2012/04/05(木)14:49
昇任祝の表敬訪問(072909)
私は以前からそこここで言い続けていることなのですが…
困ったとき、助けて欲しいときには大声で騒ぎ立てる。
それを戒める人もいる。しかし私はこれを肯定しているのです。
苦しいときはその苦しさを身体全体で騒ぎ立てなさい。と。
しかし、手落ちは許さないのです。
それは助けの手を延べてもらって助かって、苦しさを乗り越えたときには
もう一度それを大きく表明しなさい。 と。
例えば何かを無くしたとします。そのことに気付いたらみんなに知れ渡るように「●●を無くした!」と騒ぎますよね。それでよいのです。よほど冷徹な人以外は、その困っている人に手を貸しますよね。 で、見つかったときにその人がどうするかが私の価値判断の基準なのです。騒ぎ立てたときは衆人に及ぶ広報をしたのに、見つかったときには見つけてくれた人だけに「ありがとう」で済ませていないかということなのです。衆人に広報したからには解決も衆人に広報し感謝すべきでしょう。
同じように
自分が世話になった人に対して、世話になるときだけは頭を下げて、それが実ったときやその人に喜ばしいことが起こったときにそれに対しての謝意や祝意の表現をできない人を私は軽蔑の対象とし、それがきちんとできる人を尊敬の対象としているのです。
今年厚木管内で校長昇任をした何人かの校長のうち、一人は私が現職の頃、彼が行政にいて
何かにつけて相談に載ってくださって、サポートしてくださった人が新たに校長に
昇任なさったのです。
一人は、私が教頭として赴任したA小学校で中堅職員として、いろいろ力になってくれて、
私の協力者を積極的に集めてくださった先生。
最後の一人は隣接の愛川町に赴任したときに、教頭の私に
「あの先生は優秀だから、先生方の指導者としての抜擢をするように」と、
教育長直命があって、現場の教員としてがんばっていた先生を行政に行くよう
説得し、赴任して戴いた先生がようやく(とはいっても年齢は破格に若いのですが)
校長に昇任なさったのです。
私の歓びは並大抵のものでは済みません。
それぞれの学校へ出向きお祝いに行って来たのです。
今日のこの日記をお読みになって、
「Bluesmokerは年下のはずの人に、やけに敬語を使っているのはおかしくないか?」
そんな風に思っておいでの方もいらっしゃるかも知れませんね。
そこが、私独特といえば独特の、独りよがりといえば独りよがりの処ではあるのですが、
感謝や祝意に年齢の上下はないと思っているのです。
どの様な内容であっても、自分の知らない程度よりも高いものを持っていたら
それは「師」だと思っているのです。
そんなで、少々お読み戴きにくいところはあるかも知れませんが、
お許しください。