長期政権とは形ばかりで、中身はウソとデタラメのオンパレードだった安倍晋三政権は、歴代政権が「憲法違反になる」としていた「自衛隊の集団的自衛権行使」を、当時の憲法審査会に招致された3人の憲法学者が3人とも「憲法違反である」と証言したにも関わらず、その後の国会本会議で「数の力」で、自衛隊の集団的自衛権行使を可能とする所謂「安保法制」を成立させたのであったが、このような安倍政権のデタラメぶりを、早稲田大学教授の長谷部恭男氏は、9月18日の「しんぶん赤旗」で、次のように批判している;
安保法制強行に先立つ2015年6月4日の衆院憲法審査会で、「立憲主義」をテーマに招致された参考人の憲法学者3人がそろって、集団的自衛権行使を可能にする戦争法案について「憲法に違反する」との認識を表明しました。この表明は、安保法制に反対する運動が国民的な規模に発展するきっかけになりました。自民党推薦の参考人として同審査会に参加し、「集団的自衛権が許されるという点は憲法違反だ」と表明した長谷部恭男早稲田大学教授に安保法制の問題点と政治に与えた影響を聞きました。
(若林明)
安保法制には、さまざまな要素がありますが、焦点になったのは、歴代政権が行使を禁じてきた集団的自衛権の「部分的行使」を容認したという点です。
内閣法制局が、1972年10月14日の参院決算委員会で表明した見解は、日本が「自衛の措置(武力行使)」を取り得るのは、「外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態」であり、他国に対する武力攻撃を阻止する集団的自衛権の行使は認められない。認められる武力行使は、個別的自衛権の行使だけだとしました。
ところが、安倍政権は2014年7月の閣議決定で、この論理の整合性を解体し、逆転させてしまった。日本と密接な関係のある国が武力攻撃を受け、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」場合は、「我が国の存立を全う」するために集団的自衛権の行使が認められるとしました。他国に対する攻撃で、果たしてそんな事態がありうるか。論理的整合性もないし、その結果として、どういう場合に武力の行使が認められ、どういう場合に認められないかの基準が、全くなくなってしまった。だから、この閣議決定に基づく安保法制に対して私も含め、多くの方が大問題だと指摘しました。そもそも、政府は、もし集団的自衛権を行使するとしたら、改憲が必要だと言っていました。変えなければ、集団的自衛権の行使はできないのです。
◆「法の支配」軽視
第2次安倍政権の特徴の一つは、「法の支配」とか「立憲主義」を極めて軽んじることです。「法は何か」は、結局、自分たちが決める。場合によっては、「事実は何か」も、自分たちが決めるという政権でした。
例えば、森友学園の問題では、安倍首相は、自分なり、自分の配偶者が何か事件に関わっていたら、「政治家は辞めます」と言っていました。政治家を辞めないために、「関わりがなかった」ということにしてしまう。本来、政策を実行するための手段である官僚機構が、政治家の地位を守るための手段になってしまって、「都合の悪い」文書は改ざんをする、あるいは廃棄をするということがされたと言われています。
安倍政権を引き継いだ菅政権が起こした学術会議の任命拒否の問題では、逆転させる手間もはぶきました。過去の日本学術会議法の条文自体から、首相が任命を拒否できるはずがありません。明らかに違法です。もちろん、「学問の自由」の侵害であり、憲法違反でもあります。政府は「法律違反ではないのか?」と問われても、まともに答えようとしません。答えていないから、理屈も何もないんです。論理を言わないうちに、ありもしない学術会議の問題を持ち出して、法律自体を変えましょうと別の話をしてしまったのです。
◆「保守」と言うが
安倍首相は、「保守」だって言われていましたが、本当の保守は、真実は何かとか、官僚機構の役割は何かというのは大事にするのです。安倍首相はそうではなく、そういう価値を全否定して、何が真実であり、何が法であるか、自分たちで決める。「ニヒリズム」です。伝統的に大事だとされていた価値を、実は大事ではないのではないかと疑い、何が大事かは「われわれが決める」という考え方です。
論議も真実も全部吹っ飛ばして、最後に残るのは「私は大事だ」というナルシズムだけです。ニヒリズムの典型的な一つの症例です。アメリカのトランプ政権も、その典型でしょう。
野党にも、その傾向はあらわれています。共産党は、そもそも消費税に反対し、一定の財源も示されています。理屈が通っています。一方で、財源も示さずに、消費税の減税を主張したりする政党は参院選で票を取りました。また、排外主義を主張する政党も伸長しました。両党とも、論理がなく、党首はいかにもナルシズムの塊のような方だと感じます。
法を守るとか、理屈の通った政治をするとか、事実をないがしろにしない。これは最低限のことです。法はやっぱり守るし、論理にならない論理を持ち出さない、事実に反することはやらない。保守も、革新もないのです。安倍政権がはじめ、その後続いてきた政治は、その意味で、まともな政治になっていません。
政治がまっとうなことは一応やった上で、本来、政治がやるべきことがあります。将来のあるべき社会の姿を描き、こういう社会をつくっていこうと示し、各党派が競い合うべきです。自民党にその力は無くなってしまったかもしれません。自民党の終わりの始まりという人がいます。そうだと思っています。
2025年9月18日 「しんぶん赤旗」 2ページ 「違憲立法を強行した政治 法の論理も事実も壊した」から引用
結局、安倍政権が憲法を無視して「自衛隊の集団的自衛権行使は合法」とする法律をでっち上げるに当たって、どのような詭弁を弄したかと言えば、元々わが国が外敵の攻撃を受けて、自衛隊が合法的に応戦する場合の「条件」として「外敵の攻撃によってわが国存立の基盤が揺るがされる事態となった時には、自衛権を発動することができる」という文言を「応用」して、「わが国と密接な関係にある国が、敵に攻撃されて、その結果としてわが国の存立基盤が危険になることが予想される場合は、自衛隊が出動することが出来る」というもので、果たして、どんなに密接な関係であろうと、外国が攻撃されて、それによって日本が、国家として存立する基盤が揺るがされる事態になるなどということがあり得るのか?、どの法律の専門家も「そんなことはあり得ない」と一蹴する代物で、「あり得ない」ことを「条件」としているからには、そういう「条件」は未来永劫あり得ないのだから、その結果、自衛隊が集団的自衛権を行使するという事態も、永遠にあり得ないということになります。しかし、実際にはあり得ない「自衛隊の集団的自衛権行使」に備えて、日本政府は防衛予算を倍増し、トランプ大統領になってからは、更に増額要求が出てくる始末で、安倍政権のデタラメ政治も、アメリカの要求に対応するのには役だっているとは言え、国民の税金を無駄に浪費するのでは、いつかはそのツケに対する「対応」が必要になる時が来ると思います。