統領暗殺の悲報



「BS」と「CS」の違い:オールガイド

Wikipedia:前田治郎
前田 治郎(まえだ じろう、1928年 - 2014年3月12日)は、毎日放送の元・アナウンサー、プロデューサー、報道記者、および国際室長。ニューヨーク特派員時代の1963年11月23日(日本時間)に、ジョン・F・ケネディ(第35代アメリカ合衆国大統領)暗殺事件(ケネディ大統領暗殺事件)の第一報を、放送では初めて日本に伝えたことで知られる[1]。
経歴
東京府(現在の東京都)の出身[2] で、商社への勤務を経て、1960年に中途採用(32歳)で毎日放送へ入社した。
毎日放送にはアナウンサーとして採用されたが、プロデューサーへの転身を経て、35歳だった1963年2月からニューヨーク支局(当時は毎日放送が単独で運営)に特派員として赴任。赴任からおよそ9ヶ月後の11月23日午後9時(日本時間)に、ケネディ大統領暗殺事件の第一報を、ABC(アメリカ)の社長室から日本に向けて伝えた(詳細後述)[3]。
特派員の任期満了を機に日本へ帰国してからも、毎日放送への勤務を継続。国際室長を最後に退職すると、1991年から神戸学院女子短期大学の教授を務めた[2]。
2014年3月12日の10時37分に、呼吸不全のため兵庫県西宮市の病院で逝去[1][4]。85歳没。
日米間初の「テレビ宇宙中継」でケネディ大統領暗殺事件を報道(1963年)
事件が発生した1963年11月23日(日本時間)は、通信衛星によるアメリカ合衆国から日本へのテレビ放送通信伝送の実験日で、午前5時27分50秒(当項での時刻は特記のない限り日本時間)に第1回の実験(NASAの電波発信基地があったモハーヴェ砂漠の風景映像の伝送)が成功したばかりであった[5]。この実験では、ケネディから日本の視聴者へ向けたメッセージ映像(事前収録)の送信も予定されていたが、開始の直前にNASAからの申し入れで急遽取りやめられた。アメリカのテキサス州を遊説中だったケネディが、ダラスでのパレード中(午前4時頃)の銃撃によって急逝していたことによる。
前田は当日、マンハッタンに所在していた毎日放送のニューヨーク支局から、ニューヨーク万国博覧会 (1964年)の工事現場の視察に向かっていた。他の日本人記者と同乗していたバスが高速道路の料金所へ差し掛かったところ、料金所の係員が発した"Kennedy, Dead!"(「ケネディが死んだ!」)との叫び声を耳にしたことから、前田は視察の予定を急遽変更。工事現場からマンハッタンへ引き返すと、当時毎日放送と業務提携を結んでいたABCの国際部門オフィスへ直行した。さらに、日本へのリポートに向けて資料を集めている最中に、ABCの広報担当者から「今日は通信衛星の(テレビ放送通信伝送)実験の日で、1回目は成功したが、もう1回実験できるようになっている。2回目の実験は(ニューヨークの現地時間で11月22日の午前7時から)15分間で、君がここ(ABC)にいるのだから、日本語で(現職大統領の暗殺という)この大事件のニュースを日本に送ったらどうか?」と勧められた。前田は後年「自信はなかった」と述懐していたが、実際にはこの提案をすぐに受け入れると、第2回実験の開始と同時に「これは輝かしい日米テレビ中継の2回目のテストであります。この電波に乗せて、誠に悲しむべきニュースをお送りしなければなりません」という言葉でリポートを始めた。さらに、事件関連の映像、ABCスタッフからのメモ、本人曰く「アナウンサーとしての経験」を頼りに、刻々と寄せられる情報(事件発生の模様、リー・ハーヴェイ・オズワルド容疑者の逮捕、リンドン・ジョンソン副大統領の大統領就任など)を13分12秒にわたって伝えた[3]。ちなみに、前田は通信衛星での伝送映像に合わせて社長室から国際電話でリポートを送っていたが、放送上はナレーションを入れただけで映像には登場していない。
日本では、第2回実験での配信映像と前田のリポートを、NHK総合テレビと(毎日放送を含む)民放テレビ全局が「テレビ宇宙中継」と称して全国に放送。翌1964年5月12日に日本民間放送連盟が開催した第12回民放大会では、前田によるリポートが、「ケネディ前大統領暗殺事件に伴う報道活動」としてテレビ報道活動賞揚部門で最優秀賞の1つに選ばれた[6]。さらに、NHKで2004年11月30日に放送された『プロジェクトX~挑戦者たち~』第106回「衝撃のケネディ暗殺 日米衛星中継」には、前田がゲストで出演。NHKアーカイブスでは、NHKが『1963年ニュースハイライト』で放送した前田のリポート音源と中継の録画映像(モノクロ)から、冒頭部分のみ「初の日米宇宙中継 大統領暗殺の悲報」というタイトルで公開されている。






Last updated  2022.05.04 04:08:25
2022.04.29
小学5年生のころ、1970年の大阪万博に連れて行ってもらったときは、近未来的な各国のパビリオンに驚かされました。ただもっと驚いたのは関西の鉄道でした。ホテル神戸というホテルに泊まって千里の会場へ電車で行く際、東京では機関車とかに使われていたけれども姿を消した茶色い色の電車が走っていたり、駅が自動改札になっていたのにびっくりしました。結局東京のJRに自動改札が導入されたのは1990年頃と、大きく遅れました。たしか東急は1978年頃大学の時、東横線ですでに導入していたので、もう少し早かったと思います。

今回のプロジェクトXは立石電機(現オムロン)による自動改札機の開発の話です。実用化の成功に至るまでのいくつもの難題を解決していく技術者の工夫が興味深いです。パンチ式で穴が券面に空くタイプから磁気式への転換や、大きな荷物を持った人を正しく認識するセンサーの開発、ななめに入れた切符を正しく認識する技術の話は面白かったです。

オムロンの創業者立石一真氏の私の履歴書を中学生のころ、日経新聞で読んだことがあります。いまだに印象に残るくらいですからすごく面白かったと思います、内容は忘れましたが。日経電子版で読めるそうなので、時間をみつけて読んでみたいと思います。今なら2か月無料ですし。

立石一真氏は若いベンチャー経営者の育成にも熱心でした。デイリー新潮を読むと、日本電産の永守会長とのかかわりが面白いです。

NHKプロジェクトXの中でもおすすめの1本です。



■参考リンク
新価格版 プロジェクトX 挑戦者たち:通勤ラッシュを退治せよ ~世界初・自動改札機誕生~
【収録内容】
今や全国の鉄道駅で2万台以上設置されている自動改札機。この機械を世界で初めて開発したのは、日本のある部品メーカーだった。壁に突き当たる度に小さなヒントを見逃さず、斬新なアイディアで切り抜け見事に解決。ついに、昭和42年、大阪の北千里駅に日本初の自動改札機が誕生した。

オムロン創業者の立石一真 駅の自動改札機を開発した男の「7:3の原理」ビジネス 企業・業界2021年11月08日:デイリー新潮
抜粋
1987年、長兄の孝雄の後を継ぎ47歳で社長になる。立石電機は工場所在地の地名である京都市右京区花園の通称「御室(おむろ)」に由来するオムロンへ社名を変更したが、この社名の変更やカンパニー制の導入など社内改革に、義雄は取り組んだ。
オムロンの創業者の一真は晩年、日本初のベンチャーキャピタルを創設し、日本電産の永守重信ら若い起業家の育成に力を注いだ。京都から京セラ、日本電産といった有力企業を輩出し、ベンチャーの都といわれる礎(いしずえ)を築いた。
オムロンはオートメーション時代の必需品となった交通管制システムなどの情報システムや自動券売機、キャッシュ・ディスペンサー(CD=現金自動支払機)、オートマチック・テラー・マシン(ATM=現金自動預け払い機)を開発してきた。近年普及が著しい非接触型ICカードを使った乗車券/プリペイド・カードは得意とする分野だ。
 1960年代は、1964(昭和39)年の東京五輪開催に向けて社会全体がうねっていた。通勤地獄と呼ばれ、毎朝、駅の改札には長い行列ができ、けが人も出た。
 混雑を解消するために名乗り挙げた企業が立石電機、現在のオムロンだった。取り組むテーマは改札の自動化である。
大阪万博と自動改札
培ってきた磁気や光学の技術を結集して、自動改札機の開発に名乗りを上げた。
 日本初の自動改札機を、どこに設置するかが議論になった。「人類と進歩の調和」をテーマとする世界的イベントが間近に迫っていた。1970(昭和45)年の大阪万国博覧会である。タイムリミットが決まった。
 大阪万博の開催を3年後に控えた1967(昭和42)年、〈開発が進む千里丘陵に新設された阪急電鉄北千里駅に、多能式自動券売機、カード式定期券発行機、自動改札装置を組み合わせた世界で初めての「無人駅システム」を実現〉させた。
 オムロンのホームページの「創業者物語~立石一真、挑戦の90年~」に、こう誇らしげに記されている。
 もっとも、最初は乗客も戸惑ったようだ。改札機に定期券ごと入れたり、紙幣やコインを入れたり、混乱もあった。このため、立石電機の担当者や駅員たちが改札に待機して、使い方を丁寧に説明したという逸話が残っている。
以下略

日本経済新聞:立石一真(立石電機社長)1974年5月24日~6月21日掲載
立石一真(1)熊本生まれ
貧困の中で人生学ぶ 祖父の盃屋は父の代に傾く
「最もよく人を幸せにする人が最もよく幸せになる」──これが七十余年に及ぶ人生を振り返って得た結論であり、同時に私の信条信念でもある。
私の人生で、貧困は少年時代から始まった。従って生い立ちを話すと「ずいぶん苦労されましたね」とよくいわれる。しかし、その貧しい境遇が今日の幸せをもたらしたといえる。また、よそ目には非常に苦労しているとうつっても自分自身にとっては初めての経験ばかり。「人生とはこんなも...
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Wikipedia:自動改札機
自動改札機(じどうかいさつき、英: automatic ticket gate[1])は、改札業務を自動化するために鉄道駅や空港の改札口(搭乗口)に設置されている機械。ただし、信用乗車方式を採用している地域では一部の路線を除き一般的には導入されておらず廃止された地域もある(後述)。
自動改札機の導入状況
日本
日本では主に改札方式がとられており、駅には自動改札機などの設備が設置されている。(地方の一部路線や、無人駅を除く)
なお、簡易改札機(主にICカードの簡易読み取り機)は扉付きではないため、自動改札機には含まれない場合が多い。
改札方式が採用されている理由としては、運賃収入の確実な収受(不正乗車の防止)のほか、旅客の安全確保の観点から都市部の狭い駅スペースへ多数の旅客が集中しないように駅構内へ立ち入る旅客数を制限することができるといった理由がある[20]。

現在の主流である磁気乗車券を使用した日本初の自動改札機は、1967年(昭和42年)に京阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)北千里駅に設置された立石電機(現在のオムロン)製の10台で、定期券専用である[21][22]。その後、札幌市営地下鉄(1971年、昭和46年)や横浜市営地下鉄(1972年、昭和47年)がそれぞれ開業時に全面導入しているほか、他の鉄道事業者においても部分的な導入事例があったものの、自動改札機の導入への動きはあまり広まらず、営団地下鉄(当時)有楽町線のようにいったん撤去した例もみられた。しかし、国鉄の分割民営化で発足したJR東日本が導入に舵を切ると、関東地方の各私鉄や地下鉄、四国旅客鉄道(JR四国)[注 6] を除くJR他社でも自動改札機の設置が標準となり、1990年代後半からは大都市圏以外の地域や新幹線の駅などでも導入する動きが加速した。2000年代以降はICカードの導入に合わせて自動改札機も導入することが多い。
磁気乗車券用改札機の実用化
現代の主流である磁気化乗車券を使用した自動改札機は、1969年に近畿日本鉄道が学園前駅で試験導入した日本信号製[注 8] が実用化の端緒である。
日本で最初に本格導入されたのは、前述の通り1967年の京阪神急行電鉄北千里駅であった。当初、定期乗車券と普通乗車券とでは改札方式が異なり、定期乗車券はパンチカード方式、普通乗車券は磁気化情報読取(バーコード)方式を採用していたが、その後、定期乗車券も磁気化方式に統一され、1972年には、定期乗車券・普通乗車券共用の自動改札機に更新されている。
一方、首都圏では、1971年2月20日に東京急行電鉄が東横線の3駅[注 16] に15台を設置。翌'72年には都立大学駅にも5台を設置することで実用化試験を開始した。その結果、1974年6月に7駅[注 17]に39台を設置することで本格採用に踏み切った。その一方、自動改札機については「首都圏特有の交通体系から連絡運輸の比重が高く、国鉄・私鉄界での同時的大量普及が行なわれない限りシステムメリットが生じないため、これ以上の導入は考えていない」[37]と評されていた。
その中、1977年4月7日に新玉川線が開業すると、三軒茶屋駅に当初より設置され、その後の1980年代に入ってからも、入場改札の自動化が中心であったとはいえ順次拡大[注 18]されてゆき、東急は、当時の首都圏でもっとも積極的に導入を進めた鉄道事業者となっていた[注 19]。






Last updated  2022.05.01 05:01:06
2022.04.26
地方の小さな工場が、苦労して優秀な電子工学の学生を採用して、世界初のクオーツ式腕時計を開発するまでの話で大変興味深く視聴しました。

もう少し詳しく知りたいと思い、Wikipedia、YouTube等を調べました。この会社は現在のセイコーエプソンで、当時は諏訪精工舎でした。セイコーの看板があるので、全く知名度の無い会社とは言い切れませんが、高度成長初期に地方の小さな会社が人集めするのは大変だったと思います。また、学生を地方の無名な会社に送り出すまでの教授の決断もなかなかだったと思います。

そのおかげで、腕時計にとどまらず、正確なクオーツ式時計はPCの時刻表示にも採用されるなど、私たちの生活に欠かせないものとなっています。

番組中、地方に工場があったからこそ、余計な情報や雑念が入らず、成功したのではと会社の方が話されてました。忍野のファナックもそうですし、成功の秘訣の一つかもしれません。

今回日本経済新聞の記事を読んで、セイコーエプソンはセイコーグループ中核3社の1つではありますが、中核のセイコーホールディングス株式会社の時価総額が4/26現在886億円なのに対し、セイコーエプソンは7157億円と地位が逆転しており、時の流れを感じました。

セイコーといえば下町には以前錦糸町と亀戸に精工舎の工場がありました。諏訪も含めて今回その関係がわかってすっきりしました。

ちなみに亀戸の精工舎跡地にカメイドクロックというショッピングセンターが4/28にオープンします。そのうち行ってみようと思います。





■参考リンク
プロジェクトX4Kリストア版選▽田舎工場 世界を制す クオーツ・革命の腕時計:NHK
1日の誤差わずか0.2秒というクオーツ腕時計。諏訪の時計店店主と若手技術者が開発に挑む。アメリカで誕生したクオーツ時計はタンスより大きいもの。どう小型化するか。
世界初のクオーツ腕時計の誕生物語。舞台となったのは長野県諏訪。かつては日本一の生糸の町だったが、化学繊維の登場で壊滅的な打撃を受けていた。「諏訪を東洋のスイスにできないか」地元の時計店店主が発案する。目指したのは限りなく正確に時を刻むクオーツ腕時計。電気を流すと振動する水晶の性質を利用したものだった。すでにアメリカにクオーツ時計はあったがタンスより大きなもの。どう小型化するか。耐久性も課題となる。
【司会】国井雅比古,久保純子,【語り】田口トモロヲ

Wikipedia:クォーツ時計
クォーツ時計(クォーツどけい)とは、水晶振動子を用いた時計である。水晶時計( Quartz clock/watch)または単にクォーツとも。20世紀後半から普及し、それまでのぜんまいばねを使用した手巻や自動巻時計に代わって、現在最も一般的な時計となっている。ぜんまいばねに代わる駆動としてステップモーターを使用しており、電源が必要なため電池が内蔵されている。 従来のぜんまいばね式時計のデザインを踏襲したアナログ時計のほか、同じく電源が必要な液晶やLEDを時刻表示部に採用し数字で時刻表示したデジタル時計がある。
歴史
1921年、最初のクォーツ水晶振動子がWalter G.Cadyによって開発された。1923年、イギリス国立物理学研究所のD.W.Dyeとベル研究所のWarren Marrisonは水晶振動子による精確な時間測定を行った。1927年、最初のクォーツ時計がベル研究所のWarren MarrisonとJ.W.Hortonによって作成された[3][4]。しかし、当時は能動素子に真空管を使用していたためタンス並のサイズになり、研究機関や放送局での利用に限られていた。1932年、クォーツ時計によって地球の微小な周変化が計測された[5]。アメリカ国立標準局(現:アメリカ国立標準技術研究所)は、1930年代から1960年代の間、原子時計に取って代わられるまでは、クォーツ時計を用いて標準時を定めていた[6]。クォーツ時計が一般に広く使われるようになるには、半導体デジタル回路が安価に利用できるようになる1960年代を待たなければならなかった。
一方、日本においては、1932年に従来型より温度係数がはるかに小さい(10-7/℃を達成した)Rカット式水晶振動子が古賀逸策によって発明された[7]。またセイコーは早くからクォーツ時計に注目しており、1958年からクォーツ時計の開発に取り組み[8]、1964年の東京オリンピックでは壁掛け時計並のサイズ(縦20cm×横16cm、厚さ7cm、運搬用のケースを含めた総重量がわずか3kg)まで小型化した時計を大会公式時計として提供[9]、実用に耐える技術水準を達成した。その後クォーツ時計は、価格は高価だったものの船舶用など、特殊分野向けの市販製品として販売された。
1967年、世界初のアナログ回路を用いたクォーツ腕時計のプロトタイプが登場した、スイスのCentre Electronique Horloger(CEH)によるBeta 1[8][10]、および日本のセイコーによるアストロンのプロトタイプである[8]。
しかしながら、超小型化と強い対衝撃性が求められる腕時計ではクォーツの実用化は難航した。世界初の市販クォーツ腕時計は1969年のセイコーによる「アストロン」であった[11][12]。当時の価格は45万円と、中型乗用車並みの価格[13]であったが、その後急速なコストダウンが進んだ。
1970年代にはセイコーが特許を公開したことで各メーカーがクォーツ時計の製造に参入し、市場を席巻してクォーツショックと呼ばれる現象を引き起こした。この時期はクォーツ時計の低価格化が進んだ一方、スイスをはじめとする欧米の時計メーカーは機械式の腕時計が売れなくなったことで大打撃を受け、特にアメリカ合衆国の時計産業はほぼ全滅状態に陥った[要出典](クォーツ危機(英語版)とも呼ばれる)。

Wikipedia:精工舎
株式会社諏訪精工舎(すわせいこうしゃ)
1942年に第二精工舎の関連会社の有限会社大和工業として創立。翌1943年に第二精工舎が工場を諏訪市に疎開。大和工業の協力、地元の支援などもあり、第二精工舎諏訪工場は、終戦後も諏訪市でのウオッチ製造を続けた。1959年に大和工業を母体に第二精工舎諏訪工場が吸収され、株式会社諏訪精工舎となる。1961年に子会社として信州精器株式会社を設立。1982年信州精器がエプソン株式会社に商号変更。1985年に諏訪精工舎が子会社のエプソンを吸収合併し、セイコーエプソン株式会社となる。現在もセイコーウオッチ向けに腕時計の開発・製造を行っている。服部家とその関連会社が大株主でセイコーグループに属している。ウオッチ事業ではグループ各社と協力関係にあるが、セイコーホールディングスやセイコーウオッチ、セイコーインスツルからは独立した企業である。「エプソン」のブランドが浸透しており、公式の企業名を記す場やウオッチ事業以外で「セイコー」の名を用いることは稀れである。2003年に東証1部上場。

Wikipedia:セイコーエプソン
セイコーエプソン株式会社(英語: Seiko Epson Corporation)は、長野県諏訪市に本社を置く情報関連機器、精密機器を手掛ける電機メーカーである(登記上の本店は東京都新宿区にある)。略称・ブランドは「エプソン(EPSON)」。
インクジェットプリンターを始めとするプリンターや、プロジェクター、パソコン、スキャナーといった情報関連機器、水晶振動子(クォーツ)、半導体などの電子デバイス部品の製造、さらに産業用ロボットの製造を行っている。また子会社ではないものの、セイコーホールディングス株式会社、セイコーインスツル株式会社とともに「セイコーグループ中核3社」の1つとされ、SEIKOブランドの各腕時計の開発・生産も行っている。また、現在では、オリエント時計の事業を統合し、オリエントスターやオリエントブランドの腕時計の開発・生産・販売もエプソンで行っている。

クオーツ腕時計を作った人たち

日本経済新聞:「工場」軽視が招いたセイコーの落日産業部編集委員 安西巧コラム(ビジネス)2010年5月18日 9:00
抜粋
 この第二精工舎は1942年に長野県諏訪市の下請けメーカー「大和工業」と契約を結び、同地で腕時計の製造を始めた。戦火が激しくなった1944年には第二精工舎が会社ごと諏訪に疎開して諏訪工場を開設。戦後、大和工業と諏訪工場が合併して「諏訪精工舎」となり、これが1985年に社名を変更して「セイコーエプソン」となる。
現在エプソンの主力製品となっているインクジェットプリンターはもともと東京五輪の際、計時結果を即座に知らせるために開発した印刷機に由来する。諏訪精工舎は1968年に世界初のミニプリンターを売り出し、「EP-101」という製品名をつけた。その「EP」の「SON(息子)」という意味で「エプソン」という呼び名が生まれた。1969年に世界初のクオーツ式腕時計「セイコーアストロン」を開発したのも当時の諏訪精工舎である。
セイコーHDの株式時価総額は約430億円(14日終値)。一方、「三男」扱いだったセイコーエプソンは約2900億円で、いまや「生みの親」の7倍近い企業価値を有している。セイコーグループは企業同士に相互の資本関係が希薄で、服部一族個人やその資産管理会社が各社の株式を保有して関係を維持してきた。
アナリストの中にはこうした「資本政策」の不在が求心力を弱め、グループの発展を阻害してきたと指摘する向きもあるが、見方によっては、株式の持ち合い関係がなかったからこそ買収ファンドなどの餌食にならなかったともいえる。セイコーHDがエプソンの親会社だったら、株価低迷を機に買収攻勢が強まり、80代のトップが何年もぬるま湯状態の経営を続ける暇(いとま)はなかったはずだ。






Last updated  2022.04.27 07:04:38
2022.04.18
先日、プロジェクトXで南極越冬隊の活躍を観て興味を持ち、TBSドラマの南極大陸を観ました。

プロジェクトXが、越冬した隊員に焦点を合わせているのに対して、こちらはタロジロの生い立ちから、犬たちの南極での活躍、南極に置き去りにせざるを得なくなった事情やその後を丁寧に描いていて、借りたDVDの最後の3枚は一気に観ました。特に犬が好きな方にはおすすめのドラマだと思いました。

プロジェクトXでもやっていましたが、南極調査にかけた日本国民の熱い思いは今の日本では想像もできないくらい重いものだったと思います。また犬たちを置き去りにしたことが、日本中にショックを引き起こしていたことは想像もできませんでした。

ドラマは事実と違う箇所があるので、Wikipediaを参照しながら観ると面白いと思います。

日本沈没では風変わりな学者を演じた香川照之さんは、ここでは西堀栄三郎先生をモデルにした演技をされ、よくはまっていました。

長い作品なので、ちょっと早回しで観て、HACHI 約束の犬に近いレベルの、おすすめの作品です。

中島みゆきさんの荒野よりも良かったです。


日曜劇場『南極大陸』 | TBSテレビ











■参考リンク
Wikipedia:タロとジロ
タロ(1955年(昭和30年)10月 - 1970年(昭和45年)8月11日)とジロ(1955年(昭和30年)10月 - 1960年(昭和35年)7月9日)は日本による初期の南極地域観測隊に同行した樺太犬の兄弟である。南極に取り残されながら共に生存し、1年後に救出されたことで有名になる。
生い立ち
1956年(昭和31年)1月、稚内市にて風連のクマと、クロの子として生まれ、タロ・ジロ・サブロの3兄弟だった。名前は当時南極観測隊用に樺太犬を集めていた犬飼哲夫北海道大学教授によって名付けられた。この名前は白瀬矗の南極探検の際、犬ぞりの先導犬として活躍した樺太犬、タロとジロ(「タロウとジロウ」[1]、あるいは「タローとジロー」とも)にちなむ。
1956年(昭和31年)、南極観測隊に樺太犬による犬ぞりの使用が決定される。当時の北海道には約1,000頭の樺太犬がいたが、このうち犬ぞりに適した犬は40から50頭程度に過ぎなかった。この中から3頭の兄弟と父親を含む23頭が集められ、稚内で樺太出身の後藤直太郎によって訓練が行われた。このうちサブロは訓練中に病死している。
第一次南極観測隊
1956年(昭和31年)11月、総勢53名の第1次南極観測隊隊員がタロ、ジロを含む22頭の樺太犬と共に東京湾より南極観測船「宗谷」で南極へ出発。宗谷には暑さに弱い樺太犬たちのために、赤道越えのための冷房室が特別に用意された。隊員のうち11名が第1次越冬隊として選抜され、この中で菊池徹と最年少の北村泰一が犬係(北村自身の記述によれば、「犬かかり」)を任じられる。昭和基地に到着すると、病気などでそのまま帰国する3頭を除いた19頭の犬たちは、1957年の第1次越冬隊において犬ぞり引きなどに使役された。越冬中に2頭が病死、1頭が行方不明となった。また雌のシロ子はジロなどとの間に8頭の子を産んだ。
1957年(昭和32年)12月、宗谷が南極付近に到着した。昭和基地にいる第1次隊員と入れ替わって越冬するため、宗谷は第2次越冬隊を乗せていた。しかし、近年稀にみる悪天候にみまわれ、宗谷は昭和基地には到着できなかった。
1958年(昭和33年)2月6日、46日ぶりに外洋への脱出に成功し、7日、アメリカ海軍のウィンド級砕氷艦「バートン・アイランド」号と会合。支援を受けて8日、密群氷に再突入した。11日、6便に分かれて1次越冬隊11名、雄の三毛猫たけし、カナリア2羽が宗谷に帰船。12日、2次隊隊員3名が先遣隊として昭和基地に到着。13日、天候の悪化により空輸が困難となった。
14日、天候はますます悪化し、バ号自体の氷海脱出も危うくなった。午前10時、永田隊長から、一旦外洋に出てから天候が回復しだい再進入する計画なので3名は宗谷に戻るように指示したが、3名は、第1次隊が残した食料と樺太犬がいるので再進入の計画があるならばこのまま越冬準備を続けたい、万一再進入できなくても3名での越冬も十分可能であることを強く訴えた。
正午、隊長からは次のような最後通告が戻ってきた。「3名を収容して外洋に出るのはバ号艦長の至上命令であり、気象的にも空輸の可能性は後1便しかない。越冬には樺太犬が必要なので野犬化したり、共食いしたりしないよう、必ず鎖につないだまま帰船してほしい」[2]
バ号艦長の命令では従うしかなかった3人は、南極生まれの子犬8頭とその母犬のシロ子はなんとしても連れ帰ることにした。15頭の犬の食料2か月分を分配した後、迎えに来た昭和号(DH-2)に子犬8頭とシロ子と共に昭和号に乗り込んだが、荷重超過で機は離陸できなかった。不時着用の燃料と食料を降ろすという森松整備士の機転によって帰船することができたが、15頭の犬は首輪で昭和基地付近につながれたままにされた。
17日、宗谷はバ号と共に外洋に出た後、18日、密群氷に再進入し昭和号を発進させられそうな水路や氷山を探したが見つからず、19日、風速30メートルを超える暴風雪により探照灯と電話アンテナがもぎ取られた。最後にせめて安楽死させようと考え、ヒ素入りステーキを準備したが昭和号が飛びたてる海面がなく、帰国期限の2月24日を迎えた[3]。
24日、南極本部より第二次越冬・本観測を放棄せよとの命令が下り、計画を断念し、第2次越冬隊の派遣は断念された。それとともに15頭の犬の救出も見送られ、残された犬達の生存は絶望視された。この犬を置き去りにしたことにより、観測隊は激しい非難を浴びることとなった。7月には大阪府堺市に15頭を供養する銅像(樺太犬慰霊像)が建立された。
奇跡の生存
タロとジロをデザインした硬貨
1959年(昭和34年)1月14日、第3次越冬隊のヘリコプターにより、上空から昭和基地に2頭の犬が生存していることが確認される。着陸すると駆けてきて操縦士に寄ってきたが、個体の判別がつかなかった。急遽、第1次越冬隊で犬係だった北村が次の機で基地に向かうことになった。犬達は北村に対しても警戒していたが、北村は2頭の中の1頭の前足の先が白いのを認め、「ジロ」ではないかと考え名前を呼んだところ反応して尻尾を振った。もう1頭も「タロ」との発声に反応したことから、この兄弟が生存していたことが確認されたのである[3]。
基地には7頭の犬が首輪につながれたまま息絶えており、他の6頭の消息は知れなかった。基地に置いてきた犬の食料や死んだ犬を食べた形跡はなく、アザラシの糞やペンギンを食べて生きていたのだろうと北村は推測している。北村らは3次隊越冬の際、タロとジロが2頭でアザラシに襲いかかる所や食料を貯蔵する所を目撃している。この兄弟は特に首輪抜けが得意な個体だったと言われる。
しかしその後、北村は、犬たちはペンギンを襲うことはあっても食べることはまずなかったこと、アザラシの糞は好んで食べたが、アザラシを襲う際に海水に落ちる危険があること、いずれにせよ、犬たちが犬用食料(第2次隊が給餌しやすいよう開梱した状態で残されており、容易に食べられる状態であったにもかかわらず、全く手がつけられていなかった)よりもそれらを優先したとは考えがたいことを指摘し、これらの説を否定している[4]。北村はその上で、食料の候補として、海水に浸かったため天然冷凍庫内に放棄されていた人間用食料(人間にとっては臭くて食べられたものではなかったが、犬は好んで食べたという)、第1次隊が犬ゾリ調査旅行を行った際にデポに残した食料、調査旅行の際に発見されたクジラの死骸、の3つを挙げている[5]。
タロとジロの生還は日本中に衝撃と感動とをもたらし、2頭をたたえる歌「タロー・ジローのカラフト犬」(しばざきそうすけ作詞・豊田稔作曲、三浦尚子歌)、「よかったよかったタロー ジロー」(小林純一作詞・冨田勲作曲、小坂一也・本間千代子・みすず児童合唱団歌)までもが作られたほどである。さらに日本動物愛護協会によって、当時開業したばかりの東京タワーに15頭の樺太犬記念像(製作:安藤士〈忠犬ハチ公像の彫刻家〉、構成:斎藤弘山〈斎藤弘吉〉)が設置された。
2013年に国立極地研究所(立川市)へ移転。
タロとジロの生還から9年後の1968年、昭和基地のそばの解けた雪の中から、1匹の樺太犬の死骸が見つかった。灰色で短毛という特徴から、行方不明6匹のうち「リキ」と思われた。7歳と、最年長だったリキは、第1次越冬中から、幼かったタロとジロに自分の餌を与え、実の親のように片時も離れず2匹の面倒を見ていた。タロとジロの生存には、リキの存在があったのではないかと北村は推測している[6]。
第3次隊にはペットとして樺太犬の子犬トチ、アク、ミヤが同行していたが、タロとジロが生存していたため牡のトチ、アクはソリ曳き犬として育てられた。第4次越冬隊ではさらに11頭の樺太犬とケープタウンでベルギー隊からもらったグリーンランド・ハスキーの子犬が参加することとなった。この樺太犬の中には第1次越冬中に昭和基地で生まれた犬も含まれた。
帰国後
タロは第4次越冬隊と共に、1961年5月4日に4年半振りに日本に帰国。1961年から1970年まで札幌市の北海道大学植物園で飼育され、1970年(昭和45年)8月11日に老衰のため14歳7か月で没。人間でいえば約80-90歳という天寿を全うしての大往生であった。死後は同園で剥製として展示されている。またタロの血を引く子孫の犬が日本各地に散らばっている。
ジロは第4次越冬中の1960年(昭和35年)7月9日昭和基地で病死。5歳。ジロの剥製は東京都台東区の国立科学博物館に置かれていたが、極地で病死した状態から剥製にされたこともあって損傷が激しく[7]、簡単に動かすことができなかった。
映画『南極物語』の影響もあり、タロとジロの剥製を一緒にさせてあげようという運動が起こる。これを受けて、1998年(平成10年)9月2日から17日間開催された稚内市青少年科学館での「タロ・ジロ里帰り特別展」で、タロとジロの剥製が初めて同じ場所で陳列された[8]。また2006年(平成18年)7月15日 - 9月3日まで上野の国立科学博物館で開催された「ふしぎ大陸南極展2006」でもジロと共に剥製が展示された[9]。
その後は再び、北海道大学植物園でタロの剥製が、国立科学博物館でジロの剥製が展示されている。
なおタロとジロを発見したS58型ヘリコプター1号機は1973年に退役後、南極観測時代の塗装に戻し1974~1998年まで東京・上野の国立科学博物館にジロと共に保存されていたが、1999年から筑波の保存庫に移った。同じくタロとジロを発見した2号機は1966年3月5日、全日空羽田沖墜落事故の遺体捜索中に海に墜落し失われた。この事故で亡くなった3人の中1人の里野光五郎機長はタロとジロを発見した時のパイロットだった。
慰霊祭
1956年に稚内公園で第1次南極観測隊に参加する樺太犬の訓練が実施されたことから、1961年から稚内公園の供養塔前で南極観測隊で活躍した樺太犬の慰霊祭が執り行われている[10]。
映像化
1983年(昭和58年)、タロとジロの生存劇を描いた映画『南極物語』が公開された。本作では、1968年(昭和43年)12月19日に第9次観測隊を率いて日本人として初めて南極点に到達した村山雅美が監修を行った。樺太犬が調達できないため、南極観測に最も多く用いられたエスキモー犬(アラスカン・マラミュート、シベリアン・ハスキー、サモエド、グリーンランド・ドッグ、カナディアン・エスキモー・ドッグ)で代用された。1984年(昭和59年)にテレビ東京で放送されたアニメ『宗谷物語』でも、タロとジロについて描かれている。さらに、2006年(平成18年)には、アメリカ合衆国のウォルト・ディズニー・ピクチャーズによって、この話を元に設定を変えた"Eight Below"(邦題『南極物語』)が製作された。2011年(平成23年)には『南極大陸』としてTBSでテレビドラマ化された。
なお、『南極物語』や『南極大陸』などの作品はあくまで創作であり、実際のできごととは異なる部分がかなりあるので注意が必要である。
別の視点からみた南極の犬たち
犬たちを鎖につないだまま置き去りにしたということで、当時、南極観測に関わった人々への激しい批判が起きた。
SF作家の星新一は、この事件は人間側から見れば美談であるが、ペンギンの立場から見れば、獰猛な肉食動物を人間が置いていったために大被害を受けたという悲劇ではないかと考え、この視点からショートショート作品を1編書いている。「探検隊」という題名で、1961年(昭和36年)の作品集『ようこそ地球さん』に収録されている。また藤子・F・不二雄は、SF短編「裏町裏通り名画館」の中で、タロとジロを想起させる犬に捕食されるアザラシの親子の苦難を描いた映画(作中では『北極物語』つまり北極越冬隊の犬という設定)を登場させている。音楽家の團伊玖磨は鳥好き、犬嫌いの立場から、タロとジロを題材としたラジオドラマの音楽の仕事を断ったとエッセイ『パイプのけむり』の中で語っている。
21世紀現在では生態系保護のため、南極に犬など外来の生物を持ち込むことはできない(犬ぞりも参照)。

Wikipedia:南極大陸 (テレビドラマ)
『南極大陸』(なんきょくたいりく)は、2011年10月16日から12月18日まで毎週日曜日21:00 - 21:54に、TBS系「日曜劇場」枠で放送されたテレビドラマである。主演は木村拓哉。
概要
TBS開局60周年[注釈 2]記念番組の集大成として[1]、北村泰一の『南極越冬隊タロジロの真実』を原案に制作される。当初は仮題として「神の領域に挑んだ男と犬の物語」の副題があった。初回は第66回文化庁芸術祭参加作品として放送された。
木村拓哉が日曜劇場で主演を務めるのは、2007年1月期の『華麗なる一族』以来4年ぶりとなる。
撮影はすでに放送前にクランクアップしており、2011年2月から8月までの半年間行われた[1]。また、南極のシーンは2月から2か月半、北海道根室市で撮影が行われた。
キャッチコピーは「その夢には、日本を変える力がある」。
この作品は実話を基にしてはいるものの、あくまでも創作(フィクション)であり、登場人物の名前・設定をはじめ、数々のエピソードは実際の史実とは異なる部分が多い。
あらすじ
この節にあるあらすじは作品内容に比して不十分です。あらすじの書き方を参考にして、物語全体の流れが理解できるように(ネタバレも含めて)、著作権を侵害しないようご自身の言葉で加筆を行なってください。(2012年8月)(使い方)
昭和30年代、敗戦からの復興を進める日本は、戦勝国を中心とした国際地球観測年による南極観測への参加を表明する。しかし、他の参加国からは敗戦国であることを理由に罵倒される。そして、日本に割り当てられた観測場所は「inaccessible(接岸不可能)」とされていたドロンニング・モード・ランドのプリンス・ハラルド海岸であり、日本は全く期待されていなかった。その中で、倉持たちは日本が世界と肩を並べる時が来たとして、南極観測のために尽力する。






Last updated  2022.04.20 06:46:16
2022.04.16
コメットさんは1967年の作品ですから小学二年性のころです。お手伝いさんという設定以外はすっかり忘れてしまいましたが、毎週観ていたように思います。九重佑三子が印象的でした。大場久美子さんのは観ていませんが、結構話題になっていたように思います。

今回コメットさんで、ブラザーのオープニングCMを偶然観ることができて懐かしかったです。ついでに武田薬品のを探したら見つかりました。これも印象的でした。ウルトラマンとかのときに流れていたように思います。








■参考リンク
Wikipedia:コメットさん
『コメットさん』は、国際放映制作の特撮テレビドラマ、および主人公である魔法使いの名称。本項目ではテレビドラマ(以下、テレビシリーズ)の他、漫画版や小説版などの派生作品についても併せて取り扱うものとする。
概要
第1期:1967年7月3日 - 1968年12月30日(全79話)、九重佑三子主演[1]
第2期:1978年6月12日 - 1979年9月24日(全68話)、大場久美子主演
全部で2期制作されたテレビシリーズは、いずれも毎週月曜19:30 - 20:00(JST)に、放送当時TBSの同時間帯に設けられていた「ブラザー劇場」にて放送された。
ストーリーの展開は下記に示した各期それぞれに異なるが、宇宙のかなたからやってきたヒロイン・コメットが地球に降り立って、「地球での困りごとを魔法を使って解決していこう」というコンセプトは共通である。アメリカ映画『メリーポピンズ』がヒントとされている[2][3]。
魔法にはバトンを使用する、お手伝いさんとして住み込んでいる、歌が重視されている、そしてそれぞれ住み込んでいる家庭の父親または母親が歌う点も共通している。






Last updated  2022.04.18 01:46:16

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