戦後の国会で教育勅語が廃止されたいきさつについて、藤田昌士著「学校教育と愛国心」は次のように述べている;
第3節 教育勅語の排除・失効確認
1890(明治23)年以来、日本の教育に君臨してきた教育勅語はどうなったのでしょうか。1946(昭和21)年2月、当時文部省学校教育局長であった田中耕太郎は地方教学課長会議において「教育勅語は我が国の醇風美俗と世界人類の道義的な核心に合致するものでありましていはば自然法とも云ふべきであります」(7)と述べています。また、第一次米国教育使節団の来日(1946年3月)にあたって設けられた日本側教育家委員会(委員長は南原繁)の報告書(同年4月〔推定〕)では「更めて平和主義による新日本の建設の根幹となるべき国民教育の新方針並びに国民の精神生活の新方向を明示したもふ如き詔書をたまはり度きこと」(8)との意見が述べられています。しかし、同委員会の委員の多数がひきつづいて委員となった前記の教育刷新委員会では、1946年9月の第一特別委員会第二回会議で「教育勅語に類する新勅語の奏請はこれを行わないこと」を挙手多数で決定しています。そして同会議での承認をも得て文部省は同年10月、式日等における教育勅語の奉読をさしとめる次官通牒を発しています。(9)
このような措置はなされたものの、なお政府の態度は、1947(昭和22)年3月、第92回帝国議会(貴族院)における高橋誠一郎文相の答弁によれば、「此の法案(教育基本法案-引用者注)の中には、教育勅語の良き精神が引き継がれてをります」「教育勅語を敢て廃止すると言ふ考はない」(10)というものでした。しかし、教育勅語と教育基本法との形式・内容両面にわたる矛盾は覆うべくもありません。1948(昭和23)年6月19日にいたって、衆議院における「教育勅語等排除に関する決議」、参議院における「教育勅語等の失効確認に関する決議」によって、教育勅語の「排除」「失効確認」の宣言がなされました。衆議院決議は「思うにこれらの詔勅の根本理念が主権在君並びに神話的国家観に基いている事実は明らかに基本的人権を損い且つ国際信義に対して疑点を残すもとになる」としています。
なお、これに先立ち、同年5月、参議院文教委員会において、当時参議院議員であった歴史学者の羽仁五郎は「教育勅語が如何に間違って有害であったかということは、道徳の問題を君主が命令したということにある(中略)専制君主の命令で国民に強制したというところに間違いがある」と述べています。(11)教育勅語が有する形式面の問題性を鋭く指摘したものです。また、教育勅語の内容については、すでに述べたように、国民学校期の修身教科書教師用書のなかに「皇国臣民としての道徳は、教育勅語に拝諭し奉ることのできるやうに、すべて天壌無窮の皇運を扶翼し奉らんとするところに帰着するものでなければならない」とあったことを再確認しておきたいと思います。
<脚注>
(7) 鈴木英一・平原春好編『資料 教育基本法五〇年史』勤草書房、1998年、105ページ。
(8) 同書119ページ。
(9) 五十嵐顕・伊ケ崎暁生『戦後教育の歴史』青木書店、1970年、77ページ。大田尭編著『戦後日本教育史』岩波書店、1978年、109ページ。
(10) 前掲『資料 教育基本法五〇年史』 324ページ。
(11) 堀尾輝久「勅語・基本法・期待される人間像」、雑誌『教育』1967年2月号所収、14~15ページ。中野光・藤田昌士編著『史料 道徳教育』エイデル研究所、1982年、130ページ。
藤田昌士著「学校教育と愛国心」学習の友社2008年刊 147ページ「第3節 教育勅語の排除・失効確認」を引用
この記事が示すように、戦後教育基本法が制定されてもなお、戦争の反省が足りない保守政治家は教育勅語も必要と考えていた模様です。しかし、当時の国会は、なぜ愚かな戦争をしてしまったのか、よく反省した意識の高い議員が多数をしめ、新しい憲法で人権尊重を重要な柱とする建前から、国民の人権を蔑ろにする非人道的な教育勅語は、国民教育に有害であるとの認識により廃止決議に至ったものです。このような事実を踏まえて、私たちは「教育勅語にもいいことが書いてある」などという馬鹿げた妄言に、しっかり反論する根拠を持つべきです。