2004/09/12(日)23:14
名前、年齢、階級と私のマイルストーン
当事者の立場にならなければ本当のところは分からない。
私はこの言葉が嫌いだ。今までに使ったことはないし、これからも使いたくはない。人の理解を拒絶する言葉であり、人と人との係わりを断ち切る言葉だと思う。そうであってもこの言葉は真実だ。人の想像力には限界があり、見たくないものは意識的にせよ無意識にせよ見ない嗜好性もあり、無知もある。
今見ているテレビが妙に静かな音楽を低く流す時間がある。淡いバックに名前、年齢、階級が写し出される。イラクでの今週の戦死者を知らせるのだ。毎日、1、2人の人が亡くなっているはずだから、局によっては毎日流しているところもあるかもしれない。9月の7日、イラクの戦死者が1000人に達したと言うニュースを聞いた。私の見ていたニュースではこれにmisery milestoneという見出しを付けていた。
日本にいて1000人と聞いたらどう思っただろう。3月から戦争をしているのだからそんなものかもと思ったかもしれない。ロシアで数百人の子供が3日で死んだことを思えば多い数とは思わなかったかもしれない。戦死者は4月が最も多かったのだが、その後毎月50~80人位の状態が続いているそうだ。
でも、こうして戦死者の情報を毎週見ているとその数の意味するところも違ってくる。名前、年齢、階級の文字列は神経回路を伝わって、人種、生い立ち、容貌や家族のイメージを表出させる。もちろん本人とは違うものなのだけれど、少なくとも数字ではなく人に思える。意識的に想像しようと思わなくても、時には見たくないと思うことでも、人の脳は入ってくるあらゆる情報を引き金に奥の倉庫から様々な断片を取り出し、決して分からない他者の思いを少し、時には劇的に伝える。
私の気持ちは同じ立場の人でなければわからない。
冒頭に書いたとおり、私は人にそういったことはない。でも、胸に思い浮かべたことは数限りない。今でも、多分しょっちゅう思っている。
この日記を書き始めたとき、ネットに載せながら一方で人に見られるのにびくびくしていた。
特に同じテーマの人以外には絶対に見られたくなかった。
面白半分に覗かれるのはいやだった。
アクセス記録にテーマとは全く無縁の人と思える名前を見るのがいやでたまらなかった。
でも、今はどんな動機にしても人が人の思いを知るのはいいことのように思える。アクセスが増えると素直にうれしい。
これもいつも前向きなメッセージを下さる皆様のお陰です。ありがとうございます。
私も自分の小さなマイルストーンを1つ超えたのかもしれません。