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テーマ:日本の歴史(1071)
カテゴリ:古代史レポート
九州にはたくさんの仲間がいます。
みんな大丈夫かな。 長崎にはイキの良いリフォーム会社の専務。 宮崎には西郷隆盛みたいな工務店の社長。 福岡にはブログで知り合ったバンドマン・・・ さて、今日から倭人についてやっていきます。 世に言う「魏志倭人伝」、 これを「三国志」魏書東夷伝倭人条というべきである、 などという研究者がいますが、不思議でたまりません。 実際に資料(版本)を見てみると 事実「倭人伝」と書いてあるんです。 正確にいうと「三国志」魏書巻30・東夷伝倭人伝というんです。 別にどーでもいいことですね・・・ すんません(ペコ) さて、その倭人伝、 冒頭にはこんなことが書かれています。 倭人は帯方の東南海中の中に在り、 山島に依りて国邑(コクユウ)を為す 「倭人」という言葉から始まっているんですが、 これが実は風変わりなんですね。 東夷伝の中には倭人伝の他、 高句麗伝や韓伝とかがあるんですが、 倭人伝以外は 「高句麗は・・・在り」 「韓は・・・在り」となっていて、 「高句麗人は・・・」とか、 「韓人は・・・」 とはなっていない。 倭人伝だけが「倭人は」で始まっているんですね。 いったいなぜでしょう? まずひとつ考えられることは、 倭人という言い方は、 三国志を書いた陳寿が初めて使った言葉ではないんですね。 三国志が書かれた3世紀以前の資料にも 「倭人は」、「倭人は」と使われていたんです。 そういう歴史的慣行として使われてきた 「倭人」という表現を踏襲した訳です。 もうひとつ考えられることは、 「倭人」としての特徴をもった民族は ひとつの「国」にだけいたのではなくて、 多くの国に分かれていた。 魏志倭人伝を見てみても 倭国として30もの国を紹介しているんです。 国はたくさんあっても 同じひとつの特徴をもった民族だったので、 「国」として紹介するのではなく、 「人(民族)」として紹介したんじゃないかなぁ、 なんて考えています。 わかりやすく言うと 戦国時代に「国」がたくさん分かれてましたよね。 でもその国を構成している「人」は「日本人」だった。 そういうことだったんじゃないかなぁ、と思います。 さて、その倭人なんですが、 中国の資料にはいつ頃登場するんでしょうか? こいつがね、調べてみたら随分古いみたいなんです。 紀元前1000年・・・・ 今日からMikku画伯の個展が銀座で始まります。 夕方、酔鯨風太氏と行ってきます。 もちろんその後イッパイやってきます。 銀座のね、こじんまりとした「和」の店。 むふふ、楽しみじゃーん! SEE YOU NEXT TIME お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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