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2012/06/09(土)21:11

反復帰論 再び注目-40年前、「国家にすり寄る沖縄」を批判(9日の日記)

政治問題(2275)

 40年前に佐藤内閣が沖縄の本土復帰についてアメリカと交渉しているときに、沖縄には、日本に復帰することに反対する考えを持った人たちもいた。残念ながら極少数だったため、沖縄の意思となることはなかったが、復帰して40年たって、本土並みの復帰がいまだ実現していない状況から、その「反復帰論」が再び注目を浴びていると、5月16日の東京新聞が報道している;  本土復帰に盛り上がっていた1970年前後の沖縄に、「反復帰」という考え方があった。日本国民に同一化しようとする精神を批判し、自立のあり方を探ろうとした。復帰を果たした沖縄には、国内の米軍専用施設の7割が集中し、普天間飛行場を県外に移設してほしいという願いも、本土の政府には届かない。40年を経た基地の島で、反復帰論が再び注目されている。  (小嶋麻友美)  「復帰」ではなく「再併合」だった。反復帰論の中心だったジャーナリスト新川明さん(80)=沖縄県西原町=は、そう話す。  薩摩藩の琉球侵略、明治政府による琉球処分など、沖縄の歴史は併合と植民地化でつづられてきた。そうした過去を踏まえ、復帰運動の根底にある「沖縄人が自ら国家にすり寄り、日本人になろうとする精神」を、新川さんは批判した。  米軍支配下で人権を踏みにじられていた沖縄の人々は、平和主義や基本的人権を定めた日本国憲法の下への「復帰」を切望した。新川さんは憲法自体は評価しながらも、戦争放棄を定めた9条について「9条成立の担保には、沖縄の米軍基地がある。9条は沖縄を踏み台にして存在している」と指摘。沖縄は憲法とは別の理念を持つべきだと主張する。  しかし、”祖国”への復帰一辺倒だった当時、反復帰論は異端視され、批判された。正面から問い直されたのは、95年、米兵による少女暴行事件で県民の不満が爆発し、基地反対のうねりが起きてからだ。  そして今、政権交代を経てもなお基地負担を押しつける本土に失望は広がり、「差別」「琉球独立」などの言葉が飛び交う。「復帰は何だったのか」という問いとともに、反復帰論が注目を集めている。  復帰40年に当たり、新川さんは若い世代と対談する機会を得た。「復帰運動の背景も反復帰論も知らない世代が、話し合うと、すっと理解してくれた。直接経験はなくても、現実の沖縄に矛盾を感じるからでしょう」  政府に補助金や振興策を求める沖縄には、国家にすり寄る「復帰」思想が今も続いているように映る。だが鳩山政権の迷走を経て沖縄は、米軍基地の「県外移設」で一致し、「自立に、やっと半歩踏み出した」とも感じている。  「若い人たちが反復帰論を問い直す中で、一沖縄のあり方を見つけていってほしい。揺り戻しもあるだろう。50年後に、僕らが夢見た自立が存在すればいいなと思う」 <キーワード>反復帰論   1972年の復帰前後に、沖縄タイムスの記者だった新川明氏や川満信一氏、琉球大学教授の故岡本恵徳氏らが唱えた思想論。日本という「国家」や「国民」に無条件に組み込まれることは沖縄の埋没につながるとし、復帰運動の思想を批判した。 2012年5月16日 東京新聞朝刊 12版 26ページ「反復帰論 再び注目」から引用  敗戦の直後は、日本中至る所に米軍の基地があったのであるが、大方はサンフランシスコ講和条約が発効した後、必要がなくなって撤退したが、それでも残っていた米軍基地に対しては、住民とその頃勢力が旺盛だった労働組合などが連携して基地反対運動を行って、撤去させた基地も数多くある。そのようにして撤去せざるを得なかった基地は、半ば自動的に沖縄に移設されたらしい。したがって、現状で沖縄の人が「本土の憲法9条が、沖縄の基地を踏み台にしている」と言っても、我々本土の住民はそれに反論ができない。しかし、そういう現状を我々は肯定するわけにはいかない。現状では、沖縄は日本なのだから、沖縄にも憲法9条が適用されて当然である。政府も国民も、憲法9条が沖縄にも適用されるように努力しなければならない。幸いなことに東西冷戦も終結し、武力に頼らない安全保障政策もやりやすい環境になっているので、この際、アメリカには安保条約の廃止を通告し、沖縄の米軍基地は全て撤去する。これが全てを丸く治める方策である。

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