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カテゴリ:本について
![]() 浅田次郎の「五郎治殿御始末」に続く時代小説。 筆者が祖父から聞いた幕末御家人の逸話の断片をまとめた、とあるが。小説として再構築されたと言うべきか。 戦もなく立身出世ところか俸給加増も望むべくもなく、それどころか体面を保つために借金にがんじがらめにされた御家人の武士としての生き方、最後の姿を描いている。 表題の「お腹召しませ」で武士としての最後決着の付け方としての切腹に対する様変わりを、次の「大手三之御門・・」では、お城勤めの様変わり。 「安藝守様御難事」では大名の「女敵討」では武士の妻、「江戸残念考」では武士の家族、そして最後の「御鷹狩」では次代を担うべき若侍達。 こうした各世代、身分の人達の生活、心の拠り所である「御家」の傾きによる変化を歴史の表舞台での動きとは違った視点で描いている。 巻末に筆者が『跋記』として書いている。 「小説はその奔放な嘘にこそ真骨頂があり、歴史学に嘘は許されぬと信じていたから歴史小説を楽しむことなどできるはずはない。小説として読めばわずかな学術的説明も邪魔に思えてならず、また歴史として読めば処々に腹立たしい記述を発見してしまう。」 私も同様に感じていた。「歴史小説」と言う分野を読むにあたっての疑問。これを事実として捉えて良いのか?知識として蓄えて良いのか?単なる娯楽上の創り事か?最近、訳がわからなくなっていた。歴史上の新発見!新解釈!といった帯を巻かれて並ぶ歴史小説に手が出なくなっていた理由だ。 「嘘と真実とが、歴史小説という器の中で何ら矛盾なく調和していなければならぬ。これは奇跡である。」 そのとおりだと思う。そしてそれを作者自ら告白する姿に共感を覚える。 そして最後に『覚悟』を記されている。 「貴き母国語の司祭たる小説家は、その記す言葉の一句一行に責任を負わねばならぬ。全きものをめざすものであれば、時として史実にそむくこともありうる。本来相容れざる文学と史学とのいわば不義の子としての歴史小説を、あえて世に問う私の覚悟はこれである。」 物語もさることながら、最後のこの「跋記」でまたとても良い気分にさせて貰った。 読んでいる間のバックグラウンドミュージック・・何故かこれ。 ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006年03月08日 12時04分35秒
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