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2016年01月16日
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テーマ:ニュース(99457)
カテゴリ:政治問題
 昨日引用した長谷部氏の記事は、わが国憲法に緊急事態条項を新設する必要がないことを完璧に論証した優れた文章であったが、その続きのパラグラフでは、それでも安倍政権が数に頼んで強引に「緊急事態条項」を書き加えた場合は、どのような問題が想定されるのか、次のように述べている;


<昨日の続き>

◆不可欠の司法的コントロール

 ドイツの例からも分かるように、現代のまっとうな立憲主義国家では、緊急事態に対応する法制を実際に運用しようとするときには、裁判所による監視と抑制の仕組みが必ず採り入れられている。緊急事態条項を発動する際の司法的コントロールは、いわばグローバル・スタンダードといってもよい。

 ところが日本の場合、裁判所による監視と抑制という点で、大きな障害となっているものがある。それが「統治行為論」(統治行為の法理)である。統治行為の法理とは、国家の存立に関わる高度に政治的な問題については、裁判所は判断を回避するという法理である。これまで日本の最高裁は、この法理に基づいて、日米安保条約や解散権行使の合憲性について政治部門の判断を丸飲みし、独自の判断を回避してきた。

 もし、統治行為の法理が温存されるのであれば、たかだか解散権の行使でさえ政治部門の判断を丸飲みしてきた裁判所が、国家の存立が危機に瀕する緊急事態の発生の有無や、それへの対処のために何が必要かについてはなおさら、政治部門の判断を丸飲みすることになると考えるのが自然の流れであろう。国民の権利への特別の制約が必要にして最小限度のものにとどまっているか否かを判定するためには、そもそも緊急事態が発生したのか、それにどの程度の緊急性があるのかについても、裁判所が独自に認定し判断する権限がなければならない。

 先に論じたように、導入の必要性の乏しさにもかかわらず、とにかく緊急事態条項を憲法に盛り込みたいのであれば、少なくとも、統治行為の法理は日本国憲法下ではもはや妥当しないことを明らかにする規定も盛り込む必要がある(なお、最高裁の憲法判例は、普通は最高裁自身でないと変更できないが、憲法改正手続を踏めば判例を覆すことができる)。

 もっともそうなってくると、その改正以降は、安保条約や解散権の行使の合憲性を含めて、政治部門の行為の合憲性については、裁判所がとことん合憲性と合法性を審査するということになる。また、2014年7月1日の集団的自衛権行使を容認する閣議決定や安保法制の合憲性についても、やはり最高裁が最終的に答えを出すべきだということになるだろう。だが、果たして今の政権や与党議員に、そこまで踏み込む胆力はあるだろうか。

 つまるところ、裁判所の権限の根底的な強化がなければ、他のまっとうな立憲主義諸国とは比較にならないお粗末な緊急事態制度になってしまう。日本において緊急事態条項を憲法に盛り込むというのなら、統治行為の法理の廃棄が伴わなければ、そもそも筋が通らない。

 とはいえ、問題はそれだけにとどまらない。司法権の違憲審査権限が従来の統治行為に関わる分野にまで広がるとなると、政治部門の側は、人事権限を通じて司法部門に影響を与えようとする懸念があるためだ。憲法上、最高裁判所裁判官の人事は、長官も含めて内閣が決定権を持っている(長官については日本国憲法6条2項、それ以外の裁判官については79条1項)。今までは慣例に則って、あまり乱暴な人事はなされてはこなかったが、慣例を無視して権力を最大限使うという内閣や首相が出てこないとも限らない。

 そこで、裁判官人事の独立性を高めることが必要不可欠になる。たとえば(万全の策とは言えないまでも)、国会両院それぞれの総議員の三分の二以上の同意がなければ最高裁判所裁判官の指名・任命はできないという仕組みを導入することで、その時々の政治部門の多数派によって、最低限、最高裁裁判官の人事が悉意的になされないようにしておく必要があるだろう。それが確保されなければ、日本の立憲主義が壊れてしまうからである。

<後半省略>


岩波書店「世界」2016年1月号 144ページ「日本国憲法に緊急事態条項は不要である」から一部を引用

 この記事では、わが国司法の弱点は「統治行為論」を言い訳にして自らの判断を回避して行政の言い分を丸呑みしてきた点にあることを簡潔に指摘しています。また、最高裁判所裁判官の人事を内閣が掌握しているために、ことあるごとに最高裁が政府与党の意向を忖度する傾向にあることは、先日の「夫婦別姓」裁判判決でも認められました。幸いにして今のところ、最高裁裁判官の人事が内閣によって恣意的になされたことはないようですが、安倍政権においては、日銀総裁人事も内閣法制局長官人事も、これまでの慣例を無視した首相のイエスマンを起用するという恣意的な人事が行われたことは、国民の記憶に新しいところであり、最高裁人事にも同じ手法を用いることについて、安倍首相はさして高いハードルがあるとは認識していないことでしょう。夏の参院選に向けて、安倍政権によるこれ以上の立憲主義破壊を許さないという声を上げていく必要があると思います。







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最終更新日  2016年01月16日 11時45分53秒
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