|
テーマ:日本の歴史(1071)
カテゴリ:古代史レポート
12歳の時でした。
ジャンプスーツに身をかため、 ベースを弾きながら叫ぶ姿を見て、 心躍らせました! スージークアトロ このジャンプスーツの下はノーパン・・・・ 聞いただけで、ときめいちゃいました。 ロックしてますよね。 さて、昨日の続きです。 西暦629年に田村皇子が即位して舒明天皇になった、 というのが日本書紀の記載であり、通説となっています。 しかし前回書いたようにどうも矛盾が多かったですね。 そこで素盞嗚仮説では、 実は山背大兄王がが皇位に就いた、 そう考えてみました。 山背は蘇我に対し従順な姿勢を取っていたんですが、 皇位に就くやいなや反蘇我に回った。 反蘇我は反九州倭国を意味しますね。 なんてったて蘇我氏は九州倭国から派遣されたんですから。 山背は反蘇我として、何をしたんでしょうか? いきなり蘇我氏に戦いを挑むとは思えませんね。 バックに九州倭国がいたんですから。 まずは九州倭国の動きを止めることを考えたんじゃないでしょうか。 近代史でも似たようなことがありました。 満州事変 天才参謀と言われた石原莞爾は 自軍の兵力の何十倍という満州軍を電光石火の如く打ち破りました。 実は石原が一番恐れたのは この戦いによってアメリカ、イギリス、フランスなどが、 軍事参入してくることだったんです。 そこで石原は虎視眈々と時期を見計らっていた。 要は連合軍が満州などに構っていられない状況になるのを待って、 満州軍に襲い掛かったんです。 山背は大和で「こと」を起こしても 九州が動けないような状況を作りたかった。 その状況とは何か? 九州のアキレス腱とは何か? そう、「唐」です。 九州は唐と正式に国交を結んでいないんです。 唐にしてみれば、九州倭国対策として、 極東に臣下の礼をとる国を作りたかったはずですね。 そこで「山背天皇」は蘇我にバレないように 唐に密使を送った。 もちろん国書を携えて。 通説でいう607年の聖徳太子による遣隋使、 ここにも矛盾があることは以前書きました。 607年に行われた遣使は九州倭国のタリシヒコが行ったものです。 実は大和は中国と国交を結んだのは、 「山背天皇」によるものが始めてだったんじゃないかと思っています。 恐らく630年前後でしょう。 そして唐は大和の遣使を喜び、 唐側の国書を携え、今度は逆に大和に使節を派遣した。 632年に唐から使者がきた、と日本書紀にも記載があります。 九州倭国と蘇我氏は この山背天皇の取った行動に激怒したことでしょう。 しかし、九州は唐とは国交断絶中、 唐の使者に手を出す訳にはいかず、 コメカミをぴくぴくさせながら、 この大和・唐間の国交樹立を眺めていたんでしょう。 これで九州倭国や蘇我氏は 迂闊に大和に手を出せない状況になりました。 第1ラウンドは山背の勝利です。 さて次回から第2ラウンドです。 この屈辱的な状況を九州倭国と蘇我氏が 黙って指をくわえていたとは思えませんね。 さてどんな手を打ったんでしょう? 明日は東京でセミナーです。 では、 SEE YOU NEXT TIME お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[古代史レポート] カテゴリの最新記事
|