ある日のこと、彼女は自分の父親に頼み事をした。彼女は子牛の世話もしているが、その内の一頭を売らないで欲しいと言ったのだ。
彼女「ペットにするから。かわいそうでしょう?売るのは。」
父親の男性は苦い表情になった。
父親「でもその子牛をどうするんだ?”ペット”って……、飼うのか?」
彼女「飼うの!かわいそうじゃない!それに最後は売ってしまうんじゃ、何の為に育てているのかわからないじゃない!」
父親「でも、うちはそれで生計立ててるんだから。しかたない。売らないと今度は私たちが食べていけなくなる。」
彼女「一頭ぐらいならいいじゃない!あの子はこれまで私がずっと面倒見て来たんだから!」
父親「……………………。
でも今まであの子牛にかけてきたお金を考えると……、飼料代だってバカにならないし。」
彼女「私が都会に出て働くから!その分のお金は支払うから!」
父親「え?ここを出て行くのか?」
彼女「都会のビジネスビルの中で働きたいの!」
父親「この農場を捨てるって言うのか?」
彼女「そんな言い方はやめて!たまには手伝いに来るから!」
私ははたからその会話を聞いていたが、父親の男性は今にも尻餅をつきそうなぐらい驚いていた。でもそれは「年齢のギャップ、時代のギャップ」というものだろうか。
確かにバイト感覚なら都会に出れば彼女ならいくらでも働く場所はあるだろう。
だから都会に出るのはまあ良いとしても、結局「農場では無く、都会に憧れる」のは現代女性の常である。もちろん男性だってそうだ。
田舎に住んでいると都会に憧れ、逆に都会に住んでいると田舎に憧れる。
田舎に住んでいる若者は、都会のお店や遊びに行く事に憧れを抱き、都会のファッションや、美しいデザインの建物。はたまた豊富な飲食店や数々のショップ、あるいは電気屋街に惹きつけられる。
だがその一方で都会に住んでいる者は逆に田舎ののどかな風景、そしておいしい空気、静かな環境に憧れる。都会に住んでいるとうるさい車の騒音や電車の音がもう”空気”と化して気にはならなくなっているが、それが田舎に行くと”騒音”だったと初めて気付く。
現代はものすごい奥地の田舎でもなければ、田舎といえどもコンビニがあったりする。
車があれば、1時間も走れば大都会さながらの繁華街にも行ける。
つまり田舎でも車やインターネットさえあれば不自由はない。
でも彼女が言っているのは、”都心”のことだ。東京のあの都心のどこかに住んで、こういった土がある場所から離れて、ビルの中で働きたいというのだ。
まあ、そういう物だろうなあ。あの年代の女の子なら。
ところで牛をかわいそうだと思うのは彼女も私もいっしょだ。
私も植物を相手に、それを育てて売るのはいいが、動物を育てて売るのには抵抗がある。
だから私も彼女の気持ちが良く分かるのだ。
THE END
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Last updated
2015/06/21 02:10:57 PM
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