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テーマ:日本の歴史(1071)
カテゴリ:古代史レポート
そういえば、ダイエットしようって思ったのに、
全然努力しとらん・・・・ いかんいかん。 チットマジメに取り組まんとね♪ こんなの読んでがんばります。 見てろよ、jackblue! さて「共同改定」問題。 少々長くなりますが、一気にいきます。 ・・・・・多分 一昨日書いた、 魏への朝献記事についての5つの疑問について 考察を加えていきます。 まず前提として、 この景初年間の魏の情勢を三国志の帝記から列記します。 1.景初二年一月 魏の明帝は、反乱を起こした遼東の公孫淵討伐の 詔勅を発して、遼東征伐の兵を出しました。 2.同年六月 魏軍は戦いを優勢に進め、軍は遼東の公孫淵の城を攻め立てました。 籠城している公孫淵軍は食料も尽き、 人肉を喰うという惨状になっていた。 この時点で勝負あった!って状況だったんでしょうね。 3.同年八月 公孫淵は首を斬られ、魏軍は洛陽に凱旋しました。 4.同年十二月 魏の明帝は急病で倒れ、危篤になります。 5.翌景初三年一月 明帝死亡! 代わって斉王が位を継ぎました。 6.同年十二月 斉王は詔勅を発し、 「この一年先帝の喪に服して、一切の諸行事を停止してたけど、 年も変わるんで、来年早々からまたもとのように いろんな行事を再開しまーす♪ で、年号も来年から『正始』にしますよー」 景初二、三年の魏はこのような情勢だったんです。 問題の卑弥呼の使い、難升米等が帯方郡に着いたのは六月で、 下賜品の目録をもらったのは十二月です。 これが景初三年だったらどうだろう。 魏の明帝の喪に服している時に朝献したことになりますね。 どうです、あり得ないですね。 「6」で示した通り、景初三年は喪に服して諸行事を ストップさせてるんですから。 しかも前述した5つの疑問にもまったく答えることができない。 では、原文通り景初二年としたらどうなるでしょう。 二年の六月は魏軍が公孫淵をガンガン攻めてる時です。 帯方郡のあった半島北部はまだまだ混沌としていたことでしょう。 こんな時期にわざわざ遣使を出したのはなぜでしょうか? あり得ない! そう言ったのは新井白石でしたが、素盞嗚氏は 「こんな時だから敢えて危険を冒して朝献した」 そう思っています。 なぜなら、倭国は従来中国に使いを出す際は、 もともと公孫淵の勢力下にあったんです。 しかし公孫淵は魏に反乱を起こした。 そして、形勢が魏に有利と見た卑弥呼は、すかさず 「倭国は今まで公孫淵を通して貢献してたけど、 公孫淵は逆賊なんで、もう公孫淵とは縁を切りますよ。 だから今回は陣中見舞いの意味も込めて 帯方郡経由で洛陽に朝献しました」 卑弥呼はこのような外交戦略をもって 魏に朝献したんだと素盞嗚氏は考えます。 こう考えると、前述の5つの疑問がすべて解けるんです。 ううう・・・・ ダメじゃ。 一気に最後まで行こうと思ったけど、 呑み過ぎでカラータイマーが切れてきた・・・・ いいとこで終ってすんましぇん。 明日は午前はいつものソフト。 午後はバンドの練習です。 レコーディング・・・・・ なかなか進まないんです・・・・ 昨日、たくさんコメントいただきました。 ありがとうございます。 返事を書くとまた切なくなるんで、 ここでまとめて書きます。 「みんなありがと。 みんな大切な仲間だよね。 ひとりひとりを大切に ひとりひとりを愛していきたい、 そう思っています。 みんな大好きです♪」 モーホじゃないよ・・・・ SEE YOU NEXT TIME お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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