意見 押しつぶすもの(24日の日記)
政府与党が提出した国旗損壊罪法案は、与党側が十分な審議時間をとらずに野党の発言を許さないという異常事態の下で強引に衆議院を通過させたことについて、5日付神奈川新聞は市民団体代表の京極紀子氏の見解を掲載した; 日本の国旗を傷つける行為に刑罰を科す日本国旗損壊罪法案が、共同提出した国民民主、参政両党を含む全野党が欠席する異例の状況の中、衆議院本会議で強引に可決された。今後、参議院での審議に進む。同法案の廃案を求める声明を出した「『日の丸・君が代』の法制化と強制に反対する神奈川の会」の京極紀子さんに聞いた。(構成・柏尾安希子) 「日の丸・君が代」は戦争の旗であり、歌だった。日本の植民地支配に対する清算も全く終わっていない。そうした思いから、1999年施行の国旗国歌法制定時には反対したし、国旗損壊罪も廃案にすべきだと思っている。 国旗国歌法制定以前の91年、新聞に横浜の在日コリアンの女子児童の文章が掲載されたことがある。音楽の授業で教師が「君が代を歌えない人」を挙手で問い、勇気を振り絞って手を挙げたという。歴史の本を読み韓国が植民地支配された事実を知り、歌えないと考えたとした。 このように、さまざまな思いで「日の丸・君が代」に抵抗を感じる人がいる。少数であっても「嫌だ」と思う意見はどのような時でも尊重されねばならず、人々が国家や政治への批判を当たり前にできなければならないのが民主主義の基本だ。それが許されない象徴的な問題とも感じる。 この法案成立を許せば、国旗や国歌のようなものを「損壊」した人の内心に踏み込み、思想が弾圧の対象になるだろう。そして、市民の日常が監視にさらされ、人権が侵害され、人々を萎縮させ、統合することに利用されるのではと懸念する。 また、日本の場合は国旗国歌と天皇制はつながっている。世界的に右傾化が指摘される中、こうしたナショナリズムや国家主義的な動きへの危機感を、反対する人は持っていると思う。 ◆ これまでの議論では、「立法事実」に該当する「損壊」の具体例が極めて少ない。「予防的立法事実」という言葉も編み出されたが、「予防的」は戦前の治安維持法に代表される治安立法や、戦争における先制攻撃の正当化を連想させる。 さらに、法案の処罰基準は「人に著しく不快または嫌悪の情を催させる」ことと、あいまいだ。こうした抽象的であいまいな「容疑」をもとに警察が捜査し、市民の情報を収集することは、冤罪を繰り返してきた公安警察の違法捜査にお墨付きを与えるものともいえるのではないか。 国旗損壊罪は高市早苗首相の肝いりと言われるように、非常に根強く国旗に思い入れを持つ人たちがいる。参政党などの保守的な政党も「侮辱」を目的にした損壊への処罰を求めている。そうした人たちの考える方向に進むのが国旗損壊罪だ。 国旗そのものの問題性に加え、「損壊」への「処罰」を当然とする社会が私たちにもたらすものが大きいだろう。社会が萎縮し、自分の意見を表明することが押しつぶされていく。 ◆ 私たちは国旗国歌法に反対しようと会を作ったが、同法以前から「日の丸・君が代」の強制は進んでいた。 転機は85年の文部省(当時)による、全国の小・中・高校などの入学式や卒業式での国旗掲揚と国歌斉唱の調査と通知だ。自治体ごとの実施率では、沖縄はほとんど掲揚せず、東京、神奈川、北海道、京都など低い自治体があぶり出された。 調査を受けて、掲揚率が低い地域への締め付けが起きた。87年の沖縄国体では、反戦地主の知花昌一さんがソフトボール会場に掲揚された日の丸を引き下ろして燃やし、器物損壊罪などで有罪になった。だが、沖縄戦の記憶がある沖縄では反対が根強かった。 99年2月には広島県立高校校長が、国歌斉唱の徹底を求める教育委員会と反対する教職員などとの板挟みを理由として自死する事件が起きた。それを逆手に取ってできたのが国旗国歌法だ。 学校現場の強制の状況に危機感を感じていた私たちは同法への反対運動を行ったが、当時は「なぜ今、こんな法を」という社会の空気があり、国会の状況も現在と異なっていた。 当時の小渕恵三首相は「義務づけることは考えておらず、国民の生活に何らの影響や変化が生じることはない」と明言し、そう言わないと法律はできない状況だった。自民党が望んでいた「尊重規定」(尊重義務を課す)も外したことで可決された。 「義務づけ」はないと明言しながらその後、東京都では2003年10月23日に東京都教委が、教職員に入学式や卒業式などでの「日の丸」の掲揚と「君が代」の斉唱を義務付ける職務命令を通達。大阪府は11年、大阪市は12年に国旗国歌の掲揚・斉唱を条例で義務づけるなど、国旗国歌法は強制の根拠として力になっていった。 現在は、ほとんど学校で議論されず、社会全体が国旗国歌を許容するようになっている。たとえばサッカーなどスポーツの国際試合でも日の丸が掲げられ、抵抗感を持つ人がいる一方、何も思わない若い世代も増えている。それは学校でも教えず、旗や歌の意味を伝えられずにきた人が増えている証しだろう。 ◆ 衆議院での審議では、日本維新の会の議員による「国旗損壊罪によって教育機関を正常化し、『自虐史観』から抜け出させる」という主張も見られた。教科書の記述からもなくなり、今の学校では戦争加害をすでに教えられないような現状だが、そうした状況がさらに進むのでは、という危機感が学校現場にはある。 これまでも「日の丸・君が代」を突破口に、学校全体の管理体制が強化され、民主的なシステムがつぶされてきた。職員会議は校長のトップダウンの場となり、異論を許さない体制になっている。教育基本法「改正」や道徳の教科化など、安倍晉三政権下で大きく進んだ国家主義的な教育がますます進むようになるのではないかと不安だ。 学校は、多くの人たちがそこを経て大人になり、社会に出ていく。学校が変われば社会の空気も変わる。戦後教育が曲がりなりにも持っていた戦争への反省の視点なども押しつぶしていくのではと思う。 「強い国」を唱える高市首相が対外的に戦争できる体制を作っていくときには、内側もがっちりと固めないといけない。そのためにも、国家主義的なナショナリズムの縛りを必要とするということではないか。 現に今回、天皇制のさらなる制度維持に向けた皇室典範改正も同じタイミングで打ち出される。天皇制は差別の大本とも言え、家父長制のモデルとしてその頂点にある。 一体どういう社会にしようとしているのか。おとなしい国民に、「役に立つ」外国人だけ。天皇制同様、国旗国歌も思考停止のようにタブー視し、長いものに巻かれろという社会になっていくのか。 みんな意見が一緒なんてありえない。さまざまな考え方を尊重しなければ、思考は貧困になる。強制がいいことだとは思えない。 差別や排外主義の跋扈(ばっこ)する社会であらがう人たちがいる。その人たちと連帯していきたい。そして、希望ある社会のためには多様な意見の人たちがいたほうがいいのだと強調したい。<きょうごく・のりこ> 「『日の丸・君が代』の法制化と強制に反対する神奈川の会」メンバー。 2022年3月まで県内公立小学校の事務職員。1999年の国旗国歌法に反対し同会を立ち上げ、毎年舂に「強制反対」のデモを実施している。2026年7月5日 神奈川新聞朝刊 14ページ 「時代の正体・高市政権考-意見 押しつぶすもの」から引用 この記事は、民主主義の基本に照らして現在の政府のやり方がいかに間違っているか、如実に示しており良い記事だと思います。日本政府は1945年に連合国側のポツダム宣言を受諾して全面降伏をした後、GHQの占領が終わってからも日の丸や君が代を国旗・国歌であると定めた法律を制定せず、野放しの状態で放置して、私たち国民は大相撲の千秋楽で優勝力士を表彰するときに歌うのが「君が代」で、小学校の運動会で万国旗を飾るときに「日の丸」が日本の旗だ、という程度の認識でした。しかし、本来であればその時期に、「日の丸」と「君が代」は朝鮮半島を植民地にし中国大陸を侵略したあの時代を象徴する旗であり歌であるということを、日本人は再確認し、これからの国旗・国歌がそんなもので良いのか、という議論をするべきだったはずです。現に、ドイツとイタリアは過去の侵略戦争を反省し、民主主義諸国の一員として再出発する「証」として新しい国旗・国歌を制定しているのですから、日本もそれに習うのが本来の「道」であったはずです。そのタイミングを逸して今日に至ったからには、今後は明治維新以来の日本がどのような歴史を歩んできたのか、よく学習して、これからはどのように進むべきかを考える機会を多く持ちたいものだと思います。