より良い明日をめざして

2020/04/03(金)01:00

五輪と鹿鳴館(3日の日記)

ニュース(3739)

徳川三百年の鎖国を解いて海外との人の行き来が頻繁になった明治10年は、伝染病のコレラが流行しました。その頃のことについて、文芸評論家の斎藤美奈子氏は3月18日の東京新聞コラムに、次のように書いています;  明治政府は発足まもない頃から、コレラの感染に悩まされたらしい。  最初のコレラは明治10(1877)年、西南戦争の年に横浜で発生。患者1万4千人、死者8千人余で終息した。明治12年、政府は内務省に内外の医師を招いて「中央衛生会」なる組織をつくり、官民あげての撲滅作戦に出たが、強圧的な防疫政策をとったため、「コレラ一揆」が各地で多発した。  <上からの衛生キャンペーンだけでコレラが撲滅できるものでもなく、かえってそこには民衆の反発・不信を惹きおこし、むしろコレラにまつわる一連の社会問題を続発させる一因となつていくのである>  以上、立川昭二『病気の社会史』(岩波現代文庫)で読んだ話だ。  明治15年、再びコレラ禍に見舞われた東京では強制隔離を優先し、警察まで動員された。  <このとき、政府はいったいなにをしていたのか> と著者は怒る。  <伝染病の負担は地方財政におしつけ、軍備の拡張・宮殿の造営・条約改正の交渉に狂奔し、そして鹿鳴館の舞踏会にうつつをぬかしていたのである>  16日のG7首脳緊急テレビ電話会議後、首相は東京五輪に言及し、「人類が新型コロナウイルスに打ち勝つ証しとして、完全な形で実現することについてG7の支持を得た」と語った。この話は本当なのだろうか。それって明治政府と大差なくない? (文芸評論家) 2020年3月18日 東京新聞朝刊 11版 25ページ 「本音のコラム-五輪と鹿鳴館」から引用  ニュースによると、政府が招集した専門家会議は、日々増えつつある新型コロナの感染者数を憂慮して今のうちに「非常事態宣言」を出して具体的な対策を実施するべきだと答申をまとめたのだが、安倍首相は「日本の法律で出せる『非常事態宣言』は、欧米の法律と違って外出禁止命令に背いたからといって罰金を取れるようなものではないので、運用については慎重に考えたい」と発言したそうで、「それでは具体的な対策はいつから始めるのか」という批判の声もあるとのことです。  それにしても、上の記事では明治維新から10年ほどで伝染病対策として「中央衛生会」という組織を立ち上げて対策を講じるとは、意外に「先進的」だったなあと、私は思います。立川昭二氏は「コレラが流行っていたのに、鹿鳴館とは何事か」と怒ったそうですが、江戸時代が終わって10年くらいで西洋医学の知識を取り入れて、衛生観念を理解したというのは、恐らく江戸時代が終わる10年くらい前から、人々の間にはそういう「そろそろ鎖国も終わりにしなきゃ」というような意識が芽生えていたのではなかっただろうか、などと想像しました。

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