川崎市で通学途中のバス停にいた小学生が襲われた事件について、6月21日の神奈川新聞は次のように書いている;
「お前の家族が同じような目に遭う状況を想像させてやろうか」-。
川崎の児童殺傷事件後、「死にたければ1人で死ね」との論調に異を唱えた社会福祉士の藤田孝典さんには、脅迫まがいのメールや手紙が多数届いた。
犯人に向けて「1人で死ね」という怒りをぶつける感情は分かる、と藤田さんは言う。
だが「1人で死ね」という誰かの死を望むような言葉が会員制交流サイト(SNS)などインターネット上で拡散し、一人歩きすることで、事態がより悪化することを藤田さんはこれまでの経験で知っていた。
数年前、生活保護受給者へのバッシングが社会に吹き荒れた時だった。「あのバッシングの中で生活保護受給者が何人も自殺しました」。藤田さんが関係していた30代の男性も自ら命を絶った。
今回もまた、孤立感を深めている人が「やはり、社会は何もしてくれない」と追い詰められることを危惧する。
「誰かを袋だたきにしても、社会はよくならない。直線的な怒りを吐き出し、留飲を下げる。とがった言葉は社会を分断させるだけで危険だと思っています」
自身に向けられた激しい批判。背筋が凍るような体験だったと振り返った。
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「練馬の事件は止められました」。藤田さんは言った。
「1人で死ね」という言葉が責任感の強い元農林水産事務次官を追い詰めたと思うからだ。「SNSなどは極論が集まる傾向にある場所ですが、極論は一人歩きする。だから、命を大事に、生きてという当たり前のことをあえて発信しなくてはならなかった」
藤田さんは、テレビのコメンテーターなどには想像力を働かせてほしかったとの思いがある。家族会や当事者の会なども今は数多くある。「ですが、そういう場に行ってみてはどうかといったコメントは、残念ながらありませんでした」。新聞というメディアに身を置く私も、厳しく問われている気がした。
藤田さんは、元事務次官の行動を肯定する言説が出たことにも深い憂慮を覚えたと話す。
家庭内暴力のあるような引きこもりは殺してもいい、父であり、官僚機構のトップまで務めた人間がそう判断したのなら仕方がない-。そうした考えは優生思想につながりかねない。相模原市の殺傷事件で障害者に向いたおぞましい考えが、引きこもりの人に向けられる。一種の線引き、分断である。
「ヘイトスピーチもそうです。自分と違う他者への寛容性が、この社会からなくなってきているように思います。一歩間違えば虐殺事件も起こりかねない」
相手への想像力を欠き、冷たく分断された社会。「自己責任」論が大手を振る風潮の中、家族の孤立がより深まっていく。
「この30年間、地域のコミュニティーは急速に劣化しました。川崎の住宅街もそうでしょう。誰かとひもづいた生き方がない」
非正規雇用は4割に達し、経済状況もよくない。にもかかわらず、それを支える政策も乏しい。
貧困の問題に長く関わってきた藤田さんは指摘する。「考えてほしいのは、誰もがいつでも加害者に転じ得るということです。いつ、自分の家族で社会と適応するのが困難な人が出てきてもおかしくない。今の社会は、何でも自己責任ですから、家族のことは家族でと問題を抱え込んでしまう」
2つの事件で、藤田さんが強く感じたのは「一つの価値観に縛られ、つらい思いを抱えていたのではないか」ということだ。「引きこもりは悪い」「男は働いて世帯をなすもの」「家族のことは家族で解決する」…。
現実はすでにそうした価値観、規範とは合致しない。両事件の背景には、80代、70代の親が、50代、40代の子の生活を支えて行き詰まる「8050、7040問題」がある。今年3月末、内閣府は40~64歳の「引きこもり中高年者」は推計で約61万3千人に上ると公表。厚労省も「新しい社会問題だ」と言及した。
「日本は社会保障も旧来の規範に沿って組み立てられている。働いて、世帯を形成する人には支援がありますが、稼働年齢層で無職の人には何の支援策もない。旧態依然です」。就労支援に誘導するだけではない支援のあり方を考えるべきだと、藤田さんは指摘する。
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川崎の事件で容疑者が「引きこもり」傾向であったことが報じられ、練馬の事件は起きた。「引きこもり」という言葉について、報道はどうあるべきだったのか。
藤田さんは「難しいですよね」と言い、続けた。
「川崎の事件後に発信したメッセージで『他者への言葉の発信や思いの伝え方に注意してほしい』と書きました。しかし、事実関係を見れば引きこもりであったと断定せざるを得ない。でも、引きこもりの人や社会に絶望を抱いた人が凶行を起こすのは極めてまれです。多くの人は自ら命を絶ってしまう。事件が起きたから引きこもりがどうこうではなく、日常的に『引きこもりは悪ではない』と思う人が増えないといけない。生きづらさを感じている人の声を聞くことは、より良か社会にするためにとても大切です」
凶悪事件が起きれば加害者の生い立ちや生活状況などを取材し、報道する。川崎の事件でも、市の会見を受け、加害者の男が「引きこもり」状態だったことをまず報じたのは私たちだ。そして、その言葉がネットなどで広まっていく。
2つの事件から教訓を得なければならないと藤田さんは強調し、自らの体験談を語った。
「引きこもりの方が集まり、食事した場で、仲間と出会えてよかったと涙ながらに話す場面を見たことがあります。人間は社会の中でしか生きられない。あなたに生きていてほしい。そういった言葉をつらい立場の人に伝えられる社会を、私たち一人一人が意識してつくっていくしかない。そうでなければ、事件で亡くなった方々が報われないと思います」
今の社会に生きづらさを感じる人たちとその家族が、こんなにも多くいて、身近な所で孤立していたことに、私は恥ずかしながら思いをはせる機会がほとんどなかった。
「誰もが加害者になり得る」という藤田さんの言葉が重く響く。私たちの社会はいつの間にか、悩み、苦しむ人を追い詰めてしまうような風潮を、無自覚のうちに形づくってしまったのかも知れない。違った一歩を踏み出すためにも、まずはそのことを深く自覚し、社会に訴えかけていきたい。
<藤田孝典さん> 1982年生まれ。社会福祉土。 NPO法人「ほっとプラス」代表理事。首都圏で生活困難者の支援に取り組む。聖学院大学客員准教授。著書「下流老人」「貧困クライシス」など。
2019年6月21日 神奈川新聞朝刊 A版 19ページ 「『引きこもり』報道の波紋(下)」から引用
川崎の児童殺傷事件が報道されてすぐに、ツイッターには藤田孝典氏の「死ぬなら一人で死ね」という投稿はやめるべきだというツイートが書き込まれました。藤田氏のツイートが無かったら、世間には「死ぬなら一人で死ね」という言説が横行して「ひきこもりは犯罪者予備軍だ」というような偏見が蔓延した可能性があったと思います。そういう観点から、藤田氏のツイートは人々に冷静な視点を提供することに成功したと思います。そもそも、対人関係がスムーズにできないために社会に出ることができずにいる人に「引きこもり」などとレッテルを貼って差別するかのような世の中の風潮からして、私たちは考え直すべきであり、対人関係に困難を抱えている人たちも安心して出て来れるような社会環境とはどのようなものなのか、という所から考え直す必要があるのではないかと思います。