テーマ:ショートショート。(573)
カテゴリ:ショートショート。
私とTとは、計画通り、ある青年に声をかけた。 彼は今、本屋から出てきたところである。先ほどまで2時間ほどずっと、雑誌・漫画等を立ち読みし続けていた。 このようなときこそが、私たちが仕事をするには丁度よい状態なのだ。例えば他にも、ゲームセンターで長時間ゲームをした後、ネットカフェでヴァーチャルの世界に浸っていた後等、都合が良い。特に、本人が一人だけで楽しんでいた場合が有効である。そういうときには、その人の中に頑強に固定されているはずの「ゲンジツ」がわずかにめくれ上がっており、私たちが行う仕事を成功に導いてくれる。 青年は、崩れ始めた天候の空を見上げ、足早に路地へと入っていった。私たちは後を追う。 彼が、道の脇に駐輪していた自転車のロックを外し、それに乗ろうとしたとき、私たちは声をかけた。 「こんばんは、ちょっとよろしいですか」 青年はよくあるように、突然声をかけた顔見知りでない私たちに、それ相応の反応を示した。しかし、私たちには彼の目の中に、本屋の中で大量にインプットした空想の類が渦巻いているのを見て取った。これでいい。Tが話を始めた。 「君は、現実って何だと思う?」 「は?」 「君はこの場に、自分がどういう状態で存在しているか、分かるかい?」 「・・・・・・」 青年は私たちを無視して、自転車を無造作に動かし始めた。 「待って」 私は、彼の進行方向を塞ぐ。 「なんだよ、あんたら!」 青年は事の異様さを感じて、声を荒げる。が、内心は50%以上怯えが支配している。私とTとが取り囲んで、動けないようにしてしまう。 「ちょ、ちょっと、なんだよ・・・・・」 「大丈夫、心配する必要はない。ただ、君に知ってもらいたいことがあるんだ。そう時間はかからない。我々の質問に答えてくれ」 「あなたは、今目の前にあることが、現実に起こっていることだと思う?」 「・・・・・・は?」 「私たちがここにいて、話していて、息をしていて、つまり、いろんな情報が入ってくる中で存在しているはずね。それをあなたはどう感じるか。あなた、現実というものをリアルに感じてる?」 「なんかの、宗教ですか・・・・・・?」 「いいや、そうじゃないさ」 「ただ聞きたいの」 私たちは、沈黙を持って彼の答えを引き出そうとする。その間も、彼に逃げる隙は与えない。 「って、え・・・・・・よく分かんないんスけど・・・・・・」 彼にはまだ、「ゲンジツ」がちゃんとはりついている。それを証拠に、この状況を何らかの形で解釈し、どんな行動を取るべきか考えている。いくら、驚きと緊張に支配されてはいても、彼にとっての「ゲンジツ」は有効性を持っている。しかし、落せない程度ではない。私は言った。 「今自分が見たり感じたりしていることが、本当に現実なのか、それとも夢なのか、と、考えたことはない?」 「えー・・・、それは、なくはないけど・・・・・・。誰もがあること、でしょ、当たり前に」 「そうね」 「確かにそう。なら、君は、今この時が夢なのか現実なのか、分かるかい?」 「そりゃ、現実だろ」 「どうして?」 「寝て、ないし・・・。ねー、もういいでしょ!いいかげんにしてよ!」 青年は苛立ちを隠さない。Tを押しのけて去ろうとする。己の「ゲンジツ」が侵されているのを感じた人間が取る行動。私たちには分かっている。もう幾度か押せば、事はすむことも。 「ゲンジツ」を受け入れて生きる期間が短ければ短いほど、私たちの仕事は楽だ。事前の家庭環境・思想・興味関心の方向を調査した結果によると、この青年には、私たちのすることを否定しきるほどの「ゲンジツ」に対する信頼は存在しない。 そのとき、この路地にともる街灯が音を立てて明滅し、消えた。青年は動きを止める。私は再び口を開く。 「あなたは、ほら、今自転車を掴んでいるでしょ。鉄でできたフレームと、ハンドルのゴムの部分。それを掴んでいることは、感じているのよね、その手を通して。電灯が消えたことも、目で見て分かった。だけど、どれだけその五感というものは、信頼に価するかしら?」 「何言ってんのか分かんないよ」 「夢の中だって、ものは見えているし、触覚やにおいを感じることさえある」 「どうしたいのさ!」 「君にもっと「ゲンジツ」というものを知ってもらいたいのさ」 「あなたなら分かるはずよ」 「はぁ?」 抗体ができ始めている。私たちには分かった。 自分の肉体や内面が侵食されそうになったとき、人は、自動的に己をバリアーで被う。物理的な場合には攻撃や逃避というかたちとなって表われるが、精神的には、自らの思考をある混乱状態に陥れ、外界から入ってくるものをシャットダウンし始めるのだ。それが、抗体。強くなりすぎれば、いくら落しやすい人間であってもうまくはいかない。 そこでTは強行に出た。いきなり青年の肩を掴むと自転車から引き剥がして、建物の壁に激しく押し付けた。自転車が便りを失くしてアスファルトに倒れこむ。その急激な動きに、青年は目を丸くして声も出せない。Tは間髪入れず、声を荒げて言う。 「どうして本当のことを言わないんだ!君の感覚は、常に何かによって騙されているんだぞ!君は、「ゲンジツ」がなんなのか分かるのか?手に持って、これだと見せてやることができるのか?」 青年は怯えきった目で、Tを見上げる。予感のない衝撃に、抗体は効かない場合があるのだ。今、彼の目の前にあるのは、ただの恐怖、だけになりつつある。しかしまだ、助かりたいという希望はあるようだ。彼はちらりと、路地の出口を見た。誰か来ないか願っているのだ。 私は、2人からすこし離れた所から、落ち着いた声で言う。 「あなた、誰か来てくれって、思ったのね」 彼の目を見る。うなずかないが、そうだと思っていたのは、手に取るように分かる。 「そして、どうして誰も来ないんだって、思ったのね」 青年は私を見ている。私は淡々と続ける。 「もしかしたら、あの出口の向こうには、誰もいないかもしれないわ。そんな馬鹿なって思うでしょ。だけど、どう、この状況を見て。私たちがあなたのそばに来て、誰がこの路地に入ってきたり、覗き込んだりした?考えてみれば、車の音だって、聞こえないようね」 青年は動揺して、辺りを見回す。彼の耳には、路地の外からの静寂しか聞こえない。 「え・・・・・・」 とても小さな声で、青年がつぶやく。疑問のような、絶望のような声色で。青年の瞳孔の色の変化を見て取ったTは、彼の体を自由にする。しかし、青年は動かない。 そんな彼に、私は言う。 「「ゲンジツ」とは、脆いものよ。あなたは今、「ゲンジツ」にぽっかり空いた、穴の中にいるわ」 青年は口をぽかんと開けたまま、私の目を見ている。私は、動かないまなざしを返す。彼は、Tの方を見上げる。そして同じ動かない視線を受けて、わずかに震え始める。 「・・・・あ・・な・・・・・・?」 「そう、穴よ」 青年は再び、私たち2人を交互に眺める。じりじりと、彼は体をTから離していく。彼は逃げるだろう。この路地から、物凄い勢いで飛び出すだろう。しかしもう、十分。 「あなたは、「ゲンジツ」の穴に落ちたわ。そこから出たとしても、もう、あなたの前に、今までどおりの「ゲンジツ」は存在しないわ」 それが彼の耳に届いたか否か、彼は、地面に転がる自転車には見向きもしないで、路地の出口へと走り去った。しばらくして、すこし離れたところから叫び声が上がったが、声はそのまま遠ざかっていった。 私とTは、何も無かったかのようにその場にたたずんでいる。 「行こうか」 ようやくTがそう言って、私たちは路肩に止めてあった車に乗り込む。 私は助手席でシートベルトを締めながら、Tに言う。 「彼からの「ゲンジツ」の剥離は、75%というところね」 「思いのほか低いな」 「だけど、彼の今までの生活からすると、放っておいても1ヵ月後には100%になる」 「そうだな。一応、監視役に経過報告を頼もう」 「そうね」 車が走り出すと、窓の向こうを電飾が彩った建物が流れていく。人々が、何事もないように歩道を行き交っている。 私が「ゲンジツ」を失って、どれくらいか経った。見るもの触れるものはすべて目の前を通りすぎ、なにひとつ、私に痕跡を残しはしない。己が「生きている」ということさえ、当に感じなくなってしまった。「生きる」ということを追求する問いさえ、もう必要とはしなくなった。私にはもう、「ゲンジツ」などないのだから。 Tはラジオをつけることもなく、ハンドルを握っている。彼と私が同じ世界に存在している、なんてことも、お互い全く信じてはいないだろう。彼は以前に言った。何もかもが、実体を持たない影なのだから、と。 窓の外には、相変わらず平板な絵が流れていく。 わたしはふとコートの袖に目をとめる。雫が落ちそうなほどに湿っている。 雨が降っていたなんて、気づきもしなかった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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