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テーマ:日本の歴史(1071)
カテゴリ:古代史レポート
今日は愛車に中でジョン・リー・フッカーのブギを満喫しました。傑作ブギー・チレンを大音量で聴くと、ジョンが足を踏み鳴らすストンピングが目に浮かんできます。
思わずボクも足踏み・・・ あぶないって、運転中なんだから。 このオッサンのセミアコから刻まれるリフがたまりましぇん。 さて、中国文献からの日本古代史の検証も後半に入ります。 最後はお馴染みの魏志倭人伝です。 その前におさらいをしましょう。 1.旧唐書では、7世紀後半の日本には2つの王朝があったと書か れていた。 2.隋書では、7世紀前半の日本の王はアメノタリシヒコと証言 しているが、大和朝廷で、それに符号する人物は見当たらな い。 3.宋書では、4世紀後半から5世紀前半までの5人の日本の王 のことが記録されているが、大和朝廷の王君と符号しない。 以上、3点の中国史書から考察すると、次の仮説が生まれます。 「4世紀後半から7世紀後半までの300年間、中国から認められていた日本の王朝は、大和朝廷以外である。」 すごいことになってきました。 では宋書以前に書かれた中国史書である魏志倭人伝では、 日本のことをどのように紹介しているのでしょう。 ザックリ言いますと、 1)帯方郡(現ソウル付近)から邪馬台国までの行程記事 2)倭国の風俗や階級について 3)女王卑弥呼が魏国に朝貢したことについてと 中国の返礼について ここで「親魏倭王」と刻印された印綬をもらっています。 4)邪馬台国の敵国である狗奴国との紛争について 5)卑弥呼の死と次の女王「壱与」について よく巷では邪馬台国論争といいますが、 1)の行程記事から、邪馬台国の位置を特定しようとすると、なぜか九州を突っ切って太平洋の彼方に出てしまうので、 魏志倭人伝の原文を改定して(南は東の間違えだ、とか一ヶ月は一日の間違えだ、というように)やれ近畿だ、やれ九州だ、と言っているのです。 ここでもやっぱり原文改定の罪を犯しているのです。 原文改定を行う場合は徹底した資料批判をし、改定するためには充分な裏づけが必要なのですが、それをやっていない。 邪馬台国はどこにあったのか、もう10年以上前ですが、 私なりに研究をしましたが、どうにもわからない。 そんな時に出会った本が「邪馬台国はなかった(朝日文庫) 古田武彦著」でした。 目からウロコとはまさにこのこと! 古田氏の徹底した資料批判から、魏志倭人伝はむちゃくちゃ信用できる、と思いました。 その結果、倭人伝は原文改定して読んではならない、 このスタンスを崩してはならないのです。 その資料批判の最大のものが「距離の単位」です。 お~もう11時半だ。そろそろ帰らなければ。 いいところですが、次回に「つづく」です。 明日は次男坊のソフトボールの練習です。 恥ずかしながら、私、コーチをしています。 子供たちの上達する姿を見るのが楽しみで、 最近はまってるんです。 それでは、SEE YOU NEXT TIME お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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