社会に存在する「外国人差別」や「女性差別」を新聞が維持し助長する役目を果たしている状況について、法政大学名誉教授で元総長の田中優子氏は、8月17日の東京新聞コラムに、次のように書いている;
7月28、29日の複数の新聞で、佐賀県の殺人事件を報道する際の見出しに、容疑者の外国籍が記載されていた。容疑者を報道する時になぜ国籍を見出しにつけるのか? 参院選後とりわけ気になった。国籍を見出しにつけるルールがあるなら、日本人も書くべきではないだろうか。
日本における外国人の割合は総人口の約3%で、犯罪率は減っている。それなのに日本の問題は外国人のせいだとする政党が出てきた。その3%がいなくなると、日本は劇的に良くなるのか? 無理がある。
犯罪報道に外国籍だけ書くことで、外国人犯罪が多いように錯覚させている。書くなというのではない。日本国籍も書くべきだ。その方が印象と実態の差がなくなる。差別は日々の積み重ねだ。関東大震災では多くの朝鮮人や中国人、それらの人に間違われた日本人が殺された。日常の差別が災害の不安で引き出された。今回の選挙結果も、日本の凋落による不安感を差別で消し去りたい人々がもたらしたものだろう。
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やはり7月24日、もう一つ気になる報道があった。東京都新宿区における性売買女性の摘発で、4人の女性の顔や名前、年齢、逮捕の様子が撮影され報じられたのだ。日頃から多くの女性が逮捕されている。売春防止法第3条には「何人も、売春をし、又はその相手方となってはならない」とある。「その相手方」も、法律で禁じられているのである。
しかし第5条で売春側に罰則規定があり、買春側に規定がないために逮捕できない。このおかしな法律を改めねばならないのだが、まずはその前に、買春も違法なのに、報道が買春側を違法者として報じないのはなぜだろうか? この法律を支えている構造的な差別こそを、報道すべきではないだろうか?
7月25日、一般社団法人Colaboは「性売買女性の摘発と報道の在り方に関する声明」を出し、記者会見した。代表は、女性たちがなぜ売春を繰り返したのか、そこにある構造的差別を丁寧に説明した。それでも「女性たちに売春しないように言わないんですか?」と、男性記者が質問した。偏見が理解を妨げる典型事例だ。
そこで列席していた3人の理事がそれぞれ「売春防止法の欠陥」、「買春が人身取引にあたる」こと、そして国の女性支援新法が、「性的な被害、家庭の状況」などさまざまな事情により「困難な問題を抱える、あるいは抱えるおそれのある女性」に「寄り添いつながり続ける支援」を目的にしていることを、さらに丁寧に説明した。
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女性はいまだに数百年にわたる売春構造の中に位置付けられ、搾取されている。そこには、性搾取にとらわれやすい障害者や性暴力被害者の姿も見えてくる。最も重要なのは「体を売らなくても生きていかれる」と思えるようになるまでの自立支援なのである。その支えが必要な女性たちを犯罪者として報道する行為は、女性たちの人生を奪っている。そのことを理解してほしい。
「男消し構文」という言葉を聞いた。報道では見出しに「女」だけが記載され男が消される。ここに実は「日本人消し構文」もある。差別する側は姿を消して差別し続けるのだ。それを無意識に行うから罪悪感もない。新聞がそういう存在でいいのか?
2025年8月17日 東京新聞朝刊 11版 4ページ 「時代を読む-報道と差別」から引用
容疑者が外国人のときだけ国籍を書くことにしている新聞記者は、この記事を読んで、多分「日本人容疑者の場合は、名前を見れば日本人だと分かるが、外国人の名前をカタカナで書いても何処の国の出身か分からないから、わざわざ国籍を確認して書いているのだ」と弁解すると思います。しかも、そのように弁解する当人は「それが正解であり、差別の片棒担ぎとして批判される筋合いではない」と信じているであろうとことは容易も想像がつきます。しかし、現時点での私たちは、目の前に存在する「差別」をなくす努力をするべき立場であることを、先ずは自覚する必要があり、さしあたってどのような「努力」をするかと言えば、先ず目につくのは、上の記事が指摘している「犯罪報道」の記事です。外国人容疑者だけ国籍を書くのでは、上の記事が指摘するように「弊害」があるのですから、長年続いてきたこの「弊害」を無くすために、これからしばらくの間は、日本人も外国人も必ず国籍を明記するという「ルール」を作って、新聞各社は犯罪報道の「ルール」とするよう努力してほしいと思います。